西脇のことばは、いったい幾種類あるのだろう。いろいろな響きが楽しめるが、いなかの、ひなびた(?)感じの音も私にはとても魅力的に感じられる。そして、それを強調するような、遠い音の存在--その落差が楽しい。
「留守」
十一月の末
都を去つて下総の庵(いおり)に来てみた
庵主様は留守だつた。
平安朝の黒い木像に
野辺の草木を飾るその草も
枯れていた
もはや生垣のむくげの花も散つて
田圃に降りる鷺もいない。
竹藪に榧(かや)の実がしきりに落ちる
アテネの女神に似た髪を結う
ノビラのおつかさんの
「なかさおはいりなせ--」という
言葉も未だ今日はきかない。
「なかさおはいりなせ--」。なんでもないことばのようだが、この口語のふいの乱入が、すべてのことばを活気づかせる。2行目の「庵主様」というひなびた音と通い合うのだが、そういう口語、日本語のひなびた響きと「アテネ」という外国語が並列に置かれる。そこに西脇独特の「音楽」がある。
西脇のことばは、一方で先へ先へと進む「意識の流れ」のようなものが主流だが、他方でその流れには常に平行して流れる伏流のようなものがある。それが、ふっとあらわれ、合流する。そのとき、その両方の流れが輝く。
「アテネ」と「なかさおはいりなせ」では、ほんらい、その「基底」となる「文脈」が違うと思うが、つまり、ふつう、田舎の風景を描くとき、アテネというようなものは遠ざけられ、田舎の風景の文脈の中からことばが選ばれるのが基本的なことばの運動だと思うが、西脇にはこの「文脈」の意識がない。
いや、それを、外してしまうことが西脇のことばの運動の基本なのだろう。
違う文脈、ありえない文脈の出会い。そこで、「音」が活性化する。「アテネの女神」という「音」がなかったら、「なかさおはいりなせ」という音は、それまでの「音」に紛れ込んでしまう。「意味」になってしまう。
「都」から離れた田舎、その風景。そこには草木だけではなく、「おつかさん」という人間さえもが風景になる。そういう固まった(固定化した)風景のなかでは、その「おつかさん」が「なかさおはいりなせ」といっても、それは風景にすぎない。
それでは、詩にはならない。
音がめざめる。そこから、ふたたび下総の風景へことばはかえっていくけれど、そのとき、ことばはもう「意味」ではない。純粋に「音楽」である。
秋霊はさまよつて
天はつき果てたようだ
ただ蒼白の眼(まなこ)に曇つてみえるのは
うす桃色の山あざみだ
何処の国の夕陽か
その色は不思議な力をもつている。
思わず手折る女つぽい考えは
咲いては散り、散つは咲く
このつきない花の色に
ひとり残されて
庵主の帰りを待つのだ。
「思わず手折る女つぽい考えは」という1行の「意味」をどうとらえていいのか、私は考えないのだが、その行に繰り返される「お」の音の美しさ、そしてその音の繰り返しが次の「咲いては散り、散つは咲く」ということばの繰り返しにかわるときの「音」の不思議な動き--音は音に誘われて音を真似する(?)というのか、自然と「文体」をつくってしまう不思議さに、なぜか酔ってしまう。
「このつきない花の色に」の「この」もとても気持ちがいい。「このつきない花の色」は「山あざみ」の色かもしれないが、「うす桃色」だけではなく、そういう具体的な「色」ではなく、「女つぽい」を含んだ「この」という感じが自然につたわってくる。うーん、それとも「ひとり残されて」が「女つぽい」のか「庵主の帰りを待つ」が「女つぽい」のかわからないけれど、「この」という音を中心にして、全体がひとつの「音楽」になる。そういう感じがする。
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