たかぎたかよし『回遊と伏流』(霧工房、2010年01月14日発行)
推敲ということばが随所に出てくる。たかぎたかよしは推敲のひとである、といっていいかもしれない。
たかぎを「推敲」へと動かしているのは「行先」ということばである。なんのために「推敲」するか--そう問われたとき、たかぎは、ことばを、「いま」「ここ」に定着させるのではなく、ことばがこれから向かう先、その行き先へ自然に(? 自由に、自らの力で)動いて行けるようにするため、というかもしれない。
「その下に死が横たわっている」と書いてしまえば、ことばは、そこで止まってしまう。ことばで完全に世界を「定着」させるのは、それはそれでいいのかもしれないけれど、高木はそれを望んでいない。自分の書いたことばで「世界」が完結するのではなく、そのことばがどこかへ動いて行って、そこに、いま、ここにはない世界が完成する--そいういうことを願っている。
「詩行は、その行先を内に抱いているのだろう。」は、そういうことを言おうとして書かれたことばであるように思える。
このことばでおもしろいのは「行先」と「内」ということばの対立(?)である。「行先」とは「いま」「ここ」ではないところである。しかし、その「行先」をことばは「内」にもっている。「いま」「ここ」から離れた場所が「行先」なのではなく、「いま」「ここ」の「内」こそが「行先」である。
これは矛盾である。そして、矛盾であるから、それは「思想」であり、「肉体」である。
「行先」(自分より、外)と「内」は本来切り離されたものであるが、その切り離されているはずのものが実は「表裏一体」のもの、ひとつのものである。そういう「表裏一体」「ひとつ」のものとしての「ことば」にかえるために、たかぎは「推敲」する。
そして、推敲すればするほど、ことばは「表裏一体」(複数であるのに「ひとつ」)という世界へ近づいていく。そして、そのことばが「表裏一体」に近づけば近づくほど、あたりまえのことかもしれないが、「内」(内部)に矛盾したもの、「流通言語」ではいいあらわせないものが蓄積してくる。そして、どうなるか。
たかぎは、次のように書いている。
最後の、
が、「表裏一体」(ひとつ)ということに繋がる。ことばをとおして「私(たかぎ)」と「机」が表裏一体になる。私はもとより机ではないし、机は私ではない。けれど、そこにあるものを「机」と呼ぶとき、「私」は何なのか。
机を私と切り離して、あくまで机というとらえ方もできるが、机を机と呼ぶとき、私自身が机となって存在するということも可能なのだ。私の中にある机という名の意味を私がよしとするからこそ、そのとき机は私とともに存在する。もし、私のなかの机という名に対して私が異議をもつとき、それは机ではなくなる。
たかぎが書こうとしているのは、「表裏一体」(ひとつ)には、常に「私」が含まれるということである。私自身が対象と「表裏一体」(ひとつ)になるために、「推敲」がある、ということである。
その「ひとつ」になる過程(運動?)のあり方を、なんと呼べばいいのだろう。たかぎは、細見和之翻訳のベンヤミンを引いている。
「神」。ベンヤミンなら「神」と向き合うことが推敲なのだ。推敲は、ベンヤミンにあっては、ひとつの絶対的な宗教なのである。たかぎとベンヤミンの関係は、私にはよくわからないが(ベンヤミンを私は読んでいないので、さっぱりわからないのだが)、たかぎにとって推敲は、絶対的宗教のようなものである。「世界の一体感」というか「世界」を自己と一体のもの(表裏一体、という意味であって、独裁という意味ではない)という境地に到達するための、強い祈りのようなものである。
--私は無宗教なので「神」ということばを無造作につかっているかもしれないが、そんなことを感じた。
たかぎのことばには、ことばの絶対性への強い希求があると感じた。
推敲ということばが随所に出てくる。たかぎたかよしは推敲のひとである、といっていいかもしれない。
いったい詩はどこにとどけられるのだろうか。
蟹のよ
土を落とすと どこまでも限りなく吸い込まれて
雨は誘われ しみゆき 止まず (詩「しおりの径」より)
土に開いた黒い穴。そこに「雨は誘われ」て止まない。そう書いて落ち着いた。推敲時、「その下に死が横たわっている」と書いたりしたが、筆を置けなかった。詩行は、その行先を内に抱いているのだろう。
たかぎを「推敲」へと動かしているのは「行先」ということばである。なんのために「推敲」するか--そう問われたとき、たかぎは、ことばを、「いま」「ここ」に定着させるのではなく、ことばがこれから向かう先、その行き先へ自然に(? 自由に、自らの力で)動いて行けるようにするため、というかもしれない。
「その下に死が横たわっている」と書いてしまえば、ことばは、そこで止まってしまう。ことばで完全に世界を「定着」させるのは、それはそれでいいのかもしれないけれど、高木はそれを望んでいない。自分の書いたことばで「世界」が完結するのではなく、そのことばがどこかへ動いて行って、そこに、いま、ここにはない世界が完成する--そいういうことを願っている。
「詩行は、その行先を内に抱いているのだろう。」は、そういうことを言おうとして書かれたことばであるように思える。
このことばでおもしろいのは「行先」と「内」ということばの対立(?)である。「行先」とは「いま」「ここ」ではないところである。しかし、その「行先」をことばは「内」にもっている。「いま」「ここ」から離れた場所が「行先」なのではなく、「いま」「ここ」の「内」こそが「行先」である。
これは矛盾である。そして、矛盾であるから、それは「思想」であり、「肉体」である。
「行先」(自分より、外)と「内」は本来切り離されたものであるが、その切り離されているはずのものが実は「表裏一体」のもの、ひとつのものである。そういう「表裏一体」「ひとつ」のものとしての「ことば」にかえるために、たかぎは「推敲」する。
そして、推敲すればするほど、ことばは「表裏一体」(複数であるのに「ひとつ」)という世界へ近づいていく。そして、そのことばが「表裏一体」に近づけば近づくほど、あたりまえのことかもしれないが、「内」(内部)に矛盾したもの、「流通言語」ではいいあらわせないものが蓄積してくる。そして、どうなるか。
たかぎは、次のように書いている。
「机」という名は、多くの言語で見かけは異っても、その本質に繋がる像を内在している。真の「意味」とも言えるこの像は、言語の姿でしか見出せないが、それ故に、叙述の場でなら、文体の隅々を決定しようと働きかけてくる。推敲とはそんな内圧を持つ行為なのだ。「机」の辞書的な意味の根が私という存在を伸びはじめる。
最後の、
「机」の辞書的な意味の根が私という存在を伸びはじめる。
が、「表裏一体」(ひとつ)ということに繋がる。ことばをとおして「私(たかぎ)」と「机」が表裏一体になる。私はもとより机ではないし、机は私ではない。けれど、そこにあるものを「机」と呼ぶとき、「私」は何なのか。
机を私と切り離して、あくまで机というとらえ方もできるが、机を机と呼ぶとき、私自身が机となって存在するということも可能なのだ。私の中にある机という名の意味を私がよしとするからこそ、そのとき机は私とともに存在する。もし、私のなかの机という名に対して私が異議をもつとき、それは机ではなくなる。
たかぎが書こうとしているのは、「表裏一体」(ひとつ)には、常に「私」が含まれるということである。私自身が対象と「表裏一体」(ひとつ)になるために、「推敲」がある、ということである。
その「ひとつ」になる過程(運動?)のあり方を、なんと呼べばいいのだろう。たかぎは、細見和之翻訳のベンヤミンを引いている。
ベンヤミンの考えている人間の言語の使命は、およそこの世の事柄と出来事を「神」にたいして報告し証言する、そういうコンテクストに置かれているように思われる
「神」。ベンヤミンなら「神」と向き合うことが推敲なのだ。推敲は、ベンヤミンにあっては、ひとつの絶対的な宗教なのである。たかぎとベンヤミンの関係は、私にはよくわからないが(ベンヤミンを私は読んでいないので、さっぱりわからないのだが)、たかぎにとって推敲は、絶対的宗教のようなものである。「世界の一体感」というか「世界」を自己と一体のもの(表裏一体、という意味であって、独裁という意味ではない)という境地に到達するための、強い祈りのようなものである。
--私は無宗教なので「神」ということばを無造作につかっているかもしれないが、そんなことを感じた。
たかぎのことばには、ことばの絶対性への強い希求があると感じた。
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