詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(152)

2019-05-20 08:45:44 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
152 紀元前二〇〇年に

我らは、まずアレクサンドリア人であり、
またアンティオキア人であり、その他
エジプトやシリア、メディアやペルシャ、その他、
数えきれないほど諸地域の民だが、しかしギリシャ人なのだ。
我らの圧倒的な優越性、
柔軟な政策と、叡知による統一感、
遠くパクトリアやインドまでも通用する
普遍語としてのギリシャ語。

 でも、それはもう誰も気に留めない。それはかつて「但しラケダイモンの民を除く」と碑文に書かれたラケダイモンのことを気に留めないのと同じ。言い換えると、現代ではギリシャ人はかつてのラケダイモンの民になった、という構造になっている詩の、終わりから二連目。
 池澤は、「柔軟な政策と、叡知による統一感、」という一行に、

空疎な讃辞の羅列である。

 という註釈をつけている。
 たしかにギリシャは敗北したのだから、そういうしかないのかもしれないが。
 でも、カヴァフィスは「空疎な讃辞」と思って書いたのか。
 ちょっとむずかしい。
 「ギリシャ人」が「ギリシャ語」と言いなおされる。そのときカヴァフィスが思い描いているのは「人」というよりも「人」を動かしている「叡知による統一感」ではないのだろうか。そしてこの「叡知による統一感」こそ、その国のたどりついた「頂点」であり、その国の「頂点」はいつでも「国語」によってあらわされる。
 ギリシャ人もギリシャ語も、もう過去の存在かもしれない。しかし、その過去は生きている。ギリシャ語を話す人がいるかぎり、それは生き続ける。
 最終連の一行、

今、ラケダイモンの民のことなど誰が口にしよう!

 は「今、ギリシャの民のことなど誰が口にしよう!」なのだが、誰も口にしなくても、カヴァフィスは「ギリシャ語」を口にする。その思いが隠されていると読んだ。






 



カヴァフィス全詩
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