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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(38)

2018-08-15 12:37:13 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
38 少年に その名はエペボス イスタンブル考古学博物館

 博物館で見た少年の姿に高橋は問いかけている。

きみの年齢は十五? それとも十三歳?
ではなくて二千歳 だとすれば きみの その
匂い立つばかりのみずみずしさは 何ゆえ

 問いかけながら、問いかけていない部分もある。「ではなくて二千歳」は少年の答えではなく、高橋の「答え」である。なぜ、そう答えたのか。二千年前につくられた像だから二千歳なのか。もしそうだとすれば、「きみの年齢は?」という問いかけではなくて、「何年前につくられた?」という問いかけでなくてはならない。でも、高橋は「年齢」を問いかけながら、答えとして像がつくられた年代、それからいままでの年月を答えとしている。
 ここには「飛躍」がある。あるいは「論理の矛盾」がある。
 ほんとうは年齢など問いかけてはいない。「二千年」も少年の像が経てきた時間ではない。少年の像が二千年前から「いま」にやってきたのではない。逆なのだ。像を見た瞬間に、高橋は「二千年前」を現在として生きている。言い換えると、高橋は「二千年前」にもどって像と対面している。
 だから、これにつづくことばは「二千歳」の男に対してではなく、十五歳か、十三歳かの少年に向けて語られる。

理由は その先にある成熟を拒んだこと
成熟につづくのは頽廃 更なる先は衰亡

 これは「何ゆえ」という問いに対する答えの形式をとっているが、語りかけなのだ。少年に対して「成熟を拒め」と言っている。成熟すれば頽廃する。さらには衰亡へとつづく。それが美の宿命だと高橋は知っている。だから、そうなるな、と語りかける。
 像にさえ語りかける。二千年の時間を超えて語りかける。そこに高橋の愛と欲望がある。高橋は像に語りかけながら、成熟を拒んだ少年になろうとしている。いや、すでになっている。それが高橋の愛と欲望なのだが、少年は単純に助言を受け入れるほど初ではない。
 八十歳の高橋を見つめて、人間の宿命をあざ笑っている。
 老いることを拒んだ少年の声が、高橋に、少年への「助言」を語らせるという逆説的な形で動いている。それを高橋は、喜びとして受け止めている。出会うこと、対話できることが、ことばが行き交うことが詩の喜びだ。それがどんなことばにしろ。

つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社

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