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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(149)

2018-12-04 09:49:37 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
149  モンテニューに準って

死がそんなに甘美なものならば その逐一を味わい尽したい
そのためには 死の床を囲む家族や友人は 味方というより敵
愛しているというなら どうか死にゆく私を独りにしてほしい

 こう書くとき、高橋は、死を自分のものと実感しているのか。私には、そうは感じられない。「そのためには」「……というなら」ということばには「論理」しか感じられない。「論理」というのは「感じ」がなくても動かすことができる。あるいは「感じ」がない方が簡単に動かすことができる。「感じ」というのはあいまいで、まだことばになっていないことが多い。だから「感じ」は「論理」を邪魔する。しかし、「論理」はたいがいの場合、すでにことばになっている。ことばをつないでゆけば、必然的に「論理」になってしまう。
 「味方」に対して「敵」という組み合わせが、それをいちばんあらわしている。「愛している」に対して「独り(孤独)」というのも、すでに「論理」として言い尽くされている。
 私は自分の死を実感として感じたことはないので、私の考え方がまちがっているかもしれないのだが、論理的なことばの運びを読むと、高橋も死など実感していないのだろうと思う。
 実感しているなら、高橋にしかわからないこと、つまり、これはどういう意味?と聞き返したくなるものが含まれるはずだ。私の論理(既知の論理)では追いつけないものが書かれているはずだ。

最終的に私を看取る者は私自身 介添えは闇と沈黙の二人だけ

 これは、いま日本で起きていること。独居老人は闇と沈黙を介添えにして死んでゆく。それだけではない。死んでからも放置されたままということがある。そのひとたちは、いったい、最後に何を見ただろうか。
 誰も知らない。
 人は誰でもが死ぬが、その死を語ることはできない。だから、高橋の書いていることは「論理」ではなく「真実/事実」であると受け止めることもできる。つまり、誰も否定はできない。でも、私は、それを承知で否定したい。ここには「論理」の運動しかない、と。
 もちろん「論理の運動」こそが詩である、という考え方もあるが。










つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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