詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(146)

2018-12-01 09:17:46 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
146  塔 新倉俊一に 田代尚路に

 新倉俊一は知っているが、田代尚路は知らない。並列して書いているから英文学者なのだろう。

同胞どうしが憎しみあい 殺しあった 暗い時代
詩人が籠った塔について 私たちは語りあった

 詩人の「孤独(孤立)」をテーマに語り合ったということだろう。
 最後の四行。

(生きている私たちも ひとりひとり孤立した塔
その窓が他の窓への銃眼にならないよう 心しよう)
その扉は ひたむきに叩く拳には 開かれなければ
私たちに友でない敵はなく 敵でない友はない

 括弧の中の二行は誰の詩なのか。「同胞どうしが憎しみあい 殺しあった 暗い時代」の詩人のことばだろう。「銃眼」ということばは、たぶん、いま生きている詩人のつかうことばのなかにはない。「比喩」として理解できるが、その「比喩」がひきつれている「空気」は「文学」として理解できるだけで、「現実」には迫ってこない。いまは、そういう時代である。
 「ひたむきに叩く拳」は、いまも、いたるところにある。「ひたむき」のなかの感情、「叩く」のなかの肉体の動き。それが「敵/友」をつなぐ。「ひたむき」も「叩く」も「人間」の行為だからである。そのことばのなかで、「敵/友」は「ひとり」の人間になる。

 でも、こういう「読み方」は、正確ではないなあ。

 「孤立した塔」は扉をひたむきに叩くことはない。ひたむきに叩かれることはある。つまり、「塔」は動いてはいかない。自分から世界に対して働きかけはしない。だから「孤立」といえるのだが。
 だから。
 ここに書かれているのは、「孤立」を確立した人間のことばだなあ、と思う。そして、その「孤立」の仕方は「銃眼」のように、「わかる(知っている)」けれど、いまはなまなましい比喩、世界を作り替える力とはならないと思う。
 「比喩」ではなく「意味」になってしまっている。「意味」を壊していく「比喩」が必要な時代だと思う。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社

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