goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『バウムクーヘン』

2018-08-15 09:46:33 | 詩集
谷川俊太郎『バウムクーヘン』(2018年念09月01日発行)

 谷川俊太郎『バウムクーヘン』を読みながら、ふと思うことがあった。知人に「これ読んでみて」と「あさこ」という詩のページを開いて見せた。

おんがくしつであさこはハイドンをさらっていた
わたしはうちでおなじきょくをひいてみた
なんどかつっかえたけど
わたしのほうがうまいとおもった
あさこはらいねん ウィーンへいく

わたしはそらをみるのがすき
あおぞらじゃなく くもをみるのがすき
くもはじっとしていない
かぜがないときでもかたちをかえながら
いつもゆっくりうごいている

わたしはあさこが きらいなのかすきなのか
わからない でもともだちだとおもう
ときどきひみつのはなしをメールでするから
あうとだいたいしらんかおだけど
あさこなんて ださいなまえ!

 「この、わたしって、男だと思う? 女だと思う?」
 「男」
 「えっ、どうして?」
 「なんとなく」
 あ、谷川俊太郎の詩とわかっていたからなのかなあ。
 私には、どうみても「女の子(中学生くらい)」にしか思えない。どうして、そう思うのか。もしかすると私の「女の子」に対する「固定観念」がそう思わせるのか、それを考えたくて尋ねてみたのだが、予想外の答えにとまどってしまった。
 で。
 今度は本を見せずに、コピーしたものを何人かの知人に見せた。男二人。女六人。
 全員が「女」と答えた。しかし、「どうして?」の質問には「なんとなく」が多い。「一連目の行動が女の子っぽい」「赤いスカートの女の子が目に浮かんできた」「すきかきらいかわからないけれどともだち、という言い方が女の子っぽい」「ときどきひみつのはなしをメールでするから」が女の子っぽい。「でも、あさこなんて ださいなまえ!、という批判的なところは男かなあ」。最初の知人も、ここが男っぽい、ということだった。私は逆に、こういう身がわりの速さが女だなあ、と思った。男はもっと「論理的」で、いままで言ってきたことと違ったことを、突然言うことができない。
 「年齢は?」「小学校低学年(ひらがながで書いているから)」「五、六年生くらいかなあ」と女性陣。「でも、ウィーンへいくから、小学生じゃないかもしれない」とか。
 男二人は「中学生だな」。ひとりは「うちの娘がこんな感じだ」と。
 私も中学生だと思う。中学生の男子が、女子を意識し始めるときに見えてくるもの、自分(男)とは違う異質なものが、なまなましく動いている。小学生のときには気がつかなかった何かが動いている。「なんどかつっかえたけど/わたしのほうがうまいとおもった」というライバル心とか、「すきかきらいかわからない」とか、「ときどきひみつのはなしをメールでする」とか。特に、「ひみつのはなし」のうさんくささが中学生の女子だ。男は「秘密の話」などしない。「秘密」はひとりで抱え込むものだ。いったん話してしまったら、それは「ふたりの秘密」ではなく、「仲間であることの確認」だ。いつオナニーを覚えたか、とか何回するか、とか。
 で。
 私が確かめたかったことにもどるのだが。
 ひとは生きている内に、知らず知らずに「女はこういうもの、男はこういうもの」という「感覚」を肉体の内に積み重ねる。それがことばに触れて、「あ、女だな」とか「これは男だな」という印象を持つ。「女がよく描けている」「こどもの心の動きが生々しく描写されている」というような批評は、ある意味では「固定観念」から発せられたものである。「固定観念」ではなく「共通認識」だというひともいるかもしれないが。
 どうして、そういうことが起きるのか。わからないけれど、人間は、そういうふうに育つのかもしれない。

 でも、たとえばこの詩の「わたし」が「女の子」だと仮定して、谷川は、どうしてこんなに巧みに「女の子」のことばを語ることができるのか。
 『こころ』の感想に書いたと思うけれど、谷川は他人の「声」が聞こえるのだ。シェークスピアのように、他人の声をそのまま自分の「肉体」のなかに取り込み、肉体として覚えている。ふつうは(?)、自分の声と他人の声を切り離してしまう。他人の声は、聞けばわかるが、自分の声にはしない。物真似、というのがあるが、それは目的が違う。物真似は、カリカチュア(批判/異化)だが、谷川の「他人の声」には批判が含まれていない。むしろ「同化」で成り立っている。
 そんなことを私は考えていたのだが、ひとりの女性がとても鋭い読み方をした。
 「詩のわたしは女の子だけれど、男の人が女の子のふりをして書いているような気もする」
 「どうして?」
 「うまく言えないけれど、ハイドンが出てくるところが何か違う」
 (トーンが芸術的すぎるということか。「さらう」に一瞬迷った、という声もあった。「おさいらい」の「さらう」なのだが、いまはそういうことばをつかわないのかもしれない。このあたりが「女の子」ではなく、年配の男なのだろう。)
 すると、
 「二連目が、よくわからない。なぜ、突然、空と雲にかわるのか」
 という声も。
 たしかに、ここには「女の子」らしさがない。むしろ「少年」の感覚か。
 そんな話をしていると、ひとりが突然、こう言った。居合わせたみんなが驚いた。
 「女の子って、私の方がうまいと思っても、わあ、あさこちゃん上手と、手をたたいたりするんだよね」
 これはある意味では「核心」をついていたのか、「〇〇さんにほめられたら、気をつけないといけないね」と、突然、話しが盛り上がってしまった。
 「あさこなんて ださいなまえ!」に通じるのだけれど、表面のにこやかさとは裏腹に、女はある瞬間、ぱっと変化する。別の感情がなまなましく動く。
 話が盛り上がったのは、〇〇さんを批判する(からかう)というよりも、自分と共通するものが突然出てきたので、それを隠すために、すべてを〇〇さんに押しつけたという感じだな。これも、ひとつの「女の保身術」か。
 ある意味で、彼女の発言が、この詩のいちばんのポイントだったかもしれない。

 詩は、ひとりで読むよりも、こんなふうに、詩をほとんど読まないひとのなかで読み直すと、まったく違うものが見えてくるので楽しい。

 話の後、「種明かし」に谷川の詩集を見せたら、「装丁がかわいい」と評判になった。最初に詩集を見た男も「あ、女の子が買いそうな、かわいい本だなあ」と言った。
 私は本の装丁にはまったく関心がない。印刷されている文字というか、ことば以外に感心がない。みんな同じ形にしてくれれば、本の整理がしやすく、どんなにいいだろう、といつも思っている。
 「どこが、かわいい?」
 「ミッフィーみたい」
 「どこが?」
 「花の黄色と緑の感じとか」
 「本の角っこが四角じゃなくて、丸いところも」
 うーむ。
 「角の丸さ」については、最初に詩集を見た知人(男)も指摘していた。そうなのか。そういう細部に人は目を向けるものなのか。
 というようなことも、思った。



 不満を書いておこう。
 「とまらない」という詩。

なきだすとぼく とまらない
しゃっくりみたいに なきじゃくって
なきやみたいのに とまらないんだ
もうなみだは でてこないのに
もうなにがかなしいのか
わからなくなっているのに
 
 この前半は好きだなあ。「泣いている」ということを伝えたいだけなのだ。むかし、そういうふうに泣いたなあ、と思い出す。
 でも、

ほんとはおかあさんに しがみつきたい
でもぼくはもう
いちにんまえの おとこのこだから
あまえてはいけない
そうおもったらまた
まえよりもっと かなしくなった

 この後半は「論理的」すぎる。「まえよりもっと かなしくなった」は、意味はわかるが、感情がついていかない。いや、私の「肉体」がついていかない。
 「かなしい」ではなく、何か「じれったい」ような、自分で自分の体をもてあますような感じではなかったかと、私は遠い昔を思い出す。
 「わからなくなっている」というところがよかったのに、「かなしい」と「わかってしまう」のは、論理的すぎる。

 「くらやみ」という詩のなかほど。

くらやみにはなにがいるのだろう
めにはみえないのに
みみにもきこえないのに
こころはなにかにさわっている

そのなにかとなかよくなりたい
それはわたしのこころのなかにいるのだから

 この部分は、ぞくぞくするほど好きだ。特に「そのなにかとなかよくなりたい」に引き込まれてしまう。
 でも、この「なにか」、さらに「なかよくなりたい」を次のように言いなおされると、「肉体」がはなれてしまう。

わたしはくらやみをすきになりたい
ひかりにちからがひそんでいるように
くらやみにも くらやみのちからがひそんでいる
そのちからをつかって こころのうちゅうをたびしたい

 「意味(論理)」がくっきりしすぎる。「なかよく」と「すき」は、私の感覚では少し違うから、そう感じるのかもしれない。光と闇を対比した上で「なにか」を「ちから」という抽象的なことばで整理しているのも、「こころのうちゅう」という比喩も明確すぎる。
 「教科書」みたい、と感じる。
 私は、「あさこ」の最後の行、

あさこなんて ださいなまえ!

 のような、意味を拒絶した強さ、ナンセンスな強さの方が好きだ。
 「教科書」の「意味」を突き破ることばの方が好きだ。






*

評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
バウムクーヘン
クリエーター情報なし
ナナロク社

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 天沢退二郎「四月の雨」 | トップ | 高橋睦郎『つい昨日のこと』... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩集」カテゴリの最新記事