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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(126)

2018-11-11 09:37:01 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
126  醜よみがえる

 「綺麗は汚い 汚いは綺麗--W・シェイクスピア」ということばが「前書き」のようについている。シェイクスピアのことばからギリシアを見直している。

美しさを求めつづけるあまりに 醜さを追放したのは ギリシアの行き過ぎ
追われた醜さは怨霊となり 物怪となり 古家の暗がりや地下の闇に潜んだ
気も遠くなる永い時を経て彼らは蘇った 蘇ったのみか美しさを追放しはじめた
いまでは自分たちこそ真の美しさ これまで美しさを名告ったのは化粧した醜さと
強弁してはばらない 対する昔ながらの美しさは いまや青ざめて力がない

 「論理的」な「意味」の詩である。しかし、この詩のどこにギリシアがあるのか。否定されているだけなのか。
 四行目の「真の美しさ」の「真」がギリシアだ。「真」を求めてしまう、「真」に集中してしまうのがギリシアだ。シェイクスピアも「真」を追い続けるとき、ギリシアになる。
 高橋も、「美しさ」と「醜さ」の関係を追い掛け、その果てに「真」にたどりつく。
 しかし、「真」といっても、それは永遠に「真」であるかどうかはわからない。
 いま、ここで「真の美しさ」と呼ばれている「醜さ」も「化粧」したものの姿かもしれない。
 高橋は「真」に対して「化ける(化かす)/装う」を対比させているが、この「化ける(化かす)」というのは「運動(動詞)」である。「真」も「真を求める」という「運動(動詞)」である。
 「真」であるかどうかは、そのときどきによって変わる。しかし、そこに「運動(動詞)」があるということだけは変わらない。
 この「動く/変わる」ときの「エネルギー」の集中力がギリシアだと私は思っている。高橋が考えていることとは違うかもしれないが。

 「強弁する」も「動詞」、「青ざめる」も「動詞」。どこに集中していくかは別にして、集中していけば、そこに「何か」があらわれる。
 シェイクスピアも「綺麗は汚い 汚いは綺麗」とことばを往復させている。動き回るときだけ、存在するものがある。「変わる瞬間」に、突然、あらわれる「見えない」ものが「ある」。
 「真の」ということばをつかうしかなかった、その瞬間に、この詩には「言語化」されていないものが動いている。


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