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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(111)

2014-07-11 10:10:20 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(111)        2014年07月11日(金曜日)

 「ニコメディアのユリアノス」については中井久夫が注釈で、ユリアノスは公式にはキリスト教徒であったが、ひそかに異教の儀式にこころを傾けていた。そして精神的にはキリスト教徒であると示すことが安全であった、と書いている。ニコメディアにユリアノスがいたのは二十歳の時であった、マクシムスはユリアノスに魔術を手ほどきしたとも書いている。
 そのユリアノスにガルスという男が進言する。その様子を中井久夫は、描写と進言を区別せずに訳出していて、これが不思議なリズムになっている。

ユリアノスの寵臣らはみなアホウ。
マルドニアスの曰く、行き過ぎもいいところでございます。

噂の広まらぬよう、なんとしてでもいたすべきです。
そこでユリアノスはニコメディアの教会に参詣。

 まるで劇を見るよう。いや、ト書きつきの劇の台本を読むようだ。カヴァフィスの詩の劇的要素を、中井久夫は「アホウ」というような口語をまじえながら詩に引き戻している。「アホウ」と「……ございます」「……です」という丁寧な言い回しが向き合って、複数の人間が動き回っている感じがいきいきと伝わる。
 複数の人間を感じさせた上で、詩は展開する。

また下から二位の聖職者に身をやつして、
いともうやうやしく、聖書を大声で読んだ。

そのキリスト者になっての
敬虔さ加減にみんなは呆れっぱなし。

 ユリアノスの思惑がどうだったのかは別にして、その行動を「みんな」が侮蔑していたことがわかる。ユリアノスが何のためにそういうことをしているのか、「みんな」わかっていた。「そのキリスト者になっての」の「なっての」(ふりをしての)という冷めた見方が強烈である。「みんな」は知らないと思っていたのはユリアノスだけである。
 そういう状況のときの、大衆(みんな)の心の動き(主観)が、この詩をいきいきさせている。「呆れっぱなし」は、その大衆の肉体で表現した声である。ことばにしなくても肉体(態度)にあらわれてしまう「本心(本音)」あるいは「主観」というものがある。それはときとしてことばよりも明確である。
 カヴァフィスは個人の主観を強烈に描き出すことが多いが、こんなふうに「大衆」の無言の声をもはっきりと聞き取り再現する耳(眼)を持っていた。
 中井久夫は、またカヴァフィスと同じように、複数の人間の声を聞きとる耳と、聞きとった声を再現する声を持っている。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

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