誰も書かなかった西脇順三郎(218 )
『壌歌』のつづき。
「人間でないものは神々だけだ」以下の3行は、「意味」はわかるが、その「意味」を中心に考えると、「定義」として奇妙であることに気がつく。「人間でないもの」はほんとうに「神々」だけか。たとえば「動物」「植物」、あるいは水や光。音や匂い。それもみんな「神々」? そうでもいいけれど、ここはやっぱり「神々は人間ではない」を言い換えたもの(言い間違えたもの)と受け止めた方が「意味」として通るだろうなあ。動物は死ぬからね。動物が苦しんでいるのを、私はみたことがある。動物が苦しんでいると思うのは私の錯覚かもしれないけれど。
で、もし、ここで書こうとしていることが「神々は人間ではない」という定義だとすると、なぜ、西脇はそういう書き方をしなかったか。それは「人間でないものは神々だけだ」という音が自然にでてきたからだ。そして、それにあわせて「……ないものは神々だけだ」という音が「音楽」となって繰り返されたのだ。音が「意味」に優先するのである。
そして。
この音が意味に優先するということは、「意味」が生まれはじめると、それを壊すという運動が続くことにもあらわれている。西脇は「意味」が独立して歩きはじめるのを好まない。その歩みを叩き折る。
「神々だけだ」の後に、詩は、こうつづく。
葡萄のたねをはきだすという「人間的な」行為。(私は、葡萄の種をはきだすことはしないのだけれど。)この、あまりにも「肉体的」な描写と「神々」定義--これは、なじまないね。そして、そのなじまないことろが、音楽としておもしろい。
あ、このことばにはこんな音があったのだ、と驚く。葡萄の種をはきだす--そういうことばさえ、音楽として、詩の中に生きるのである。
「世田谷」は漢字で書いてしまうと「意味」になる。「意味」を解体して、音にしてしまうために西脇は「セタガヤ」とカタカナにしている。
「よぶある夕暮れもあつた」からの3行は、私はとても好きである。なぜ好きかというと--私は、そのことばを思いつかないからである。書いてあることはわかるし、偶然、そういうことばの順序で言うことがあるかもしれない。「それはその後の出来ごととして/よくおぼえている」というのは、何か聞かれて、そんな具合に説明することがあるかもしれない。でも、書く時、そのことばは出てこないなあ。あ、こういう言い方がある。あ、この言い回しの音のなんと美しいことだろう、と私はぼーっとしてみつめてしまう。あ、こういうことば、このことばそのものを、どこかで自分のものとして書いてしまいたい、とひそかに思ってしまうのだ。

『壌歌』のつづき。
もうアスの神への祈りも
全くおくれてしまった
人間でないものは神々だけだ
死がないものは神々だけだ
苦しみのないものは神々だけだ
「人間でないものは神々だけだ」以下の3行は、「意味」はわかるが、その「意味」を中心に考えると、「定義」として奇妙であることに気がつく。「人間でないもの」はほんとうに「神々」だけか。たとえば「動物」「植物」、あるいは水や光。音や匂い。それもみんな「神々」? そうでもいいけれど、ここはやっぱり「神々は人間ではない」を言い換えたもの(言い間違えたもの)と受け止めた方が「意味」として通るだろうなあ。動物は死ぬからね。動物が苦しんでいるのを、私はみたことがある。動物が苦しんでいると思うのは私の錯覚かもしれないけれど。
で、もし、ここで書こうとしていることが「神々は人間ではない」という定義だとすると、なぜ、西脇はそういう書き方をしなかったか。それは「人間でないものは神々だけだ」という音が自然にでてきたからだ。そして、それにあわせて「……ないものは神々だけだ」という音が「音楽」となって繰り返されたのだ。音が「意味」に優先するのである。
そして。
この音が意味に優先するということは、「意味」が生まれはじめると、それを壊すという運動が続くことにもあらわれている。西脇は「意味」が独立して歩きはじめるのを好まない。その歩みを叩き折る。
「神々だけだ」の後に、詩は、こうつづく。
葡萄のたねをナイル河の中へ
はきだしたあのせつない夏の
昔の旅もはるかにかすむ
葡萄のたねをはきだすという「人間的な」行為。(私は、葡萄の種をはきだすことはしないのだけれど。)この、あまりにも「肉体的」な描写と「神々」定義--これは、なじまないね。そして、そのなじまないことろが、音楽としておもしろい。
あ、このことばにはこんな音があったのだ、と驚く。葡萄の種をはきだす--そういうことばさえ、音楽として、詩の中に生きるのである。
またセタガヤのフイフイ教会の
ミナレットにムーエゼンと一緒にのぼり
太陽の沈む時
アラの神にぬかずく人たちを
呼ぶある夕暮れもあつた
それはその後の出来ごととして
よくおぼえている
「世田谷」は漢字で書いてしまうと「意味」になる。「意味」を解体して、音にしてしまうために西脇は「セタガヤ」とカタカナにしている。
「よぶある夕暮れもあつた」からの3行は、私はとても好きである。なぜ好きかというと--私は、そのことばを思いつかないからである。書いてあることはわかるし、偶然、そういうことばの順序で言うことがあるかもしれない。「それはその後の出来ごととして/よくおぼえている」というのは、何か聞かれて、そんな具合に説明することがあるかもしれない。でも、書く時、そのことばは出てこないなあ。あ、こういう言い方がある。あ、この言い回しの音のなんと美しいことだろう、と私はぼーっとしてみつめてしまう。あ、こういうことば、このことばそのものを、どこかで自分のものとして書いてしまいたい、とひそかに思ってしまうのだ。
![]() | Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫) |
西脇 順三郎 | |
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