西脇順三郎の一行(33)
「自伝」というタイトルを手がかりにすれば、この「三田」は慶応大学であろう。「自伝」では、思い出したことを田舎の具体的な風物や(といっても単語だけだが)、英語の「リーダーでは銅版画ばかり覚えている」(英語のことは覚えていない)というようなことなどをほうりだしたように書いている。読者に「感情」を説明しようとしていない。
「それから三田へ来た」は単に時間の経過を示すだけである。それによって、西脇がどうかわったか、というようなことは書かず、ただ「前の時間」と「後の時間」を区切りだけのために書いている。そこに不思議なスピードがある。
そして考えてみると、西脇のことば(単語)は、この「それから三田に来た」ということばのように、前のことばと後のことばを区別する(断絶させる)ためにこそ動いているように見える。
ことばが、何かに縛られない。ことばがことばを断ち切って動いていく。
「自伝」
それから三田へ来た
「自伝」というタイトルを手がかりにすれば、この「三田」は慶応大学であろう。「自伝」では、思い出したことを田舎の具体的な風物や(といっても単語だけだが)、英語の「リーダーでは銅版画ばかり覚えている」(英語のことは覚えていない)というようなことなどをほうりだしたように書いている。読者に「感情」を説明しようとしていない。
「それから三田へ来た」は単に時間の経過を示すだけである。それによって、西脇がどうかわったか、というようなことは書かず、ただ「前の時間」と「後の時間」を区切りだけのために書いている。そこに不思議なスピードがある。
そして考えてみると、西脇のことば(単語)は、この「それから三田に来た」ということばのように、前のことばと後のことばを区別する(断絶させる)ためにこそ動いているように見える。
ことばが、何かに縛られない。ことばがことばを断ち切って動いていく。