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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(43)

2014-05-04 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(43)          

 「エウリオンの墓」は「墓碑銘」をそのまま写し取ったという形をとっている。「美しかりしエウリオンここに眠る。」ということばからはじまる。ただし、

美しかりしエウリオンここに眠る。シエナの一枚岩から切り出した優雅な意匠の墓石のもとに、おびただしいすみれと百合に埋もれて。

 ということばがそれに続くので、墓に刻まれた文字がそのまま再現されているのではなく、墓碑銘を読む人が彼の感性でことばを選択して読んでいるのかな、と想像することもできる。「シエナ」以下は墓碑銘を読む人の感性、カヴァフィスの主観(感想)と読むこともできる。
 その場合、こそにカヴァフィスが再現していることばは主観による要約、脚色と言ってもいい。この主観の配合が絶妙におもしろい。

二十五歳。父方をたどればマケドニアの名家。母方をさぐれば長官輩出の家柄。アリストクレイトスに哲学を、パロスに弁論を学び、エジプト神聖文字の文書をテーベにて教えられ、『アルシノエ県史』を執筆。この書のあるいは後の世に残らむも、われらが失いしものは再び得がたし。

 家系を父方、母方とたどり、客観的事実だけを淡々と要約し、『アルシノエ県史』を執筆と付け加える。業績をほめたたえるふりをして、それに続けるのは次のことば。

まことアポロンの神の御写し絵たりし彼の姿。

 『アルシノエ県史』など、問題ではないのだ。エウリオンが歴史に名を残しているのは、その業績ゆえなのだろうけれど、カヴァフィスが焦点をあてるのは彼の美貌。ほんとうに惜しんでいるのは失われた美貌の方なのだ。それはすみれや百合が似合う美貌だ。冒頭の「美しかりし」というのは死者をほめたたえる「常套句」ではなく、本音なのだ。
 そして「常套句」だから、ひとの口にのぼって広がってゆきもする。

 カヴァフィスの詩が中井久夫が訳出している形、散文形式であったかどうか、私は知らない。中井久夫は、リッツォスの「カヴァフィスにささげる十二詩」(みすず、359号)では行分け詩を散文形式に訳出しているが、この作品も、そうなのかもしれない。この散文形式は、墓に刻まれたことばをそのまま連想させておもしろい。カヴァフィスは「主観」を書いているのに、あたかも、それが昔だれかによって書かれた客観という印象を与える。
 カヴァフィスは主観を客観とみせる手法、客観のなかに主観を紛れ込ませ、冷たい客観を熱い現実に変える魔法を知っている。中井はその魔法を日本語に移しかえる文体を持っている。

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