中井久夫訳カヴァフィスを読む(43)
「エウリオンの墓」は「墓碑銘」をそのまま写し取ったという形をとっている。「美しかりしエウリオンここに眠る。」ということばからはじまる。ただし、
ということばがそれに続くので、墓に刻まれた文字がそのまま再現されているのではなく、墓碑銘を読む人が彼の感性でことばを選択して読んでいるのかな、と想像することもできる。「シエナ」以下は墓碑銘を読む人の感性、カヴァフィスの主観(感想)と読むこともできる。
その場合、こそにカヴァフィスが再現していることばは主観による要約、脚色と言ってもいい。この主観の配合が絶妙におもしろい。
家系を父方、母方とたどり、客観的事実だけを淡々と要約し、『アルシノエ県史』を執筆と付け加える。業績をほめたたえるふりをして、それに続けるのは次のことば。
『アルシノエ県史』など、問題ではないのだ。エウリオンが歴史に名を残しているのは、その業績ゆえなのだろうけれど、カヴァフィスが焦点をあてるのは彼の美貌。ほんとうに惜しんでいるのは失われた美貌の方なのだ。それはすみれや百合が似合う美貌だ。冒頭の「美しかりし」というのは死者をほめたたえる「常套句」ではなく、本音なのだ。
そして「常套句」だから、ひとの口にのぼって広がってゆきもする。
カヴァフィスの詩が中井久夫が訳出している形、散文形式であったかどうか、私は知らない。中井久夫は、リッツォスの「カヴァフィスにささげる十二詩」(みすず、359号)では行分け詩を散文形式に訳出しているが、この作品も、そうなのかもしれない。この散文形式は、墓に刻まれたことばをそのまま連想させておもしろい。カヴァフィスは「主観」を書いているのに、あたかも、それが昔だれかによって書かれた客観という印象を与える。
カヴァフィスは主観を客観とみせる手法、客観のなかに主観を紛れ込ませ、冷たい客観を熱い現実に変える魔法を知っている。中井はその魔法を日本語に移しかえる文体を持っている。
「エウリオンの墓」は「墓碑銘」をそのまま写し取ったという形をとっている。「美しかりしエウリオンここに眠る。」ということばからはじまる。ただし、
美しかりしエウリオンここに眠る。シエナの一枚岩から切り出した優雅な意匠の墓石のもとに、おびただしいすみれと百合に埋もれて。
ということばがそれに続くので、墓に刻まれた文字がそのまま再現されているのではなく、墓碑銘を読む人が彼の感性でことばを選択して読んでいるのかな、と想像することもできる。「シエナ」以下は墓碑銘を読む人の感性、カヴァフィスの主観(感想)と読むこともできる。
その場合、こそにカヴァフィスが再現していることばは主観による要約、脚色と言ってもいい。この主観の配合が絶妙におもしろい。
二十五歳。父方をたどればマケドニアの名家。母方をさぐれば長官輩出の家柄。アリストクレイトスに哲学を、パロスに弁論を学び、エジプト神聖文字の文書をテーベにて教えられ、『アルシノエ県史』を執筆。この書のあるいは後の世に残らむも、われらが失いしものは再び得がたし。
家系を父方、母方とたどり、客観的事実だけを淡々と要約し、『アルシノエ県史』を執筆と付け加える。業績をほめたたえるふりをして、それに続けるのは次のことば。
まことアポロンの神の御写し絵たりし彼の姿。
『アルシノエ県史』など、問題ではないのだ。エウリオンが歴史に名を残しているのは、その業績ゆえなのだろうけれど、カヴァフィスが焦点をあてるのは彼の美貌。ほんとうに惜しんでいるのは失われた美貌の方なのだ。それはすみれや百合が似合う美貌だ。冒頭の「美しかりし」というのは死者をほめたたえる「常套句」ではなく、本音なのだ。
そして「常套句」だから、ひとの口にのぼって広がってゆきもする。
カヴァフィスの詩が中井久夫が訳出している形、散文形式であったかどうか、私は知らない。中井久夫は、リッツォスの「カヴァフィスにささげる十二詩」(みすず、359号)では行分け詩を散文形式に訳出しているが、この作品も、そうなのかもしれない。この散文形式は、墓に刻まれたことばをそのまま連想させておもしろい。カヴァフィスは「主観」を書いているのに、あたかも、それが昔だれかによって書かれた客観という印象を与える。
カヴァフィスは主観を客観とみせる手法、客観のなかに主観を紛れ込ませ、冷たい客観を熱い現実に変える魔法を知っている。中井はその魔法を日本語に移しかえる文体を持っている。