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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

M・ナイト・シャマラン監督「レディ・イン・ザ・ウォーター」

2006-10-01 22:08:25 | 映画
監督 M・ナイト・シャマラン 出演 ポール・ジアマッティ、ブライス・ダラス・ハワード

 大人のための「童話」である。「童話」にはしばしば「教訓」というか、「意味」がまじりこむ。そうすると、とたんにおもしろくなくなる。
 この映画にも「意味」がまじりこむ。しかも、露骨である。
 主人公は医者だった。彼が留守中、強盗に入られる。妻とこどもの命が奪われる。そばにいて守ってやることができなかった。そのことが主人公のこころの奥に重くたまっている。彼は、そこからどうやって立ち直るか。
 単純である。自分では戦うことを知らない少女を守ることによってである。「童話」そのものがそうであるように、ヒロインは瀕死の状態になる。そのとき、主人公は、その少女に妻やこどもたちの姿を重ね、彼の思いを語る。「守ってやることができずに、ごめん。今でも愛しているよ」。主人公は、自分の苦悩を語ることで、自己を解放する。その力が少女にも伝わり、少女は元気を取り戻す。
 映画のストーリーは、見かけ上は、不思議な少女を救うという構造をとっているが、実は、その少女を救うことにかかわるひとりの男の成長の物語である。その「裏」の構造があまりにも透けて見える。
 まるで少女を救うために住民が協力するというよりも、医師の苦悩を知ったアパートの住民が全員でひと芝居やってみせる、という感じすらする。もしそれならそれで、とてもおもしろい映画になると思うけれど、M・ナイト・シャマランはあくまでストーリーの主眼は少女の救出にあるように見せかける。それが、なんとも、いやらしい。
 少女(水の精)が人間に正しい道を教えるというのだけれど、その正しい道というのが、自分の苦悩は自分で抱え込まず、語る。つまり、しっかりと見つめなおす。そこから再生がはじまる……というのは、それはそれでわかるけれど、奇妙な白々しさが残る。



 M・ナイト・シャマランは、現実と認識が重ならない世界を描く。「シックス・センス」がその代表作だが、主人公が現実だと思っていたこと(観客が現実だと思っていたこと)が、実は現実ではなかった。主人公の「想像」の世界だった、というオチで観客をびっくりさせたが、今度はオチを見せなかった。オチを省略することで「童話」を「童話」のままにしたのではなく、「童話」を露骨な教訓ストーリーに堕落させてしまった。
 映像をことばでいちいち説明していくシナリオも最悪である。映画なのに映像を見ている感じがしない。「童話」を読み聞かされている感じがする。
 映像としていちばん恐怖を呼び起こさなければならない草まみれのオオカミのような獣もぜんぜん怖くない。オオカミにさえ見えない。映画が映像であることを忘れてしまったとき、それはとてつもなく退屈なものになってしまう。

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