「聖なるイチジクの種」(その2)
「聖なるイチジクの種」について書いたとき、出演の最初に「スマートフォン」と書いた。その理由を書いておきたい。
この映画は、一種の「推理ドラマ」である。つまり、消えたピストルを盗んだのはだれか、という「謎解き」がひとつのストーリーになっている。私は、どういうわけか、こういう「謎解き」の仕掛けが、すぐに目についてしまう。でも、この映画では、目についたからといって、それが目障りではない。
最初に目を引くスマートフォンは、父親と母親がテレビを見ているのに対して、ふたりのこどもがスマートフォンを見ている、そのスマートフォン。姉の方はニュースを見ているかどうかわからない。しかし、妹は、若者が撮った警官と若者の対立の動画を見ている。そして、姉に「動画を見ろ」とメールで知らせる。
これが、とてもいい。
妹はヘッドフォンで動画を見ている。当然、音は聞こえないから、両親は、娘たちが何を見ているかわからない。ニュースには関心がなくて、音楽でも聞いていると思っているかもしれない。姉は、ヘッドフォンをつかっていないので、妹がメールを送ったとき、着信音が鳴る。しかし、両親は気にしない。メールの着信音は日常の音だからである。そばにいるのにメールで連絡してくる妹に、姉は不審な目を向ける。妹は、音が聞こえないように、動画を見ろ、と勧める。
これは、この映画の全体を「暗示」している。つまり、この段階で、だれが銃を盗んだか(盗むことになるか)、わかる。妹が、家族の中で、いちばん「秘密」を生きることができる人間なのである。
このシーンだけで、私は、この映画に魅了された。とりこになった。
とても巧みな脚本だし、その巧みさを押しつけていない。最近は監督と脚本の両方をこなすひとが増えているが、この監督は「脚本」を押しつけず、ちゃんと役者に演技で昇華させ、画面全体を映画にしている。
電波の届かない荒野での「どたばた」みたいなおもしろさは前回書いたから省略するが、「謎解き」に関係するスマートフォンがらみのシーンが、もうひとつある。
父親が家族全員のスマートフォンを取り上げる。だれかから家族に電話がかかってきたら、父親が電話に出るつもりである。電話の相手がピストルの盗難に関係しているかもしれないからだ。そのために、家族に「暗証番号」を聞く。
姉は「2003」だったかなんだか、数字を言う。きっと生まれた年だな。声に出して言うので、家族の全員に知られてしまう。妹は、母と姉には知られたくない。秘密を守りたい。だから、父親だけに、紙に書いて知らせる。声には出さない。母は「知ってるでしょう」と言う。ここでも、妹の、スマートフォンへの向き合い方が際立っている。なんというか、「熟達」している。「慎重」である。「嘘」というか「秘密」を生きることを、本能的に知っている。母や姉を味方にしないといけないのだが、その母や姉に対しても、まだ「秘密」を残すのである。こういうことは、少年(男)にはできない。前回、家族に父親以外に男がいれば、映画が違ってくると書いたのは、そういう意味である。
で、こうした「伏線」どおりに妹が銃を盗んで隠したのだが。
あとひとつ。家族の情報、父親が何をしているか、どこに住んでいるかというような情報がインターネット上に拡散される。それを知らせるのが、やはり妹である。これも、とても大切なポイント。妹は、偶然それを見つけたのではない。当然、だれかに教え、そのだれかをとおしてアップさせたのだ。そして、だれかがそのことに気づく前に、その少女が家族に知らせる。いつもインターネットを見ているから、「第一発見者」が少女であっても、少女は疑われない。そういうことまで熟知して、行動している。
彼女のしたことは、ある意味では、家族(特に父親)への裏切りであるけれど、この映画の制作者は、そういう「裏切り」を若い人に期待している。肉親であっても、裏切る必要があるときは、裏切る。
と、ここまで書いて、少し脱線するのだが。
この「生き方」は、日本人にはむずかしいかもしれない。どうしても「肉親への愛」というものが顔を出してしまうだろう。
でも、さすがは「コーラン」の国である。コーランの信者は、神と直接関係を結ぶ。神と自分の間には、だれも介在しない。こうした吹っ切り方ができるのは、どこかにコーランの影響があるのだと思う。
で、もとにもどって。スマートフォンとインターネット。
日本では、インターネットの「情報」は、変な具合に悪用されているが、権力と戦う手段として、うまくつかえば、ほんとうにうまくつかえるのだ。有効なのだ。そして、それを有効にするかどうかは、使い手の「意識」にかかっている。
そんなことを教えてくれる映画でもあった。
スマートフォンで撮影されたテヘランの、警官と若者の対立の様子、警官の暴行シーンに「真実」を見るだけでなく、監督が末っ子の少女に託した「生き方」(しぶとさ、秘密の生き方)にこそ、目を見張るべきだろうと思った。
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