『旅人かへらず』のつづき。
一一
ばらといふ字はどうしても
覚えられない書くたびに
字引をひく哀れなる
夜明に悲しき首を出す
窓の淋しき
詩の諧謔。笑いは、やはり音楽だと思う。かたぐるしい論理、その文体が脱臼するときに、笑いがはじける。そのはじけるリズムが音楽なのだと思う。
2行目。「覚えられない書くたびに」という1行がおもしろい。文法を優先すれば、
ばらといふ字はどうしても覚えられない
書くたびに字引をひく哀れなる
と、なるはずである。
しかし、その「覚えられない」と「書く」という行為は、ほんらい分離できない。覚えられないから、書けない。(覚えられないので、書けない。)
ここには、「理由」を説明することばが省略されている。西脇は、「理由」を省略して、「事実」だけを書いている。
これは、西脇の「文体」の特徴である。
「から」の「ので」は、ことばの運動をきつく縛る。ことばを論理の構造のなかにとじこめてしまう。論理の構造にとじこめると「意味」は正確になるが、「意味」でことばを(文体を)しばると、ことばとことばの響きあいが封じられ、窮屈になる。だから、西脇は省略するのだが、ほんとうは「から」「ので」が隠れている。
字引をひく哀れなる
夜明に悲しき首を出す
窓の淋しき
この3行にも、「から」「ので」は隠れている。「から」「ので」で、深いところで「つながっている」。「理由」とは、何かと何かをつなげる「説明」である。
「哀れなる/夜明けに」は、字引をひきながらばらという字を書いた。哀れにも、そんなふうに時間をつかってしまった「ので」、夜明けになってしまった。夜明けになってしまった「ので」、悲しい(あわれな頭脳をのせた)首を窓から出して、朝の空気で気分転換した--ということかもしれない。
西脇は、そういうことを「説明」しない。読者にまかせる。
そして、考えてみれば、首と窓というのは、窓から首を出すという関係で、昔から人間の暮らしのなかでつづいている(そういう習慣がつながっている)なあ、と思いめぐらす。
遠い昔に、ふいに「つながってしまう」人間のおこない。そのつながりのなかには、やはり「淋しさ」があるのだ。
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