詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(23)

2009-07-09 09:24:46 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 
 『旅人かへらず』のつづき。

一一
ばらといふ字はどうしても
覚えられない書くたびに
字引をひく哀れなる
夜明に悲しき首を出す
窓の淋しき

 詩の諧謔。笑いは、やはり音楽だと思う。かたぐるしい論理、その文体が脱臼するときに、笑いがはじける。そのはじけるリズムが音楽なのだと思う。

 2行目。「覚えられない書くたびに」という1行がおもしろい。文法を優先すれば、

ばらといふ字はどうしても覚えられない
書くたびに字引をひく哀れなる

 と、なるはずである。
 しかし、その「覚えられない」と「書く」という行為は、ほんらい分離できない。覚えられないから、書けない。(覚えられないので、書けない。)
 ここには、「理由」を説明することばが省略されている。西脇は、「理由」を省略して、「事実」だけを書いている。
 これは、西脇の「文体」の特徴である。
 「から」の「ので」は、ことばの運動をきつく縛る。ことばを論理の構造のなかにとじこめてしまう。論理の構造にとじこめると「意味」は正確になるが、「意味」でことばを(文体を)しばると、ことばとことばの響きあいが封じられ、窮屈になる。だから、西脇は省略するのだが、ほんとうは「から」「ので」が隠れている。

字引をひく哀れなる
夜明に悲しき首を出す
窓の淋しき

 この3行にも、「から」「ので」は隠れている。「から」「ので」で、深いところで「つながっている」。「理由」とは、何かと何かをつなげる「説明」である。
 「哀れなる/夜明けに」は、字引をひきながらばらという字を書いた。哀れにも、そんなふうに時間をつかってしまった「ので」、夜明けになってしまった。夜明けになってしまった「ので」、悲しい(あわれな頭脳をのせた)首を窓から出して、朝の空気で気分転換した--ということかもしれない。
 西脇は、そういうことを「説明」しない。読者にまかせる。
 そして、考えてみれば、首と窓というのは、窓から首を出すという関係で、昔から人間の暮らしのなかでつづいている(そういう習慣がつながっている)なあ、と思いめぐらす。
 遠い昔に、ふいに「つながってしまう」人間のおこない。そのつながりのなかには、やはり「淋しさ」があるのだ。



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西脇 順三郎
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