詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫『HANAJI 花児1984-2019』

2022-03-13 11:30:56 | 詩集

 

山本育夫『HANAJI 花児1984-2019』(思潮社、2022年02月22日発行)

 山本育夫『HANAJI 花児1984-2019』を読みながら、『ボイスの印象』の、最初の印象が消えてしまった。これは、いいことか、悪いことか。まあ、詩にとっては関係ないことかもしれない。詩は、ことばだからね。装丁なんかは関係がない。ことばがどう動くかだけ、と書きながら、いや、違うかもと思う。私には、初版本の、ざら紙に印刷された、読みにくいことばの印象が強く残っている。その印象と山本の詩は切り離せない。こんなふうに、整然と整えられてしまうと、ちょっと違う。
 ちょっと違う、と書いた、その意識の底から」違わない」何かが、突然動き始める。それは、山本の詩は「絵画的」ということである。別のことばで言えば、「空間的」である。これは、「時間的」な印象よりも「空間的」な印象が強い、ということである。
 ことばは、特に話ことばは「時間的」である。聞いた先から、ことばは消えていく。消えてしまうことばを、思い出しつづけないと、ことばの全体がつかめない。ところが、山本の詩は、印刷されていることもあるが、いつまでも「視覚」のなかにとどまっている。思い出さなくてもいい。思い出すということにエネルギーを注ぐ必要がないので、ことば「散らばり方」を全体として眺めることができる。絵を見るように、である。もちろん1ページ、あるいは見開き2ページで詩が完結するわけではないから、ほんとうに視覚だけでことばを読んでいるわけではないのだが、何か、絵画を見ているような印象があるのだ。「視覚的」であって「聴覚的」ではない。最近は、音にこだわった詩も書いているように見えるが、あれも「聴覚的」というよりは、「音の分布の視覚化」かもしれない。と、書くとまとまりがつかなくなる。
 まとりまがなくてもいいのかもしれないけれど。
 でも、すこしまとまったことを書いておきたい。
 「もぐさの匂い」。これは簡単に言ってしまうと、突然の下痢におそわれた男が、草原で排便する詩である。というか、一枚の絵を見ながら、その絵のなかで下痢に襲われた男が草原で排便するのを想像している詩である。二重構造である。いや、絵画的情景をことばで再構成しているわけだから三重構造である。
 これを私が「絵画的/空間的」というのは、この重なりあいのなかで、重なるのはあくまで「情景」であって「時間」ではないからだ。
 つまり、時系列で言うと。もし、これが「現実」ならば、と仮定しての「時系列」だが、それは、こうなる。
 ①男が下痢に襲われて、草原で排便する②その情景を画家が描く③その画家の描いた絵が含まれる画集を山本が見ている(そして、そのことを詩に書いた)
 ところが、実際にことばとして書かれているものを読むと(見ると)、その読んでいる瞬間(見ている瞬間)、「時系列」を意識することはない。時間(行動)が描かれているにしても、それは前後の時間と結びついて「時系列」をつくるというよりも、「時間」を無視して、「空間」を構成している「もの」と結びつき、「映像」になる。

ジォットーの絵か、
さもなくば、フェルメール、踏みしだいて、
その光線を、模写する、
そして、くり抜き、窓から放り投げる、
男は、腹痛のために、
下腹部にあらん限りの罵声を投げつける、
窓から見える、草原がしなって揺れる、
と、口に出す、それからパンツ一枚、に、
なって激しく削り出す、

 まあ、実際は、トイレで苦しみながら、トイレの窓から見える風景を見ているのかもしれない。合間合間に、画集を開いて見ているという、いささかこっけいな情景かもしれない。実際に画集を開かなくても、記憶のなかで、トイレの窓から見える青空から草原を連想し、さらにだれかれの絵を思い浮かべているという、奇妙な時間が描かれているのかもしれないが、ここにはあくまで「時間」ではなく「空間/絵画」の世界が展開しているだけである。

窓から見える、草原に光って揺れる、と、
飛び出すが、着地したショーゲキ、で、
パンツのでんぶからいきおい余って、
漏れ出す愛がみるみるビタビタにパンツ
染めあげ太ももしたたって、
キラリキラリと、光りはじめている、

 ここには「時系列」はある。しかし、この「時系列」というのは、「下痢をした、排便した下痢のはねかえりでパンツまで汚れた」という「一瞬の内部の時系列」である。「ミクロの時系列」であり、「歴史的な時系列」ではない。だから、そこで展開するのは、あくまでも「絵画的」な世界である。
 このあと、詩は、

にもかかわらず、

 という一行を挟んで、この絵画的世界は転調するが、転調するにもかかわらず、あいかわらず絵画的である。

にもかかわらず、
草原の、輝きっ、いっちょーらの、
滅裂!
そうして、満面、水をたたえた青、の、
波の絵に、ザンブと飛び込むが、
フェルメールの光は、横手にひらひら、
揺れているばかりだ、
水面に浮かぶ汚物達のあわいで、
あんなに懐かしそうに手振っている、
一生懸命、めっ、
あわててケツの穴を押さえている、
一生懸命、めっ、

 これは、トイレのあと、風呂でからだを洗っているところか。洗いながら、過去の失態(?)を思い出しているところか。
 だから、ここには「時系列」はあると言えばあるのだが。
 この「時系列」は、ある意味では「絵巻物」の「時系列」。ひとつの空間のなかで、そこに描かれている存在が動いた結果の「痕跡」としての「時系列」。見渡せる「時系列」であり、ことばによって因果関係を証明する「時系列」(歴史)ではない。
 「鳥獣戯画」を思い起こせばいいが、それは「時系列」のように見えて、現実には、同時に起きていることでもあるのだ。絵巻物をほどきながら見ていくと、そのほどくという行為がもつ「時間」が物語のなかに「時間」をつくりだすだけで、それは「同時」に起きている。
 山本の詩でも、ことばを「読む」という行為がつくりだす「時間」が、この詩に描かれている下痢、排便、風呂でからだを洗うという「物語」を「時間化」しているのであって、実際に下痢をして排便し、風呂でからだを洗っている男にとっては、それは「時系列」にととのえて見直す行為ではなく、「ひとつづきでひとつ」の一瞬(一日)のことにすぎない。「時系列」というようなめんどうな思考が入り込むものではない。逆に考えれば、わかる。ここに描かれている下痢、排便、汚れる、風呂という「時系列」は、それ以外の「時系列」は考えられない。順番が絶対に変わる可能性のない「時系列」は「時系列」など問題にしない。
 だからこそ、詩は、こんなふうに展開して終わる。

しかし、時はたつはずもないから、
もぐさのような匂いのたちこめるこの部屋
では、さっきから「私」が、
肴をしゃぶりつつ、
一頁、画集をひらいているところだ、
その絵の、草原の陰で、
おこっていることなど、
知らぬ。

 「しかし、時はたつはずもないから、」という唐突な一行。なぜ、この一行を書いたのか。それを書かなければ、ことばが動かないからだ。
 「時はたつはずもない」は「時がたたなくても」(時間がなくても/時系列がなくても)世界は存在するということである。
 「時間」は、ひとが勝手につくりだすもの。何かを考えるために必要としているものにすぎない。「仮説」であって、そういうものがなくても「世界」は存在する。「空間」は存在する。「空間」は幾重にも重なり合って、「間」をつくる。その「間」に「時間」が勝手に入り込んでいるだけだ。そんなものなど、山本は必要としていない。

その絵の、草原の陰で、
おこっていることなど、
知らぬ。

 は、山本の「空間認識」を語っていて、とてもおもしろい。「空間」は重なり合う。「空間」には見えないところもある。「もの」が「もの」を隠してしまう。そこで起きていること(隠されていること)など、「知らない」と言ってすませることができる。
 だからね。
 逆に言えば、山本が(?)、下痢をして、パンツを汚しただけではなく、一張羅まで汚してしまった。そのあと、ひとりでこっそりからだを洗って知らん顔している、なんてことは、誰も見ていないのだから、そんなことは「おこらなかった」と言うことができる。自分のことだけど「知らぬ」と言えば、もちろん、隠し通せる。
 山本にとって「時間(過去)」は隠せる。しかし、山本が存在している「空間」そのものはなくならない。空間への絶対的な信頼性、視覚への信頼性が、山本のことばの奥にある。

 だからこそね。私は言いたいのだ。初版本のざら紙の本には、そのざら紙の「必然性」があった。たしか誤植の多い詩集で、正誤表がついていたが、それさえも『ボイスの印象』の「存在証明」だったと言える。装丁を含めて「作品」だったのだ。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglmeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」11月号を発売中です。
142ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 


コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 細田傳造『まーめんじ』(3) | トップ | Estoy loco por espana(番外... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
山本育夫 HNAJI (大井川賢治)
2024-06-23 08:38:04
/詩の鳥獣戯画である/。なるほど、よく分ります。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩集」カテゴリの最新記事