谷川俊太郎「悲しみについて」(「朝日新聞」2009年04月04日夕刊)
谷川俊太郎「悲しみについて」は最終連がおもしろい。全行。
人間は「わざと」悲しみを作りだす。それも自分の感情ではなく、他人の悲しみを作りだす。そしてその、人口の悲しみが悲しみとして時間できるとき、それを観客(読者)は芸術として堪能する。
犬の場合は、どうだろう。
谷川は「なんのせいかも分からずに/彼は心を痛めているだけだ」と書いているが、これは真実だろうか。なんのせいか分からないのは谷川であって、犬にはその理由が分かっているかもしれない。
そして、いま、私が書いたことはもちろん谷川には分かっている。分かっていて「わざと」犬は分からずに遠吠えをしていると書く。そのとき、分からないものがあるという事実が静かに浮かび上がってくる。分からないものがある、ということが、たぶん私たちの人生でいちばん重要なことなのだ。分からないものがあって、それを自分で受け止めて生きる――悲しみというものがあるとすれば、確かに、分からないものを分からないまま受け止めるしかない、対処のしようがない。
そういう状態になったとき。
ふいに、やはり「分からないもの」が近しい存在として、そばにあらわれる。犬。犬が「わけの分からないもの」もののために「心を痛めている」。そんなふうにしても、生きていける。不思議な安心感。
同情されずに、ただ、いま、いっしょにここにいる不思議さと安心感。この「悲しみ」はなぜか「愛しい」につながる。谷川のことばは、そんなことを教えてくれる。
谷川俊太郎「悲しみについて」は最終連がおもしろい。全行。
舞台で涙を流しているとき
役者は決して悲しんではいない
観客の心を奪うために
彼は心を砕いているのだ
悲しみを書こうとするとき
作家は決して悲しんではいない
読者の心を掴(つか)むために
彼女は心を傾けているのだ
悲しげに犬が遠吠(とおぼ)えするとき
犬は決して悲しんではいない
なんのせいかも分からずに
彼は心を痛めているだけだ
人間は「わざと」悲しみを作りだす。それも自分の感情ではなく、他人の悲しみを作りだす。そしてその、人口の悲しみが悲しみとして時間できるとき、それを観客(読者)は芸術として堪能する。
犬の場合は、どうだろう。
谷川は「なんのせいかも分からずに/彼は心を痛めているだけだ」と書いているが、これは真実だろうか。なんのせいか分からないのは谷川であって、犬にはその理由が分かっているかもしれない。
そして、いま、私が書いたことはもちろん谷川には分かっている。分かっていて「わざと」犬は分からずに遠吠えをしていると書く。そのとき、分からないものがあるという事実が静かに浮かび上がってくる。分からないものがある、ということが、たぶん私たちの人生でいちばん重要なことなのだ。分からないものがあって、それを自分で受け止めて生きる――悲しみというものがあるとすれば、確かに、分からないものを分からないまま受け止めるしかない、対処のしようがない。
そういう状態になったとき。
ふいに、やはり「分からないもの」が近しい存在として、そばにあらわれる。犬。犬が「わけの分からないもの」もののために「心を痛めている」。そんなふうにしても、生きていける。不思議な安心感。
同情されずに、ただ、いま、いっしょにここにいる不思議さと安心感。この「悲しみ」はなぜか「愛しい」につながる。谷川のことばは、そんなことを教えてくれる。
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