時里二郎「さねのこのみ」(「現代詩手帖」2009年07月号)
時里二郎「さねのこのみ」の詩はあいかわらず「ややこしい」。その冒頭。
最初の2行だけで、「島」と「物語」のどちらが先にあったのかわからなくなる。鶏が先か、卵が先か、というのに似ている。それはあえていえば、どちらかが先にあるのではなく、同時に生まれるものなのだろう。言い換えれば、それは「出会う」ことによってはじめて「島」になり、「物語」になる。
そして、(と言っていいかどうかわからないけれど)、その「出会い」というのは、2行目の「いや」ということばが象徴しているように、反対(対立)を含むもののであいなのである。似たもの、同じものが出会うのではない。相いれないものが出会うことで、互いがはじめて生まれる。そういう「出会い」である。
「出会い」をとおしてふたつの存在が変わっていくのではなく、「出会う」ことでふたつの存在がそれぞれの自己を発見して行く。
そういう「自己」は、出会うことによってどんどん互いに離れていく。離れて行くことが、出会いなのである。--矛盾しているが、そういう出会いがある。離れる、相手ではなく自己を発見するという運動のなかで、ふたつの存在は出会う。離れるという運動のなかで、他者との関係が築かれていくのである。
「一体」になれないという不可能性のなかで、不可能を知ることで「出会い」、あるいは「一体になる」という「幻(夢)」がつむぎだされ、その夢のなかで、かたく結びつくと言い直すことができるかもしれない。
詩は、つづいてゆく。
ことばは、不可能なこと、現実には不可能なこと、不可能なことへと動いていく。それは、ことばが「現実」と出会うたびに、「現実」の方へではなく、ことばそのものの内部、ことばの「自己」へと入り込んで行くようでもある。
たぶん、そうなのだろうと思う。
何かを語ることは、「現実」の何かを語るということである。ことばと「現実」が出会うということである。そこから、ことばは「現実」へ近づいて行くのではなく、(また、時里が現実に近づいて行く--現実の真相を探るというのではなく)、どこまで「現実」から離れて行くことができるかを、真剣に探っているのである。
ことばはどれだけ「現実」に背いて、ことば自身のなかへ旅することができるか。しかも、そのときことばは必ず「現実」に存在するものを「素材」として使いながら……。つまり、次々と「現実」に出会いながら、どれだけ「現実」から離れ、自由になれるか。
時里のことばは、そういう「矛盾」を生きている。ことばは現実にあるものを利用しないことにはことばにならない。島という存在を利用ないことには、島から離れられない。「物語」ということばから離れないことには「物語」そのものにはなれない。
「現実」と出会いながら、出会いのたびに「現実」から離れていく。そのとき、なにがあらわれるか。「架空」のもの、「虚構」への運動が眩暈のようにあらわれる。輝かしい栄光のようにあらわれる。
それは逆に言えば、架空のものがなければ、ことばは動かないということでもある。
たえばこの作品の「さねのこのみ」。それは何? 時里が「さねのこのみ」と名づけたものにすぎない。「現実」に背いて「名づけた」ものである。
「名づける」こと、何かに名前をつけること、「現実」に背いて名前をつけること--そこからすべてがはじまる。
そして、ここからが、ちょっとややこしい。
現実に背いて時里が「名づける」。その架空、虚構のものがことばになった瞬間、語られた瞬間、時里には、その背かれたはずの「現実」というものが何であるか、直感としてわかる。
しかし、それは直感なので、それが動いて行って、何かにたどりつくまでは何かがわからない。けれど、直感なので、どうしても信じてしまう。だから、追いかけてしまう。直感を。直感を追うことばを。
「さねのこのみ」と名づけた瞬間から、時里は、「さねのこのみ」から逃れられなくなる。「さねのこのみ」をことばで追いかけているはずなのに、その追いかけることばに追いかけられる時里がそこに出現してくることになる。
あ、私は、何を書いているんだろうなあ。
最初に書いたことに戻ってしまおう。
時里はことばに出会う。そして、そのときから、時里は最初のことばからどんどん離れ、時里自身がもっていることばのなかへ入って行ってしまう。最初のことばから離れれば離れるほど、最初のことばが何だったかが切実に感じられる。離れて行くことが「接近」する唯一の方法なのだ。
矛盾だね。
矛盾だから、そこに思想がある。矛盾をどれだけ持ちこたえられるかが思想の真価である。
時里二郎「さねのこのみ」の詩はあいかわらず「ややこしい」。その冒頭。
始原(はじめ)にその島があった。
いや、はじめに物語があった。島はその後に生まれた。ところが、ややこしい話だが、島は物語の流れ寄るところ。「さねのこのみ」が打ち寄せる岸辺。
最初の2行だけで、「島」と「物語」のどちらが先にあったのかわからなくなる。鶏が先か、卵が先か、というのに似ている。それはあえていえば、どちらかが先にあるのではなく、同時に生まれるものなのだろう。言い換えれば、それは「出会う」ことによってはじめて「島」になり、「物語」になる。
そして、(と言っていいかどうかわからないけれど)、その「出会い」というのは、2行目の「いや」ということばが象徴しているように、反対(対立)を含むもののであいなのである。似たもの、同じものが出会うのではない。相いれないものが出会うことで、互いがはじめて生まれる。そういう「出会い」である。
「出会い」をとおしてふたつの存在が変わっていくのではなく、「出会う」ことでふたつの存在がそれぞれの自己を発見して行く。
そういう「自己」は、出会うことによってどんどん互いに離れていく。離れて行くことが、出会いなのである。--矛盾しているが、そういう出会いがある。離れる、相手ではなく自己を発見するという運動のなかで、ふたつの存在は出会う。離れるという運動のなかで、他者との関係が築かれていくのである。
「一体」になれないという不可能性のなかで、不可能を知ることで「出会い」、あるいは「一体になる」という「幻(夢)」がつむぎだされ、その夢のなかで、かたく結びつくと言い直すことができるかもしれない。
詩は、つづいてゆく。
そこに仮寓する幾たりかの男は、他の島々から重い潔斎を経て集まったカタリモノ。別にカタリシュとも呼ばれた。彼らは、砂浜に漂着したその実を拾い、浜から逸れた洞穴近くの岩場に設えられた隠場(こもりば)でそれを枕に眠る。眠りの中で物語が紡がれるのだが、紡がれた物語は、魂の遊離をしばしばおこすような島々の女に、口移しに伝えられた。もちろん、島嶼においては特別なトポスだから、女はその島に渡れない。男たちも島から出られないので、通常は夢がその交通を請け負った。物語のほとんどは、人々の魂の往還する海の彼方の祖霊の楽土を喚起させる類のもので占められる。
ことばは、不可能なこと、現実には不可能なこと、不可能なことへと動いていく。それは、ことばが「現実」と出会うたびに、「現実」の方へではなく、ことばそのものの内部、ことばの「自己」へと入り込んで行くようでもある。
たぶん、そうなのだろうと思う。
何かを語ることは、「現実」の何かを語るということである。ことばと「現実」が出会うということである。そこから、ことばは「現実」へ近づいて行くのではなく、(また、時里が現実に近づいて行く--現実の真相を探るというのではなく)、どこまで「現実」から離れて行くことができるかを、真剣に探っているのである。
ことばはどれだけ「現実」に背いて、ことば自身のなかへ旅することができるか。しかも、そのときことばは必ず「現実」に存在するものを「素材」として使いながら……。つまり、次々と「現実」に出会いながら、どれだけ「現実」から離れ、自由になれるか。
時里のことばは、そういう「矛盾」を生きている。ことばは現実にあるものを利用しないことにはことばにならない。島という存在を利用ないことには、島から離れられない。「物語」ということばから離れないことには「物語」そのものにはなれない。
「現実」と出会いながら、出会いのたびに「現実」から離れていく。そのとき、なにがあらわれるか。「架空」のもの、「虚構」への運動が眩暈のようにあらわれる。輝かしい栄光のようにあらわれる。
それは逆に言えば、架空のものがなければ、ことばは動かないということでもある。
たえばこの作品の「さねのこのみ」。それは何? 時里が「さねのこのみ」と名づけたものにすぎない。「現実」に背いて「名づけた」ものである。
「名づける」こと、何かに名前をつけること、「現実」に背いて名前をつけること--そこからすべてがはじまる。
そして、ここからが、ちょっとややこしい。
現実に背いて時里が「名づける」。その架空、虚構のものがことばになった瞬間、語られた瞬間、時里には、その背かれたはずの「現実」というものが何であるか、直感としてわかる。
しかし、それは直感なので、それが動いて行って、何かにたどりつくまでは何かがわからない。けれど、直感なので、どうしても信じてしまう。だから、追いかけてしまう。直感を。直感を追うことばを。
「さねのこのみ」と名づけた瞬間から、時里は、「さねのこのみ」から逃れられなくなる。「さねのこのみ」をことばで追いかけているはずなのに、その追いかけることばに追いかけられる時里がそこに出現してくることになる。
あ、私は、何を書いているんだろうなあ。
最初に書いたことに戻ってしまおう。
時里はことばに出会う。そして、そのときから、時里は最初のことばからどんどん離れ、時里自身がもっていることばのなかへ入って行ってしまう。最初のことばから離れれば離れるほど、最初のことばが何だったかが切実に感じられる。離れて行くことが「接近」する唯一の方法なのだ。
矛盾だね。
矛盾だから、そこに思想がある。矛盾をどれだけ持ちこたえられるかが思想の真価である。
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