詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(3)

2022-05-01 10:55:21 | 詩集

 

 

最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(3)(小学館、2022年04月18日発行)

 最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』の「紫陽花の詩」は、タイトルが最後に書かれている。とつぜん本文が始まり、最後がタイトル(だと思う)。

ぼくはきみの友達ではない、
インターネットを見るとき、街を見るとき、
いつも思っていることがあなたには伝わらない、
ぼくはきみの友達ではないが、きみは生きている、
そのことがよくわからない。

血を出すような怪我をしたときや、
優しくしたときなんかに誤解してそのままにされた人間たちは、
誰もが生きていると口々に言うがそれは、
恋をしているだけなんだ。節操もなくぼく以外、
誰も彼もに恋をして、雨に濡れた葉っぱさえ美しく見えるんでしょう。
季節なんて、腐り落ちてしまえ。


紫陽花の詩

 同じようにタイトルが最後に書かれた作品があるかどうか、まだ、わからない。私は、読んだ順序にしたがい、思いついた順序にしたがい、書いているので、「全体」のことは考えない。
 この詩では、一連目の、

いつも思っていることがあなたには伝わらない、

 がとても印象に残る。思っていることは、いつだって相手に伝わらないだろうなあ。それが生きていることだと私は半分納得している。だから、あ、そうか、最果もそう思うことがあるのか、と親近感を覚えるのである。
 この行の後で「きみは生きている、」があり、その「生きている」が「いつも思っていることがあなたには伝わらない、」と交錯し、ひとつになる。切り離せないことばとして動く。でも、そこにほんとうに「脈絡/論理」があるか。「そのことがよくわからない。」「論理」がなくても、まあ、つながるのだと思う。「感じる」と言いなおせばいいのかもしれない。ここには、明確な論理にはできないけれど、出会いながら、瞬間的に照らしあうことばがある。
 二連目は一連目を言い直しているのかもしれない。「思っていることが伝わらない」とはどういうことか。それは「優しくしたときなんかに誤解してそのままにされた」ということなんだろうなあ。優しくしたのに、優しさを誤解される。思っていることが伝わらない。そして、それだけではなく「そのままにされる」、つまり放置される。それは「こころが(優しさが)血を出す」、つまり「こころが(優しさが)怪我をする」ということなのだ。
 きっと、行を逆に読んでいけばいいのだ。
 「優しくしたときなんかに誤解してそのままにされた」、それはこころが「血を出すような怪我をした」ということだ。そして「「優しくしたときなんかに誤解してそのままにされた」というのは「いつも思っていることがあなたには伝わらない、」ということでもある。
 「生きる」ということは「誤解される」ということ。そして、この「誤解」は「恋」と呼ばれる。「誤解してそのままにされた」とき、恋しているのだと気づく。恋して、誰かのために何かをしたのに誤解され、そのままにされる。その、どうしていいかわからない瞬間の「こころの出血、怪我」。「生きている」と感じる。もし、誤解されず、思いが伝わってしまうならば、それは恋ではない。
 矛盾だね。
 「ぼく」だけではなく、「節操もなく」「誰も彼も」、「雨に濡れた葉っぱさえ美しく見える」のが、しかし、「恋」でもあるのだ。「ぼく」に対して恋しているからこそ、ほかのものすべてが「美しく見える」。それは恋しているというか、恋して恋されていると感じるときにそうなのかもしれないが。
 「季節なんて、腐り落ちてしまえ。」と叫びたい衝動。ここから、少しずつ落ち着き「ぼくはきみの友達ではない、」と自分自身に納得させる。その過程で、「恋」について思う。生きているということについて思う。

 ことばは、たぶん、どこから読み始めてもいい。最初から読もうが、最後から読もうが、そこに書かれていることに変わりはない。途中から読んでもいい。「結論」というものはないからだ。「ことば」は瞬間的に入り乱れたまま、同時に生まれてきて、同時にさまざまな方向へ散らばっていく。
 だから、「結論」ではなく、ことばが「生まれる瞬間の、その場」が大事なのだ。和泉式部は、「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」と書いたが、ことばが生まれる場が「魂」かもしれない。私は「魂」というものが存在するとは思っていないが、最果が「魂はある」というなら、それを信じたいという気持ちになる。
 「魂」はきっと透明なのだろう。そのため、私のような、テキトウな人間には、その「透明」が見えないのだろうと、ふと思うのである。最果の「透明」はたとえばダイヤモンドや何かのように光を反射して輝くというよりも、「透明」ゆえにそのなかに知らずに入り込んでしまうような世界だ。「透明な繭」に閉じ込められて、うまく他人と接触できない苦悩の原因のような、やわらかくて、静かな苦しみ。その乱れる「軌跡」としての「ことば」が動いている。

 


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1 コメント

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最果タヒ  さっきまで薔薇だったぼく (大井川賢治)
2024-06-22 09:51:35
/ことばはどこから読み始めてもよい。最初から読もうが、最後から読もうがーーー/。これは谷内さんの言。谷内さんの詩に対する大きなスタンスの一端が分かります。
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