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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金澤一志『魔術師になるために』

2009-08-23 00:03:25 | 詩集
金澤一志『魔術師になるために』(思潮社、2009年07月30日発行)

 私は近視、乱視、音痴である。したがって、といっても理解してもらえるかどうかわからないが、文字があちこちに散らばった作品は、まったく感性に触れて来ない。目がちかちかして、どこに焦点をあわせていいかわからない。どこから読んでいいかわからない。私は音読をする習慣はない。けれども、どうやら口蓋、舌、鼻腔、歯、喉を無意識につかって(耳はつかわずに、という意味である)、ことばを読んでいるらしく、本を読むと非常に喉がつかれる。発声器官の「快感」を基準に読んでいるふうなところがある。
 金澤の詩集は、私のような読み方を許してくれない。文字は散らばり、したがって音そのものも散らばっている。複数の音源から響くさまざまな音を目で見ながら、頭のなかに楽譜を再現するような能力がないと、その「交響楽」は理解できない。私には、そういう能力はまったくない。音楽の「採譜」というのは、私には絶対にできないことのひとつである。--こういう詩は、絶対音感の耳を持ったひとにまかせるしかない。

 私にもかろうじて読むことができるのは「モランディの尺骨」のような、きちんと(?)縦に書かれた詩である。3行から成り立っているのだが、その最後の行。

ふなびとととがびとの恋とがびととととがびとの情まよいびととたびびととゆあみびとこもれびとはまれびとの灯

 「ふなびと」というのは前の行の「ゆらのとをわたるふなびと」という百人一首(この歌は、私は大好きだ)の「ふなびと」を受けているのだが、船に乗るひとは高瀬舟ではないが、罪人である。その罪人の恋。情。罪人(金澤は「とがびと」と書いているのだけれど)は、いわば「迷いびと」。何かに迷い、恋に迷い、正しい道(?)から逸脱して、とんでもない道に迷い込んだひとだろう。それは人生の「旅人」、どこにもない場所へとむけて旅をするひとかもしれない。そういう旅をするにはまず「ゆあみ(湯浴み)」びととなって身を清めるということも必要なのかもしれない。湯浴みの清潔さに、「木漏れ日」(こもれび)の美しさが重なる。湯浴みの、飛び散ったきらきら輝くしぶき(しずく)が「木漏れ日」のように揺れる。
 おっと、木漏れ日ではなく、「こもれびと」だった。
 でも、ここでは「こもれ人」ではなく「木漏れ日と」と読むこともできる。ふいに、ことばが逸脱していく。それこそ、ことばがそれまでの論理を外れ、迷っていくように。
 これは、「誤読」? そうかもしれない。そうに違いないのだけれど、私は何度も書いているが「誤読」が大好き。「誤読」するために本を読む。
 「木漏れ日」はなんのための輝きだろう。金澤は「まれびとの灯」と書いている。「まなれ」な「ひと」の灯す明かり。輝き。
 あ、そうかもしれないと、私の想像力は勝手に飛躍する。罪人は、とてもまれな人。それは俗人が手にいれることのできない「輝き」をもっている。罪人こそ輝かしい。その罪人の恋とは、世界で一番輝かしい恋ではないだろうか。
 --こうした読み方は「誤読」だろう。「誤読」に違いない。けれど、私は、そうい「誤読」がやめられない。そして、この1行には、そういう「誤読」を誘うように、ひらがなのかたまりがうごめいている。ひらがなの「びと」「と」「が」が入り乱れて、簡単には「意味」にならない。私は便宜上、漢字をあてて、私の「誤読」を説明したけれど、私の口蓋は、舌は、喉は、繰り返される音のなかで、たださまよう。さまよいながら、複数の意味を行き来する。つまり、意味を否定しながら、意味をさがし、さまよい、意味に出会うたびに、それを叩き壊し、音そのものを口蓋に、喉に、舌に、歯に、触れさせながら、あ、この早口ことばみたいなことばは気持ちがいい、と感じる。

 こういう詩ならば、何篇でも読みたい。



魔術師になるために
金澤 一志
思潮社

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