高橋睦郎『永遠まで』(5)(思潮社、2009年07月25日発行)
「小夜曲」には「サヨコのために」という副題がついている。山口小夜子に寄せて書かれた作品である。山口小夜子の生涯をどれくらい正確に反映したものか、私には判断材料がないけれど、1連目がとても不思議である。
<blocquote>
私が育ったのは
山の上の小さな家
家の前には小さな墓地
咲き乱れる草の花を摘んで
いちんち ままごとをした
お客はお墓の住人たち
住人たちは 大人も子供も
小さな私と同じ背丈
</blocquote>
死者との不思議な交感。もちろん、死者が墓地から実際にあらわれるということはないから、それは山口小夜子の子供時代の空想を語ったものだろうけれど、死者をよみがえらせて遊ぶということのなかに、不思議さがある。空想の不思議さがある。
それは死者を生きている存在として思い描くということではなく、死者をそのまま生きている人間として生きなおすことである。お墓の「住人たちは 大人も子供も/小さな私と同じ背丈」の「同じ」が、小夜子のいのちと死者を「同じ」にしてしまう。
小夜子は自分の生を生きたのではなく、死者たちを生きた。正確には、小夜子自身の生と、死者たちを同時に生きた。「ふたつのいのち」を生きた。ふたつのいのちを「同じ」もの、つまり「ひとつ」(ひとり)として生きた。
2連目。
<blocquote>
親たちはいつも留守
小さな留守番を不憫がって
とっかえひきかえ着せた
春は草いろ
夏は海いろ
秋は月いろ
冬は火の色のお洋服
お客はみんな
私の服を欲しがった
</blocquote>
これは、山口小夜子自身は、その服をほしくはなかった、ということだろう。自分はほしくはない。だから、それをほしがるひとが必要だったのだ。もしかすると山口小夜子は、自分の服を(親が与えてくれる服を)ほしがる人間が必要だったのかもしれない。最初に、その必要があって、それから死者を呼び出したのかもしれない。
小夜子は「ひとり」であるけれど、「ひとり」では何もできない。「もうひとつ」のいのちが必要だったのだ。
奇妙な言い方だが、山口小夜子は死者になりたかったのかもしれない。もし、死者になれば、留守番をしなくてもいい。小夜子がそうしているように、親がきっと墓のなかから死者である小夜子を呼び出し、「ままごと遊び」をしてくれる。いつでも、呼び出され、いつでも小夜子といういのちを生き直してくれる。
死者を生きながら、小夜子は、死者が感じるよろこびを感じていたのだ。自分のよろこびではなく、死者たちのよろこび。生き直してもらえることの、絶対的な至福。生きている限りはあじわえない、超越的なよろこび。
高橋は、小夜子に、そういうこの世のものではないような、超越的なものを見ていたのだと思う。そして、その超越性を、高橋自身、生きてみたいと思っているのだ。
自分を生きるではない。死者、死んでしまった小夜子自身を生きる。この世に呼び戻して、その死を生きる。生ではない。生きていながら死んでいた小夜子。その彼女が死んで、ほんとうにいなくなったいま、その死をこの世によみがえらせ、もう一度生きる。こんどは、死から呼び戻された小夜子として……。
言い換えると、小夜子自身になって、小夜子の死を生きる。それはいのちの絶望を生きることでもある。生きているということ、死んではいないということを知り、死の不可能生を生きるということでもある。死の不可能性--その不可能性のなかにある、全体的な死、理念としての死……。
<blocquote>
自分の血の匂いを知った朝
私は忘れない それは
かつてのままごとのお客たちと
決定的に疎遠になったこと
彼女たちは死に
私は生きている それは
山よりも海よりも
大きな隔てを置くこと
下着を洗いながら 私は泣いた
泣きたいだけ泣いて 涙を拭いた
家を出て 山を下りた
</blocquote>
なぜ、疎遠になったのか。小夜子の中で、「いのち」がつづいていくことがわかったからだ。人間は死んだらそれでおしまいではない。いのちはどこまでもつづいていく。その証拠としての初潮がある。
小夜子は死ぬかもしれない。人間は、誰でも死ぬ。かもしれないではなく、小夜子は絶対死ぬ。しかし、それは彼女にとっての死であって、「いのち」にとっての死ではない。いのちは形をかえながら生き延びる。「彼女たちは死に/私は生きている」。
その絶望。
墓の前で、死者たちを呼び戻し、ままごとをする--そういうことは、空想にすぎない。死者は存在しない。死者にはなれない。墓から呼び出した死者は、幻である。
生と死、死と生は、どこかで入れ替わってしまう。入れ替わりながら生と死という「二つ」のものではなく、「いのち」という「ひとつ」のものになる。
小夜子の死を生きることで、高橋は、そういう「思想」を手にいれている。
「小夜曲」には「サヨコのために」という副題がついている。山口小夜子に寄せて書かれた作品である。山口小夜子の生涯をどれくらい正確に反映したものか、私には判断材料がないけれど、1連目がとても不思議である。
<blocquote>
私が育ったのは
山の上の小さな家
家の前には小さな墓地
咲き乱れる草の花を摘んで
いちんち ままごとをした
お客はお墓の住人たち
住人たちは 大人も子供も
小さな私と同じ背丈
</blocquote>
死者との不思議な交感。もちろん、死者が墓地から実際にあらわれるということはないから、それは山口小夜子の子供時代の空想を語ったものだろうけれど、死者をよみがえらせて遊ぶということのなかに、不思議さがある。空想の不思議さがある。
それは死者を生きている存在として思い描くということではなく、死者をそのまま生きている人間として生きなおすことである。お墓の「住人たちは 大人も子供も/小さな私と同じ背丈」の「同じ」が、小夜子のいのちと死者を「同じ」にしてしまう。
小夜子は自分の生を生きたのではなく、死者たちを生きた。正確には、小夜子自身の生と、死者たちを同時に生きた。「ふたつのいのち」を生きた。ふたつのいのちを「同じ」もの、つまり「ひとつ」(ひとり)として生きた。
2連目。
<blocquote>
親たちはいつも留守
小さな留守番を不憫がって
とっかえひきかえ着せた
春は草いろ
夏は海いろ
秋は月いろ
冬は火の色のお洋服
お客はみんな
私の服を欲しがった
</blocquote>
これは、山口小夜子自身は、その服をほしくはなかった、ということだろう。自分はほしくはない。だから、それをほしがるひとが必要だったのだ。もしかすると山口小夜子は、自分の服を(親が与えてくれる服を)ほしがる人間が必要だったのかもしれない。最初に、その必要があって、それから死者を呼び出したのかもしれない。
小夜子は「ひとり」であるけれど、「ひとり」では何もできない。「もうひとつ」のいのちが必要だったのだ。
奇妙な言い方だが、山口小夜子は死者になりたかったのかもしれない。もし、死者になれば、留守番をしなくてもいい。小夜子がそうしているように、親がきっと墓のなかから死者である小夜子を呼び出し、「ままごと遊び」をしてくれる。いつでも、呼び出され、いつでも小夜子といういのちを生き直してくれる。
死者を生きながら、小夜子は、死者が感じるよろこびを感じていたのだ。自分のよろこびではなく、死者たちのよろこび。生き直してもらえることの、絶対的な至福。生きている限りはあじわえない、超越的なよろこび。
高橋は、小夜子に、そういうこの世のものではないような、超越的なものを見ていたのだと思う。そして、その超越性を、高橋自身、生きてみたいと思っているのだ。
自分を生きるではない。死者、死んでしまった小夜子自身を生きる。この世に呼び戻して、その死を生きる。生ではない。生きていながら死んでいた小夜子。その彼女が死んで、ほんとうにいなくなったいま、その死をこの世によみがえらせ、もう一度生きる。こんどは、死から呼び戻された小夜子として……。
言い換えると、小夜子自身になって、小夜子の死を生きる。それはいのちの絶望を生きることでもある。生きているということ、死んではいないということを知り、死の不可能生を生きるということでもある。死の不可能性--その不可能性のなかにある、全体的な死、理念としての死……。
<blocquote>
自分の血の匂いを知った朝
私は忘れない それは
かつてのままごとのお客たちと
決定的に疎遠になったこと
彼女たちは死に
私は生きている それは
山よりも海よりも
大きな隔てを置くこと
下着を洗いながら 私は泣いた
泣きたいだけ泣いて 涙を拭いた
家を出て 山を下りた
</blocquote>
なぜ、疎遠になったのか。小夜子の中で、「いのち」がつづいていくことがわかったからだ。人間は死んだらそれでおしまいではない。いのちはどこまでもつづいていく。その証拠としての初潮がある。
小夜子は死ぬかもしれない。人間は、誰でも死ぬ。かもしれないではなく、小夜子は絶対死ぬ。しかし、それは彼女にとっての死であって、「いのち」にとっての死ではない。いのちは形をかえながら生き延びる。「彼女たちは死に/私は生きている」。
その絶望。
墓の前で、死者たちを呼び戻し、ままごとをする--そういうことは、空想にすぎない。死者は存在しない。死者にはなれない。墓から呼び出した死者は、幻である。
生と死、死と生は、どこかで入れ替わってしまう。入れ替わりながら生と死という「二つ」のものではなく、「いのち」という「ひとつ」のものになる。
小夜子の死を生きることで、高橋は、そういう「思想」を手にいれている。
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