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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『永遠まで』(17)

2009-08-17 00:02:55 | 高橋睦郎『永遠まで』
高橋睦郎『永遠まで』(17)(思潮社、2009年07月25日発行)

 「思うこと 思いつづけること」は四川大地震の死者たちに捧げられた詩である。その4連目。

飲めず、食えず、眠ることのできないあなたがたと、飲み、食い、
眠らずにはいられない私どもが和むには……しかし、私どもがあな
たがたと和むことは、けっしてありえないだろう。その厳然たる事
実を思うこと、避けることなく思いつづけること。

 生きている人間は思いつづけなければならない。そして、思いつづけるために書く。ことばにする。思うだけではなく、きちんとことばにして、書く。書き留める。そして、書きつづける。
 これは四川大地震の犠牲者に対してだけではなく、高橋が一貫してとりつづけている態度である。この詩集を貫いている姿勢である。
 最終連で、もう一度、繰り返している。

いまはそのことを思わなければならない。心を尽して思わなければ
ならない。あなたがたが関知しようとしまいと、つづけられる限り
思いつづけなければならない。それが私どもがこちら側にいるこ
と。そして、あなたがたが向う側にいるということ。等しく、ひと
りひとり、ひりひりと孤独であるということ。

 最後のことばは複雑である。死者は孤独である。その死者を思いつづけるとき、「私」も孤独である。しかし、そこに、何らかの通い合うものがないのか。--高橋は、ない、と言っているように思う。何も通い合わない。けれど、思わなければならない。
 生きている私たちが死者を思ったからといって、死者が孤独から解放されるわけではない。死者は孤独である。だからこそ、その死者に匹敵する孤独を獲得するために、詩人はことばを書く。死者の孤独を生きるために書く。
 そうやって、高橋は「死者」そのものになろうとしているようにも思える。

 この詩集におさめられた多くの追悼詩--そのなかで、高橋は、死者そのものになろうとしていた。死者を生きようとしていた。その多くは高橋の知人であったが、この「思うこと 思いつづけること」には、そういう知人は出てこない。だから、この詩では、高橋は死者の具体的な生については触れていない。生きてきた「過去」については触れず、死の瞬間、死というものだけを浮かび上がらせ、死者そのものになろうとしている。
 抽象的である。抽象的である分、高橋の思想が抽象化され、一般化されているような印象が残る。
 







永遠まで
高橋 睦郎
思潮社

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高橋睦郎「永遠まで」 (大井川賢治)
2024-06-12 16:12:05
/死者の孤独を生きるために、詩人はことばを書く/、と谷内さんは言う。詩人の高橋に限っては、これは真実だと思う。さらに/死者は孤独である/とも言われる。この後半に関しては、私は意義があります、死者は、果たして孤独かな?と思ってしまうのです。
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