『えてるにたす』。「音」のつづき。「想像力」が聞く音について。
これは、「祭に出す仮面劇(マスク)の相談」の内容である。ここに書かれている音は、そこには存在しない。話しているひと、そしてそれを聞いているひとの想像力の中になっている音である。
そして、そういう音を想像するとき、不思議なことに私は「音」そのものを聞いていない。音よりも、そこに語られている存在の動きをイメージしている。
と、同時に。
私は何よりも、その語られていることば自体の音を聞いている。
たとえば「林檎がテーブルをかする音」というときの「かする」を聞いている。ここは理由などはないのだが「ころがる」ではだめ。「かする」だからおもしろい。林檎をテーブルで「切る」音、でもだめである。
「茄子とかんづめの空かんがすれる音」になると「すれる」という動詞だけではなく、「茄子」「かんづめ」「空かん」も絶対的である。それ以外のことば、それ以外の音はおもしろくない、という気がしてくる。
そして、「音の中の音の中の音の」という西脇のことばを借りていえば、「ことば」のなかの「音」の中にある「音」が他のことばの「音」のなかの「音」と触れ合って、聞こえない「音」を、聞こえないまま、そこに存在させている--それを聞いているという気持ちになるのだ。
こういう一瞬を、「音に酔う」といえる。私は「音」に「酔って」、正常な(?)判断力を失ってしまうのである。
最後の部分もおもしろいのだ。
だれが「土手にスカンポの花がまた咲くのを/待つている」のかわからないが、この花が咲くとき、なぜかはわからないが、「蓮の花が開く音」を思い起こさせ、きっと「音」がするだろうと思う。蓮の花が開くとき「ぽん」と弾けるような音がするが、その「ぽん」が「スカンポ」のなかにあるからかもしれない。
仮面劇の相談のなかの「蓮の花が開く音」は「スカンポの花が開く音」なら、その劇(あるいは、そのことばの音)は、もっと別なことばを誘いながらもっとつづいたかもしれない。
だが、そんなことをすれば、これはまた別の詩にもなってしまう。
だから、あきらめて(?)、「どこかへ行かなければ/ならないわ」。
あ、この最後の「わ」の不思議な美しさ。スカンポの花が開くのを待っている、待ちきれずにそこを去ってしまわなければならない--その空しい明るさが、その「わ」のなかにある。

「こんどは笛を追放しよう
白金の絃琴だけにしよう
人間の言葉はあきたから
神々の言葉だけにしよう
林檎がテーブルをかする音
さじが絨毯におちる音
梅がやぶがらしの中へころがる音
音の中の音の中の音の
つり銭の音
乞食の袋の中で
茄子とかんづめの空かんがすれる音
蓮の花の開く音は--
あまりに町人的な……」
これは、「祭に出す仮面劇(マスク)の相談」の内容である。ここに書かれている音は、そこには存在しない。話しているひと、そしてそれを聞いているひとの想像力の中になっている音である。
そして、そういう音を想像するとき、不思議なことに私は「音」そのものを聞いていない。音よりも、そこに語られている存在の動きをイメージしている。
と、同時に。
私は何よりも、その語られていることば自体の音を聞いている。
たとえば「林檎がテーブルをかする音」というときの「かする」を聞いている。ここは理由などはないのだが「ころがる」ではだめ。「かする」だからおもしろい。林檎をテーブルで「切る」音、でもだめである。
「茄子とかんづめの空かんがすれる音」になると「すれる」という動詞だけではなく、「茄子」「かんづめ」「空かん」も絶対的である。それ以外のことば、それ以外の音はおもしろくない、という気がしてくる。
そして、「音の中の音の中の音の」という西脇のことばを借りていえば、「ことば」のなかの「音」の中にある「音」が他のことばの「音」のなかの「音」と触れ合って、聞こえない「音」を、聞こえないまま、そこに存在させている--それを聞いているという気持ちになるのだ。
こういう一瞬を、「音に酔う」といえる。私は「音」に「酔って」、正常な(?)判断力を失ってしまうのである。
最後の部分もおもしろいのだ。
土手にスカンポの花がまた咲くのを
待つている
どこかへ行かなければ
ならないわ
だれが「土手にスカンポの花がまた咲くのを/待つている」のかわからないが、この花が咲くとき、なぜかはわからないが、「蓮の花が開く音」を思い起こさせ、きっと「音」がするだろうと思う。蓮の花が開くとき「ぽん」と弾けるような音がするが、その「ぽん」が「スカンポ」のなかにあるからかもしれない。
仮面劇の相談のなかの「蓮の花が開く音」は「スカンポの花が開く音」なら、その劇(あるいは、そのことばの音)は、もっと別なことばを誘いながらもっとつづいたかもしれない。
だが、そんなことをすれば、これはまた別の詩にもなってしまう。
だから、あきらめて(?)、「どこかへ行かなければ/ならないわ」。
あ、この最後の「わ」の不思議な美しさ。スカンポの花が開くのを待っている、待ちきれずにそこを去ってしまわなければならない--その空しい明るさが、その「わ」のなかにある。
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沢 正宏 | |
桜楓社 |
