高橋睦郎『百枕』(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)
高橋睦郎『百枕』の「帯」に「沢山の言葉の枕に頭をあずけ、詩の夢天にあそぶ 三百三十三の句作と自在奔放なエッセイ」とある。ほかに、この本を紹介することばはいらない。
でも、まあ、少しずつ書いていこう。
私は俳句というものを知らない。「五七五」という形式や「季語」「切れ字」というようなことは学校で習ったので知っているが、そのことばを読んで考える、というようなことをしてこなかった。だから、句を読むのではなく、ただ、そこにあることばを読む。いつもと同じように。(引用は、簡略字、表記もそのまま再現できないので都合のいいように変更している。原文は本で確認してください。)
「籠枕--七月」。これは竹であんだ枕、夏につかう。ちょうど、いまは夏。この本を読みはじめるには都合がいいし(?)、季節的にもすーっとはいっていける。私のような俳句の素人には、こういう偶然はあんばいがいい。
豊後竹田は竹工芸が盛んだ。そこで籠枕は生まれた。そういうことを単純に書いてあるのだが、この単純さに私はほっとする。
その前に置かれた二句が手ごわい。
これは、この句集(?)全体の発句。「百」(たくさん)書きますよ、と「あいさつ」のようなものだろう。七月、夏なので、枕のなかから「籠枕」を選び、季語としてとりこんでいる。そういうさらりとした感じがあって気持ちがいいのだけれど、表記につまずく。最初に断っておいたが、私は高橋の表記そのものを少しかえて引用している。
この句では「百モ」。実際は「モ」は活字を小さくして「百」の右下にそえてある。「ひゃく」ではなく「もも」と読んでください、ということなのだろう。
そういうことを承知の上でのことなのだが、私は、ここにつまずく。
高橋は、自分の書いたことばに対して厳密に向き合っている。「ひゃく」と読まれては困る、と自己主張している。こういうこだわりは、詩人(作家)ならだれでも持っているものだと思うけれど、他方で私は書かれたことばは書かれた瞬間から作者の手を離れているとも思うので、作者の思いとは違うふうに読んでみたいなあという欲望にかられる。「誤読」したい、という欲望にかられる。その欲望を、いきなり、ぐいとおさえつけ「いけません」と叱られたような気持ちにもなる。
そこでつまずく。
でも、どんなに「誤読」しないでね、と念押しされても、私は「誤読」する。「誤読」するしかない。「誤読」が、私は好きなのだ。趣味なのだ。「正しい読み方」は誰かほかのひとにまかせたい。私は高橋のことばに触れながら、どこまで高橋から遠くへ行けるのか、そのことを楽しみたい。
と、ごちゃごちゃしたが、私もまず「あいさつ」をしておいて……。
二句目。
びっくりするなあ。「たまくら」は「手枕」を呼び込む。ちょっと横になる。自分の手を枕に目をつぶる。そんな気楽な感じ、本格的(?)に寝るのではない「軽い」感じ--それが「籠枕」と響きあうということかな?
しっかり眠るには別の枕がある。「籠枕」は暑苦しい夜をしのぐかりそめ(?)の枕、軽い枕、かな?
でも「たまくら」を「手枕」とは高橋は書かない。
こういうことばがあるのかどうか知らない。私はいままでこういう「文字」を見たことがない。知らないことばである。知らない--けれど、「意味」がわかってしまう。
魂(たましい)が座る、落ち着く、存在する、いる、集まる--それが籠枕。
いや、これは正確ではなくて、魂が集まってきて、存在する「場」として「枕」というものがある。「枕」というものは、そういう「もの」である。ただし、「枕」なのかのひとつ、「籠枕」は、それほど「厳密」ではなく、「軽い」感じで魂が集まってくる、そしてそこに「いる」ための「場」である。
そういうことなんだろうなあ、と思う。
でも、いま私が書いたことは、「軽い」こと? なんだか哲学的でもあり(自分で言うのも変だけれど)、むしろ「重い」。「軽い」とは逆。でも、それを高橋は「軽ロ」さと結びつける。--ここにある、矛盾。私だけがつまずく矛盾。
高橋は、そこではつまずかない。「重さ」を「軽ロさ」と書くことで、涼風のようにぬぐい去る。
あ、でもねえ。
なんだか、昼寝から覚めたとき、夢のなかで「魂」が動いていたなあというような印象がよみがえるような、何か引っ張られるものを感じてしまう。
ほんとうは「涼しい」感じを味わわなければならないのかもしれないけれど、「涼しい」にたどりつけない悔しさのようなものが残る。--夢の残りのように。
そのあとで、
これはいいなあ。気楽だなあ。気分が一新する。そして、四句目。
つかわれていい籠枕が納戸の奥で眠っている。枕はひとが眠るためのものだが、籠枕の方が眠っている。おかしいね。
もしかすると高橋は俳句を書きながら、ひとりで「連歌」をやっているのかもしれない。「連歌」は「五七五」の句と「七七」の句をくりかえすのだけれど、高橋は「七七」は書かず、「五七五」だけをつくる。いわば、変形の連歌だ。
連歌というのは、それぞれの句自体の完成度(詩)も大切だが、句と句が結びついてつくりだす(生み出す)詩も大切である。
ことばとことばが呼び合って、いままでそこに存在しなかった詩、独立した句だけでは存在しえない「運動の詩」を生み出す--それを連歌だと定義してみると、高橋の句は連歌である。一句一句もおもしろいが、句から句へと動いているこころの動きも楽しい。そこに詩がある。
句をたくさんかきたいと思います、と「あいさつ」する。ここにはたくさんの「魂」が集まってきます。でも、深刻にならずに、「軽さ」をもって、あるいは「軽さ」のために集まってきます。「枕」ということばのなかで、たのしく「遊ぶ」ために集まってくるんです。
高橋は、そんなふうにこの句集をはじめているのかもしれない。
集まってきた「魂」--そのひとつ(?)は、私は「豊後竹田の生まれです」と名乗る。そこから「ふるさと」が呼び出され、ふるさとと言えば、「母」がどうしても思い出されるだろう。次は、「母」へとつづいてゆく。
「籠枕」は「蚊帳」があるために、季重なりをさけて「古枕」。「蚊帳」の編み目が籠枕の編み目のようでもあるね。
ことばはさらにさらに、蚊帳から蚊遣、そして実際に眠り、夢へと動いていく。
全部書いてもしようがないので、その途中の、
この句。私は、とても気に入った。大好きだ。「すのいりし・かしらひとつを・かごまくら」。籠枕をして眠ると、頭の中も籠のように「すがはいる」。すかすか--というか、空隙ができる。句は、意味的には、すでにすの入った頭を籠枕にのせて眠るということなのかもしれないけれど、頭と籠枕が「鬆の入りし」という状態で「一体」になる。「ひとつ」になる。その「ひとつ」が「一つを」ということばのなかにもあって、とても自然にことばが結晶していく。
「あたま」ではなく「かしら」というのも、とてもいいなあ。「あたま」はうるさいけれど、つまりあれこれむずかしいことをいいそうだけれど、「かしら」は厳しくてもむずかしいことはいわないね。
この「籠枕」の最後、エッセイをはさんで、「反歌」のようにして一句置かれている。
一生の幾百モ幾盗汗(ねあせ)
「いっしょうの・いくももまくら・いくねあせ」と読むのだろうか。「寝汗」は「盗汗」か。悪夢のときに流す汗--何かを盗まれるような感じの気持ちで流す汗が「ねあせ」ということかな? いや、そうではなくて、自分がもっていないものを何とか手に入れよう(盗もう)として懸命になって流す汗が「ねあせ」かな? 「日本語」を旅して、自分にないことば、高橋がもっていないことばを一つ一つ消化・昇華するこころみ--高橋は謙遜して、そう「あいさつ」しているのかもしれない。
あ、こんなところで謙遜されると、読者は困ってしまうよね。まだ読み進んでいいかなあ。もうここで感想を書くのをやめた方が無難(?)かなあ、なんて悩んでしまうのだった。

高橋睦郎『百枕』の「帯」に「沢山の言葉の枕に頭をあずけ、詩の夢天にあそぶ 三百三十三の句作と自在奔放なエッセイ」とある。ほかに、この本を紹介することばはいらない。
でも、まあ、少しずつ書いていこう。
私は俳句というものを知らない。「五七五」という形式や「季語」「切れ字」というようなことは学校で習ったので知っているが、そのことばを読んで考える、というようなことをしてこなかった。だから、句を読むのではなく、ただ、そこにあることばを読む。いつもと同じように。(引用は、簡略字、表記もそのまま再現できないので都合のいいように変更している。原文は本で確認してください。)
「籠枕--七月」。これは竹であんだ枕、夏につかう。ちょうど、いまは夏。この本を読みはじめるには都合がいいし(?)、季節的にもすーっとはいっていける。私のような俳句の素人には、こういう偶然はあんばいがいい。
籠枕豊後竹田の生まれとか
豊後竹田は竹工芸が盛んだ。そこで籠枕は生まれた。そういうことを単純に書いてあるのだが、この単純さに私はほっとする。
その前に置かれた二句が手ごわい。
籠枕百モの枕の手はじめに
これは、この句集(?)全体の発句。「百」(たくさん)書きますよ、と「あいさつ」のようなものだろう。七月、夏なので、枕のなかから「籠枕」を選び、季語としてとりこんでいる。そういうさらりとした感じがあって気持ちがいいのだけれど、表記につまずく。最初に断っておいたが、私は高橋の表記そのものを少しかえて引用している。
この句では「百モ」。実際は「モ」は活字を小さくして「百」の右下にそえてある。「ひゃく」ではなく「もも」と読んでください、ということなのだろう。
そういうことを承知の上でのことなのだが、私は、ここにつまずく。
高橋は、自分の書いたことばに対して厳密に向き合っている。「ひゃく」と読まれては困る、と自己主張している。こういうこだわりは、詩人(作家)ならだれでも持っているものだと思うけれど、他方で私は書かれたことばは書かれた瞬間から作者の手を離れているとも思うので、作者の思いとは違うふうに読んでみたいなあという欲望にかられる。「誤読」したい、という欲望にかられる。その欲望を、いきなり、ぐいとおさえつけ「いけません」と叱られたような気持ちにもなる。
そこでつまずく。
でも、どんなに「誤読」しないでね、と念押しされても、私は「誤読」する。「誤読」するしかない。「誤読」が、私は好きなのだ。趣味なのだ。「正しい読み方」は誰かほかのひとにまかせたい。私は高橋のことばに触れながら、どこまで高橋から遠くへ行けるのか、そのことを楽しみたい。
と、ごちゃごちゃしたが、私もまず「あいさつ」をしておいて……。
二句目。
魂座(たまくら)に叶ふ軽ロさよ籠枕
びっくりするなあ。「たまくら」は「手枕」を呼び込む。ちょっと横になる。自分の手を枕に目をつぶる。そんな気楽な感じ、本格的(?)に寝るのではない「軽い」感じ--それが「籠枕」と響きあうということかな?
しっかり眠るには別の枕がある。「籠枕」は暑苦しい夜をしのぐかりそめ(?)の枕、軽い枕、かな?
でも「たまくら」を「手枕」とは高橋は書かない。
魂座
こういうことばがあるのかどうか知らない。私はいままでこういう「文字」を見たことがない。知らないことばである。知らない--けれど、「意味」がわかってしまう。
魂(たましい)が座る、落ち着く、存在する、いる、集まる--それが籠枕。
いや、これは正確ではなくて、魂が集まってきて、存在する「場」として「枕」というものがある。「枕」というものは、そういう「もの」である。ただし、「枕」なのかのひとつ、「籠枕」は、それほど「厳密」ではなく、「軽い」感じで魂が集まってくる、そしてそこに「いる」ための「場」である。
そういうことなんだろうなあ、と思う。
でも、いま私が書いたことは、「軽い」こと? なんだか哲学的でもあり(自分で言うのも変だけれど)、むしろ「重い」。「軽い」とは逆。でも、それを高橋は「軽ロ」さと結びつける。--ここにある、矛盾。私だけがつまずく矛盾。
高橋は、そこではつまずかない。「重さ」を「軽ロさ」と書くことで、涼風のようにぬぐい去る。
あ、でもねえ。
なんだか、昼寝から覚めたとき、夢のなかで「魂」が動いていたなあというような印象がよみがえるような、何か引っ張られるものを感じてしまう。
ほんとうは「涼しい」感じを味わわなければならないのかもしれないけれど、「涼しい」にたどりつけない悔しさのようなものが残る。--夢の残りのように。
そのあとで、
籠枕豊後竹田の生まれとか
これはいいなあ。気楽だなあ。気分が一新する。そして、四句目。
ふるさとは納戸の闇の籠枕
つかわれていい籠枕が納戸の奥で眠っている。枕はひとが眠るためのものだが、籠枕の方が眠っている。おかしいね。
もしかすると高橋は俳句を書きながら、ひとりで「連歌」をやっているのかもしれない。「連歌」は「五七五」の句と「七七」の句をくりかえすのだけれど、高橋は「七七」は書かず、「五七五」だけをつくる。いわば、変形の連歌だ。
連歌というのは、それぞれの句自体の完成度(詩)も大切だが、句と句が結びついてつくりだす(生み出す)詩も大切である。
ことばとことばが呼び合って、いままでそこに存在しなかった詩、独立した句だけでは存在しえない「運動の詩」を生み出す--それを連歌だと定義してみると、高橋の句は連歌である。一句一句もおもしろいが、句から句へと動いているこころの動きも楽しい。そこに詩がある。
句をたくさんかきたいと思います、と「あいさつ」する。ここにはたくさんの「魂」が集まってきます。でも、深刻にならずに、「軽さ」をもって、あるいは「軽さ」のために集まってきます。「枕」ということばのなかで、たのしく「遊ぶ」ために集まってくるんです。
高橋は、そんなふうにこの句集をはじめているのかもしれない。
集まってきた「魂」--そのひとつ(?)は、私は「豊後竹田の生まれです」と名乗る。そこから「ふるさと」が呼び出され、ふるさとと言えば、「母」がどうしても思い出されるだろう。次は、「母」へとつづいてゆく。
たらちねの慈悲や古蚊帳古枕
「籠枕」は「蚊帳」があるために、季重なりをさけて「古枕」。「蚊帳」の編み目が籠枕の編み目のようでもあるね。
ことばはさらにさらに、蚊帳から蚊遣、そして実際に眠り、夢へと動いていく。
全部書いてもしようがないので、その途中の、
鬆(す)の入りし頭ラ一つを籠枕
この句。私は、とても気に入った。大好きだ。「すのいりし・かしらひとつを・かごまくら」。籠枕をして眠ると、頭の中も籠のように「すがはいる」。すかすか--というか、空隙ができる。句は、意味的には、すでにすの入った頭を籠枕にのせて眠るということなのかもしれないけれど、頭と籠枕が「鬆の入りし」という状態で「一体」になる。「ひとつ」になる。その「ひとつ」が「一つを」ということばのなかにもあって、とても自然にことばが結晶していく。
「あたま」ではなく「かしら」というのも、とてもいいなあ。「あたま」はうるさいけれど、つまりあれこれむずかしいことをいいそうだけれど、「かしら」は厳しくてもむずかしいことはいわないね。
この「籠枕」の最後、エッセイをはさんで、「反歌」のようにして一句置かれている。
一生の幾百モ幾盗汗(ねあせ)
「いっしょうの・いくももまくら・いくねあせ」と読むのだろうか。「寝汗」は「盗汗」か。悪夢のときに流す汗--何かを盗まれるような感じの気持ちで流す汗が「ねあせ」ということかな? いや、そうではなくて、自分がもっていないものを何とか手に入れよう(盗もう)として懸命になって流す汗が「ねあせ」かな? 「日本語」を旅して、自分にないことば、高橋がもっていないことばを一つ一つ消化・昇華するこころみ--高橋は謙遜して、そう「あいさつ」しているのかもしれない。
あ、こんなところで謙遜されると、読者は困ってしまうよね。まだ読み進んでいいかなあ。もうここで感想を書くのをやめた方が無難(?)かなあ、なんて悩んでしまうのだった。
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