監督 シドニー・ポラック 出演 バーブラ・ストライザンド、ロバート・レッドフォード
バーブラ・ストライザンドが一生懸命に演技している。ふつう、こんなふうに一生懸命に演技されてしまうとなんだか嘘っぽくなるのだけれど、なぜか嘘っぽくならない。役柄の女性の一生懸命さとぴったり重なるからだねえ。「ケイティー」という女ではなく、あ、バーブラ・ストライザンドがいる、と思ってしまう。「ケイティー」ではなく、バーブラ・ストライザンドを見ている--それが「役」であるにもかかわらず、バーブラ・ストライザンド本人を見ているような気分になり、引きこまれる。
卒業のダンスパーティー。ロバート・レッドフォードの動きをひたすら追いつづけるバーブラ・ストライザンドの目、その表情が、なんともすばらしい。あからさまに恋を語っている。まわりの誰かを気にすることなく、ただただロバート・レッドフォードを追っている。
叶わぬ恋なのに、恋せずにはいられない。正確や主義も違う。合うはずがない。それでも恋してしまう。
一方のロバート・レッドフォードの方も自分向きの女ではないとわかっているのに、どこか、そのいちずさにひかれるところがある。たぶん、彼のまわりの女とは何かが違うのだ。一生懸命さが違うのだ。そこに、もしかしたら「自分が変わる」というきっかけ、何か不思議な飛躍を見ているのかもしれない。
いったん別れる決心をし、「眠れない」と訴えるバーブラ・ストライザンドをなぐさめに行く。そこで、ロバート・レッドフォードは「自分は変われない」(だったかな?)という。即座にバーブラ・ストライザンドが「私たちは変われる」と、「アイ」を「ウィー」に言い換える。「できない」を「できる」に言い換える。その瞬間、ロバート・レッドフォーは「まいったな」という。彼がかすかに感じていたこと、なぜバーブラ・ストライザンドにひかれるかといえば、その「私たち」と「できる」という強い確信をバーブラ・ストライザンドが持っているからなのだ。
このシーンが、この映画のなかでいちばん美しい。そして、かなしい。
結局、「変わる」ことは「できない」からである。人間は、変わらない。愛というのは、自分がどうなってもいいと覚悟して、自分以外の人間といっしょに生きることだが、それはやはりむずかしいことなのだ。
でも、青春の、ある一瞬は、そのできないことをやってしまう。
それが美しく、せつなく、忘れられない。
もしこの映画の主人公がバーブラ・ストライザンドでなかったら、どんな映画になっていただろう。全身で「一生懸命」を真剣に伝えることができる女優でなかったら、どうなっていただろう。
バーブラ・ストライザンドは美人である--と思ったことは、私は、一度もない。(ふっと、笑ったときの顔は、ユダヤ人特有の人懐っこさがあり、かわいいとは思うが。)でも、映画を見ていると美人であるかどうかということを忘れてしまう。真剣さ、うるさいくらいに真剣な姿勢に、知らずに私の姿勢が変わっているのに気がつく。「どうせ映画なんだから」という感じが消えて、そこにほんものの人間を見てしまうのだ。
ロバート・レッドフォードがけんかのはてに「まいったなあ」というみたいに、ふと、まいったなあ、と思ってしまうのだ。何か大切なものを、はっと感じてしまうのだ。
映画だけではなく、歌もまた同じである。聞いていて、何か歌を聞いているという感じを忘れるときがある。声を聞いている。何かを言おうとする必死な声。英語だから「意味」はわからないのだが、「意味」を超えて、「思い」を感じてしまう。いや「思い」というのは正確ではないかもしれない。詩のなかの、ことばのなかの「思い」ではなく、歌い、伝えようとするバーブラ・ストライザンドの生き方そのものを感じて、ふっと、背筋が伸びる一瞬があるのだ。
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映画と関係があるかどうかわからないが……。
バーブラ・ストライザンドにはニューヨークが似合う、と感じた。ロサンゼルス(ハリウッド)の場面ではバーブラ・ストライザンドは「空気」と向き合っていない。ニューヨークでは「空気」と向き合っている。「空気」のすみずみにまで、自分の「思い」を伝える、という感じで生きている。
最後のロバート・レッドフォードの再会のシーンでも、自分の「本拠地」はニューヨークという感じが、「地」として出ている。おもしろいなあ、と思った。
(「午前十時の映画祭」26本目)
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