詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い川』(11)

2010-11-26 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(11)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「歳月」。ここに、壮絶なことばがある。

 自分が、何をして飯を食ってきたか、もう、半ば分か
らなくなっているのだ。他人の死の歳月のかなたで、一
切は、朦朧としている。

 「他人の死の歳月のかなた」。この「死」は「生」である。「生きる」である。
 この詩の登場人物の「自分」は「刑場」の首刎ね職人である。他人の首を刎ねる仕事をしてきた。そして、いまは庭に菊を咲かせることを楽しみに生きている。仕事をやめて余生を生きている。「おれは、耄碌して、一日、縁に坐って、口をあけているだけだ。」という状態である。
 「他人の死の歳月」というのは、他人の首を刎ねつづけた歳月という意味であり、「他人の死の歳月のかなた」とは、そういう自分の生きてきたことの、ただ唯一はっきりしている「他人の首を刎ねる」ということのかなたで、ということになる。つまり、自分の「生」のかなたということになるのだが……。
 その「生」(首を刎ねる、刎ねて生きる)が「他人の死」と重なるとき、当時(首を刎ねているとき)は気がつかなかった「他人の生」というものが、ふいに反逆してくる。「生」がないのに、そこに「死」だけがあるという不思議な事実が、「おれ」に反逆してくる。
 「朦朧」としているのは、一義的には自分の「生」なのだが、それは朦朧とはしていない。ちゃんと「首を刎ねて生きてきた」ということはわかるのだから、そこでほんとうに朦朧としているのは「他人の生」だということがわかる。「朦朧」どころか、まったくわからないということを、男は知ってしまう。
 知らないものがある、ということを男は知ってしまう。

 知らないもの、絶対的に知ることのできないもの。それは「死」である。自分の「死」である。それは絶対に知らないということで「他人の生」(首を刎ねられた他人の生)とふいに重なる。
 そして。
 「他人の生」というのは、他人のなかだけにあるのだろうか。もしかしたら、「自分」のなかにもあるのではないだろうか。他人の首を刎ね、その後、道楽で菊を育てて生きてきたが、そのほかにも、男の生はあったのではないのか。ほかの生き方はあったのではないのか。そればかりか、意識せずに生きてきた「いのち」があったのではないのか。
 「朦朧」としているのは、実は、そういう自分の「生」そのものである。

 これは、いま、私が書いたことは「現実」なのか、それとも「夢」なのか。つまり、粕谷が実際に書いていること、書こうとしていることなのか、それとも粕谷の「日常を超えてやってくる、特別の時間」--粕谷の書いたことば、粕谷が繰り返し書いていることばを超えてやってきた、何か特別な「時間」--粕谷のことばのなかにある「いのち」の動きが描いて見せるものなのか……。
 それこそ、そういうことが、私の中で「朦朧」となってしまう。何かがどこかで矛盾しているのかもしれない。その矛盾に気がつかずに、それでもことばを動かそうとするとき「朦朧」という状態になるのかもしれない。

 おれは、とんでもない幻の運命を生きたのだろうか。
暗黒の夢のなかで、おれは、大刀を振りかぶり、坐って
いる自分の首を刎ねる。ころころと、首は転がる。

 これは、たしかに「夢」なのだ。そうでなければ、そのように書くことはできない。書く--書いているという「現実」があり、他方に、自分で自分の首を刎ねるという「夢」がある。
 自分で自分の首を刎ねるということは、現実にはできない。だから、それは矛盾である。そういう矛盾が「日常を超えてやってくる、特別な時間」である。
 そこでは、あらゆる時間が重なっているのだ。
 大刀を振りかぶり、他人の首を刎ねるという「おれ」の時間。そして、そのとき「おれれ」に首を刎ねられる「他人の」時間。重なりようのないものが「いま」という一瞬の「時間」のなかで、「一瞬」であること、「同時」であることにおいて重なる。
 それが「夢」。
 「日常を超えてやってくる、特別な時間」は、自分の時間を超えてやってくる、他人の時間、他人の生、なのだ。自分の生と他人の生とはまったく別なものである。その別なものが重なる瞬間が「夢」。
 そして、これは次のように書き直すこともできるかもしれない。
 自分にとって(人間にとって)の「生」とはまったく別なものとは「死」である。「生」と「死」が重なる瞬間--「生」と「死」が「同時」にある「時間」、それが「夢」であると。
 あるいは、さらに、「生」と「死」の「境界」が「夢」である、と。

 遠い天に、三日月が出ていて、長い刑場の塀が続いて
いる。そのあたりに、無数の白い菊の花が咲いている。
どんな人間の一生も、一生は、一生なのだ。

 長い刑場の「塀」。それが「境界線」である。そして、そのあたりに咲いている「無数の白い菊」が「夢」である。誰の一生も、そこでは区別ができない。同じように「生」と「死」の「境界線」として「一生」がある。絶対に同時に存在しえないものが同時に存在する矛盾が「一生」なのだ。



続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社


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