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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(23)

2010-11-27 10:50:51 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(23)

 その代わり再現されているのは、駅から出たとたん最初に覚える感じのような、春の印象の数々だ。地面は柔らかく、足に近く、まったく遠慮のない空気の流れが頭を取り巻く。
                                 (41ページ)

 この春の描写は、私にはとても懐かしく感じられる。私が雪国育ちだということと関係している。「地面は柔らかく、足に近く」。これは雪が消えているからである。雪の凍った道に比べると地面は柔らかい。そして何よりも「足に近い」。地面と足の間に雪がない。それだけではない。いや、正確ではない。足が感じるのは「もの」ではないのだ。「もの」の感触なのだ。雪があるとき、雪とともにある感触。冷たい、滑る--などの感触がない。それを足という肉体がはっきり感じる。それは、なんといえばいいのだろう、自分自身の「感触」を脱いだ感じなのだ。自分の肉体が自然にまとってしまう緊張感を脱いで、地面に直接触れる感じ。それが「近い」。それは地面と足の間に雪が挟まっているか挟まっていないか以上の違いなのだ。「物理」ではなく「生理」の近さである。
 同じことが「遠慮のない空気の流れ」にも言える。「遠慮がない」ということばそのもので言えば冬の空気も遠慮がない。人間に配慮しない。平気で頭を殴ってくる。帽子や耳当てがないと、とてもつらい。冷たい空気は痛くてたまらない。春の空気の遠慮のなさは、それとは違う。空気が触れるのは同じだが、人間が、「さあ、遠慮しないでもっと愛撫して」と要求するものなのだ。空気に遠慮がないのではなく、人間の方に遠慮に対する意識がない。どんなに触られたって、どんなにぶしつけにふいに襲ってきたってうれしいのだ。ここに書かれているのは「気候」ではなく「心理」なのだ。
 ナボコフは、生理や心理を、すばやくことばにもぐりこませるのだ。

ちょっと離れたところでぼくたちを待っていたのは、内側も外側も真っ赤なオープンカーだった。スピードの観念のせいですでにそのハンドルは傾斜していたが(ぼくの言いたいことは、海辺の崖の木々にはわかってもらえるだろう)、全体の外観はまだ--偽りの礼儀からだろうか--幌馬車の形と卑屈な関係を保っていた。
                                 (41ページ)

 (ぼくの言いたいことは、海辺の崖の木々にはわかってもらえるだろう)がおもしろい。人間に、ではなく、海辺の崖の木々。風にあおられつづけて傾いている(傾斜している)木々。ナボコフの視力は、いま、ここにない、遠くのものをすばやく引き寄せる。そして視力で引き寄せたものは、それぞれに「肉体」をもっている。だからこそ、その「肉体」が「わかる」と信じることができるのだ。崖の木々は「頭」でナボコフの書いたことばを理解するのではない。肉体で、風と、スピードが引き起こす風と肉体の傾斜の関係をわかるのだ。
 この自然との一種の一体感がナボコフの肉体そのものにあるような感じがする。そのことが、ナボコフのことばを伸びやかにしている。
 他方、人工のものに対しては、こういう親和感はない。「全体の外観はまだ--偽りの礼儀からだろうか--幌馬車の形と卑屈な関係を保っていた。」オープンカーも幌馬車も、車のひとつ。オープンカーは幌馬車の外観を真似ている(似ている)。それは後輩が先輩のスタイルを礼儀として真似るのに似ていて、そこには一種の「卑屈さ」がある。
 ナボコフは人工物に対して親和力ではなく批判力を発揮する。




賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)
ウラジーミル・ナボコフ
河出書房新社


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