『えてるにたす』。「菜園の妖術」のつづき。
この2行は不可能なことを想像力のなかで動かしてみる運動だが、最初に「音楽」が登場するところに西脇の西脇らしさがあると思う。「目が見えなくなって見えない絵を見たい」でも不可能を想像するという意味では同じだが、「聞えない音楽を聞きたい」と「音」にこだわっている。
「目」(視覚)は次に出てくるが、ことばの動きがちょっとおもしろい。
耳が聞こえなくなったとき、「聞えない音楽がききたい」と、肉体としての運動が書かれていたのに対し、「眼をつぶして」しまったときは「見たい」ではなく、「考えてみたい」ということばが選ばれている。
「聞えない音楽がききたい」も現実のことではなく想像(考え)の領域のことだが、ことばはあくまで「ききたい」である。けれど、視覚のときは「見たい」ではなく「考えてみたい」と、正確に「考え」(想像)ということばをつかっている。
耳は西脇にとっては「肉体」であるけれど、目は西脇にとっては「思考(精神)」なのだ。
西脇を「視覚」の詩人ととらえる人たちは、また、「思考(精神)」の読書人なのかもしれない。ことばから「精神(意味)」を読みとろうとする人たちは、西脇を「視覚」で考える人ととらえるのかもしれない。
目のことを書いたあと、西脇はまた音にもどってくる。
最後の2行は、どの動詞とつづくのか、わからない。まあ、どの動詞とつづいてもいいのだろう。ひょっとすると「考えてみたい」(見てみたい)かもしれないし、見てみたいの方が「意味」のとおりがいいのだけれど、だからこそ、そうではない、と私の直感は私にささやく。
「女の音がききたい/秋のような顔の女(の音)も(ききたい)/オリブ畑を歩く乞食(の音)も(ききたい)」だとすると、意味は混乱してしまう。だが、その混乱のなかに、何かが動く。ことばにならないものが動く。
それが、詩。
だいたい「女の音がききたい」がわからないでしょ? だから、わからないまま、混乱して、混乱できる「肉体」を楽しめばいいのだと思う。それが「つんぼになつて聞えない音楽」を「聞く」ということなのだ。混乱し、自分の「肉体」のなかにある「音」を聞くのだ。

つんぼになつて聞えない音楽がききたい
たべられない木の実がたべたい
この2行は不可能なことを想像力のなかで動かしてみる運動だが、最初に「音楽」が登場するところに西脇の西脇らしさがあると思う。「目が見えなくなって見えない絵を見たい」でも不可能を想像するという意味では同じだが、「聞えない音楽を聞きたい」と「音」にこだわっている。
「目」(視覚)は次に出てくるが、ことばの動きがちょっとおもしろい。
眼をつぶして灰色の世界から
となりの人がススキを刈つてしまつた
夏咲いたバラが赤い実になつているのを
考えてみたい
耳が聞こえなくなったとき、「聞えない音楽がききたい」と、肉体としての運動が書かれていたのに対し、「眼をつぶして」しまったときは「見たい」ではなく、「考えてみたい」ということばが選ばれている。
「聞えない音楽がききたい」も現実のことではなく想像(考え)の領域のことだが、ことばはあくまで「ききたい」である。けれど、視覚のときは「見たい」ではなく「考えてみたい」と、正確に「考え」(想像)ということばをつかっている。
耳は西脇にとっては「肉体」であるけれど、目は西脇にとっては「思考(精神)」なのだ。
西脇を「視覚」の詩人ととらえる人たちは、また、「思考(精神)」の読書人なのかもしれない。ことばから「精神(意味)」を読みとろうとする人たちは、西脇を「視覚」で考える人ととらえるのかもしれない。
目のことを書いたあと、西脇はまた音にもどってくる。
マラルメの詩のように灰色の枯葉の音の
ように静かに茶をのみ扇をもつ
女の音がききたい
秋のような顔の女も
オリブ畑を歩く乞食も
最後の2行は、どの動詞とつづくのか、わからない。まあ、どの動詞とつづいてもいいのだろう。ひょっとすると「考えてみたい」(見てみたい)かもしれないし、見てみたいの方が「意味」のとおりがいいのだけれど、だからこそ、そうではない、と私の直感は私にささやく。
「女の音がききたい/秋のような顔の女(の音)も(ききたい)/オリブ畑を歩く乞食(の音)も(ききたい)」だとすると、意味は混乱してしまう。だが、その混乱のなかに、何かが動く。ことばにならないものが動く。
それが、詩。
だいたい「女の音がききたい」がわからないでしょ? だから、わからないまま、混乱して、混乱できる「肉体」を楽しめばいいのだと思う。それが「つんぼになつて聞えない音楽」を「聞く」ということなのだ。混乱し、自分の「肉体」のなかにある「音」を聞くのだ。

![]() | Ambarvalia―西脇順三郎詩集 |
西脇 順三郎 | |
恒文社 |