『禮記』のつづき。「ティモーテオスの肖像」の後半は「音楽」が少しかわる。「子供」が消えるせいかもしれない。「音」がしんみりして、おとな(?)の感じが濃厚になる。
という行から後とのことなのだが、「音」の変化の前に置かれたこの1行--その正直さに私はどきっとする。こころが震える。西脇の詩は「わざと」書かれたことばだが、その「わざと」のことばのなかにも、正直というものはどうしても出てしまう。そう気づいて、どきっとするのである。(これ以外の行が、「わざと」書かれたことばなのに、ここでは「わざと」がない。その正直さに驚くのである。)
私の印象では、この1行のあと、詩は「転調」するのだが、その転調知らせることば--それがシャープやフラットの記号のようにくっきりしている。そこに「生理的」な正直さを感じる。この1行がないと転調できないのだろうなあ、と思う。(行分け詩の場合、連と連との区切り、1行空きを利用して転調することが多いが、西脇は1行空きのかわりに、こういう1行を書くのである。これに先立つ部分でも、「オーポポイ!」という感嘆詞があるが、感嘆詞を転調のきっかけにするのは、他の詩人でも頻繁にみられることである。)
「音」はいったん「色」をくぐる。ルネサンスと絵。そして、そこから友達のシャツの色を考えてみる。いったん「音」が消えるから、次にあらわれる「音」が静かなのかもしれない。
この「音」もふつうなら「声」かもしれない。「声」だと何かしら「意味」が感じられる。「音」になると、「意味」以前のところから聞こえてくる感じがする。洗練ではなく、野生、野蛮という感じがする。強い感じ--たたいてもこわれない感じ。
その強さのなかで「音」が静かに響く。
時間が夜だから、というだけではないと思う。
夏のふるさとはまた
という行から後とのことなのだが、「音」の変化の前に置かれたこの1行--その正直さに私はどきっとする。こころが震える。西脇の詩は「わざと」書かれたことばだが、その「わざと」のことばのなかにも、正直というものはどうしても出てしまう。そう気づいて、どきっとするのである。(これ以外の行が、「わざと」書かれたことばなのに、ここでは「わざと」がない。その正直さに驚くのである。)
私の印象では、この1行のあと、詩は「転調」するのだが、その転調知らせることば--それがシャープやフラットの記号のようにくっきりしている。そこに「生理的」な正直さを感じる。この1行がないと転調できないのだろうなあ、と思う。(行分け詩の場合、連と連との区切り、1行空きを利用して転調することが多いが、西脇は1行空きのかわりに、こういう1行を書くのである。これに先立つ部分でも、「オーポポイ!」という感嘆詞があるが、感嘆詞を転調のきっかけにするのは、他の詩人でも頻繁にみられることである。)
夏のふるさとはまた
暗黒のガラスになる頃
小学校の先生とまた
シソとタデのテンプラを食べて
ルネサンスの絵の話をするだろう
都に住む友達は
どんな色のシャツを着ているだろうか
二人で考えてみるだろう
田圃の方からまた
生ぬるい幽霊のような風が
吹いてくるだろう
また生殖を急ぐ蛙の
音が暗闇から押し寄せてくる
この潮の音は星群を
曇らせるだろう
「音」はいったん「色」をくぐる。ルネサンスと絵。そして、そこから友達のシャツの色を考えてみる。いったん「音」が消えるから、次にあらわれる「音」が静かなのかもしれない。
また生殖を急ぐ蛙の
音が暗闇から押し寄せてくる
この「音」もふつうなら「声」かもしれない。「声」だと何かしら「意味」が感じられる。「音」になると、「意味」以前のところから聞こえてくる感じがする。洗練ではなく、野生、野蛮という感じがする。強い感じ--たたいてもこわれない感じ。
その強さのなかで「音」が静かに響く。
時間が夜だから、というだけではないと思う。
![]() | 西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ) |
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