goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(191 )

2011-03-05 09:12:02 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「半分」ということばは、「たそがれのまなこ」にも出てくる。知人を訪ねての帰り道。その「途中生垣をめぐらす/大きな庭を/向う側にみて」いる。その詩の後半。

ザクロの実が
重そうに枝から下がつている
なぜこの半分の風景が
心をさびしがらせるのか

 ここで「半分」と書かれているのは、ザクロに則して言えば、ザクロの全体が見えない。生け垣で半分は隠されている、ということだろう。「世界」は半分が見え、半分は見えない--そこに「さびしさ」があり、美しさがある。
 それは「意味」が完結しない、ということかもしれない。完結しないことで、「意味」の「断面」のようなものが見えるのかもしれない。その「見える」という感覚は錯覚かもしれないけれど……。きっと、半分であることで、もう半分を求めようとして何かが動くのである。その動くことのなかに、たぶん「さびしさ」と美しさがある。「動く」という運動そのもののなかに、美しさのすべてがある。

何人がこの乱れた野原のような
曲つた笛のような庭で
秋の来るのを
待つていたのだろう
この辺は昔ガスタンクを見ながら
苺に牛乳をかけてたべたところだ

 最後の2行は、この詩を「半分」にしてしまう。「現在」のなかに、突然、時間を突き破ってあらわれる「過去」である。そして、その「過去」は「この辺」というだけの理由で「現在」を突き破るのだ。
 「ガスタンク」も「苺に牛乳をかけてたべ」ることも、生け垣の向こうにある庭とは無関係である。
 無関係なものの闖入は、「乱調」である。そして、この「乱調」を促すのが「半分」という不思議な「断面」、あるいは「すきま」(間)の構造である。ここにかかれていることが、何かに完全に属していない、「半分」自由であるから、そこに乱調を誘い込むのである。




西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 岩佐なを「下弦」、池井昌樹... | トップ | ジョージ・スティーヴンス監... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

誰も書かなかった西脇順三郎」カテゴリの最新記事