『禮記』のつづき。「半分」ということばは、「たそがれのまなこ」にも出てくる。知人を訪ねての帰り道。その「途中生垣をめぐらす/大きな庭を/向う側にみて」いる。その詩の後半。
ここで「半分」と書かれているのは、ザクロに則して言えば、ザクロの全体が見えない。生け垣で半分は隠されている、ということだろう。「世界」は半分が見え、半分は見えない--そこに「さびしさ」があり、美しさがある。
それは「意味」が完結しない、ということかもしれない。完結しないことで、「意味」の「断面」のようなものが見えるのかもしれない。その「見える」という感覚は錯覚かもしれないけれど……。きっと、半分であることで、もう半分を求めようとして何かが動くのである。その動くことのなかに、たぶん「さびしさ」と美しさがある。「動く」という運動そのもののなかに、美しさのすべてがある。
最後の2行は、この詩を「半分」にしてしまう。「現在」のなかに、突然、時間を突き破ってあらわれる「過去」である。そして、その「過去」は「この辺」というだけの理由で「現在」を突き破るのだ。
「ガスタンク」も「苺に牛乳をかけてたべ」ることも、生け垣の向こうにある庭とは無関係である。
無関係なものの闖入は、「乱調」である。そして、この「乱調」を促すのが「半分」という不思議な「断面」、あるいは「すきま」(間)の構造である。ここにかかれていることが、何かに完全に属していない、「半分」自由であるから、そこに乱調を誘い込むのである。
ザクロの実が
重そうに枝から下がつている
なぜこの半分の風景が
心をさびしがらせるのか
ここで「半分」と書かれているのは、ザクロに則して言えば、ザクロの全体が見えない。生け垣で半分は隠されている、ということだろう。「世界」は半分が見え、半分は見えない--そこに「さびしさ」があり、美しさがある。
それは「意味」が完結しない、ということかもしれない。完結しないことで、「意味」の「断面」のようなものが見えるのかもしれない。その「見える」という感覚は錯覚かもしれないけれど……。きっと、半分であることで、もう半分を求めようとして何かが動くのである。その動くことのなかに、たぶん「さびしさ」と美しさがある。「動く」という運動そのもののなかに、美しさのすべてがある。
何人がこの乱れた野原のような
曲つた笛のような庭で
秋の来るのを
待つていたのだろう
この辺は昔ガスタンクを見ながら
苺に牛乳をかけてたべたところだ
最後の2行は、この詩を「半分」にしてしまう。「現在」のなかに、突然、時間を突き破ってあらわれる「過去」である。そして、その「過去」は「この辺」というだけの理由で「現在」を突き破るのだ。
「ガスタンク」も「苺に牛乳をかけてたべ」ることも、生け垣の向こうにある庭とは無関係である。
無関係なものの闖入は、「乱調」である。そして、この「乱調」を促すのが「半分」という不思議な「断面」、あるいは「すきま」(間)の構造である。ここにかかれていることが、何かに完全に属していない、「半分」自由であるから、そこに乱調を誘い込むのである。
![]() | 西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章 |
太田 昌孝 | |
風媒社 |