『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅠ。
この書き出しは非常にやっかいである。理由はふたつある。
ひとつは、ここでは西脇は「シムボル」を肯定的にはとらえていない。「シムボルのない季節にもどろう」と書いているからである。「シムボル」のない季節が西脇が目指しているものである。
もうひとつは「さびしい」。「さびしい」は西脇にとっては否定的なものではない。肯定的なもののひとつである。木やなにかの「曲がり」と同じように、人間の存在と真っ正面から向き合う「もの」である。
肯定と否定が結びついているのである。
でも、まあ、こういうことは、厳密に追究するべきことではないのだ。あいまいでいいのだ。あらゆるものが、あるときは肯定にかたむき、あるときは否定にかたむく。揺れ動きながら、ことばが少しずつ安定してくる。なにかを語りはじめる。
それを待っていればいいのだと思う。
いや、理由は「ふたつ」ではなく「みっつ」かもしれない。シンボルである「言葉を使うと/脳髄がシムボル色になつて/永遠の方へかたむく」という西脇にとっては否定的なことがらを、ことばで書いてしまっている。ことばを否定しながら、ことばで書く。しかも、書かないかぎりは、ことばを否定していることがわからない。これは、完全な「自己矛盾」だねえ。
これもまた、真剣に追究してはいけないことなのかもしれない。
だから--というのは、かなり強引な言い方なのだが。
この詩、この書き出しが私はとても好きなのだが、その好きな理由を書いておこう。
この1行が楽しい。「シムボル色」というのはどういう色? 青と赤と、どっちに近い? 黄色と赤とではどっちに近い? わからないねえ。「シムボル色」などあるはずがない。「シムボル」は具体的な「もの」ではなく、概念だからである。「もの」ではなく「抽象」だからである。
そういうものに、強引に「色」をつけて、ことばの運動に、いままでなかった推進力をつける。そのとき生まれてくるスピード感。
そのスピード感をあおるように、「シムボル」が繰り返し繰り返しつかわれる。
書き出しの5行は、なにか「意味」を明らかにしようとしているというよりは、ただ、ことばを加速させているのだ。
「意味」を吟味して、構築するには、この書き出しは乱暴過ぎる。書かれていることばがなにやら「哲学」的だが、この文体のスピードは「哲学」ではない。ほんとうに「哲学」を、「意味」を作り上げようとするなら、ことばの「定義」をもってとていねいにしないといけない。
西脇は、そういうことはしていない。
この数行は、だから、「哲学」から解放して、ただ「音楽」として、そのリズム、響き、スピードを楽しめばいいのだ。
「詩」の入り口なのだ。「音楽」の入り口なのだ。
西脇が、「哲学」ではなく「音楽」を問題にしていることは、これにつづく行を読むと自然と納得が行く。
「秋のような女の顔をみつけな/ければならない季節へ」。この行のわたりは、まったく不思議である。「秋のような女の顔をみつけ/なければならない季節へ」ならば、まだ、わからないでもないが、「みつけなければならない」がなぜ「みつけな」と「ければならない」に分かれるのか、この理由は「文法」的にはさっぱりわからない。
けれども、この文法的に不自然な「音」の動きは、とても活発である。スピード感がある。
「みつけなければならない」と「季節」というのもほんとうならば断絶(/)があるべきなのだろうけれど、そこにはない、というのも楽しい。(季節へもどろう、もどろうが省略されて、「ければならない季節へ」という1行になっていると私は読んでいる。)
ここには「意味」を深めることば、ことばのなかから抽象的な概念を抽出しながら突き進む運動はない。具体的な「もの」のことばがあるだけである。「秋のような女の顔」の「秋のような」という比喩は、まあ、抽象的ではあるのだけれど……。
この作品では(あらゆる西脇の詩では、と言えるかもしれないが)、詩は、抽象的なことば(哲学的意味を語っていることば)よりも、具体的な「もの」を語っていることばのなかに動いているとも思う。
「もの」が美しいのだ。

シムボルはさびしい
言葉はシムボルだ
言葉を使うと
脳髄がシムボル色になつて
永遠の方へかたむく
シムボルのない季節にもどろう
この書き出しは非常にやっかいである。理由はふたつある。
ひとつは、ここでは西脇は「シムボル」を肯定的にはとらえていない。「シムボルのない季節にもどろう」と書いているからである。「シムボル」のない季節が西脇が目指しているものである。
もうひとつは「さびしい」。「さびしい」は西脇にとっては否定的なものではない。肯定的なもののひとつである。木やなにかの「曲がり」と同じように、人間の存在と真っ正面から向き合う「もの」である。
肯定と否定が結びついているのである。
でも、まあ、こういうことは、厳密に追究するべきことではないのだ。あいまいでいいのだ。あらゆるものが、あるときは肯定にかたむき、あるときは否定にかたむく。揺れ動きながら、ことばが少しずつ安定してくる。なにかを語りはじめる。
それを待っていればいいのだと思う。
いや、理由は「ふたつ」ではなく「みっつ」かもしれない。シンボルである「言葉を使うと/脳髄がシムボル色になつて/永遠の方へかたむく」という西脇にとっては否定的なことがらを、ことばで書いてしまっている。ことばを否定しながら、ことばで書く。しかも、書かないかぎりは、ことばを否定していることがわからない。これは、完全な「自己矛盾」だねえ。
これもまた、真剣に追究してはいけないことなのかもしれない。
だから--というのは、かなり強引な言い方なのだが。
この詩、この書き出しが私はとても好きなのだが、その好きな理由を書いておこう。
脳髄がシムボル色になつて
この1行が楽しい。「シムボル色」というのはどういう色? 青と赤と、どっちに近い? 黄色と赤とではどっちに近い? わからないねえ。「シムボル色」などあるはずがない。「シムボル」は具体的な「もの」ではなく、概念だからである。「もの」ではなく「抽象」だからである。
そういうものに、強引に「色」をつけて、ことばの運動に、いままでなかった推進力をつける。そのとき生まれてくるスピード感。
そのスピード感をあおるように、「シムボル」が繰り返し繰り返しつかわれる。
書き出しの5行は、なにか「意味」を明らかにしようとしているというよりは、ただ、ことばを加速させているのだ。
「意味」を吟味して、構築するには、この書き出しは乱暴過ぎる。書かれていることばがなにやら「哲学」的だが、この文体のスピードは「哲学」ではない。ほんとうに「哲学」を、「意味」を作り上げようとするなら、ことばの「定義」をもってとていねいにしないといけない。
西脇は、そういうことはしていない。
この数行は、だから、「哲学」から解放して、ただ「音楽」として、そのリズム、響き、スピードを楽しめばいいのだ。
「詩」の入り口なのだ。「音楽」の入り口なのだ。
西脇が、「哲学」ではなく「音楽」を問題にしていることは、これにつづく行を読むと自然と納得が行く。
シムボルのない季節にもどろう
こわれたガラスのくもりで
考えなければならない
コンクリートのかけらの中で
秋のような女の顔をみつけな
ければならない季節へ
「秋のような女の顔をみつけな/ければならない季節へ」。この行のわたりは、まったく不思議である。「秋のような女の顔をみつけ/なければならない季節へ」ならば、まだ、わからないでもないが、「みつけなければならない」がなぜ「みつけな」と「ければならない」に分かれるのか、この理由は「文法」的にはさっぱりわからない。
けれども、この文法的に不自然な「音」の動きは、とても活発である。スピード感がある。
「みつけなければならない」と「季節」というのもほんとうならば断絶(/)があるべきなのだろうけれど、そこにはない、というのも楽しい。(季節へもどろう、もどろうが省略されて、「ければならない季節へ」という1行になっていると私は読んでいる。)
ここには「意味」を深めることば、ことばのなかから抽象的な概念を抽出しながら突き進む運動はない。具体的な「もの」のことばがあるだけである。「秋のような女の顔」の「秋のような」という比喩は、まあ、抽象的ではあるのだけれど……。
この作品では(あらゆる西脇の詩では、と言えるかもしれないが)、詩は、抽象的なことば(哲学的意味を語っていることば)よりも、具体的な「もの」を語っていることばのなかに動いているとも思う。
「もの」が美しいのだ。
存在はみな反射のゆらめきの
世界へ
寺院の鐘は水の中になり
さかさの尖塔に
うぐいが走り
ひつじぐさが咲く
雲の野原が
静かに動いている

![]() | 詩人西脇順三郎 (1983年) |
鍵谷 幸信 | |
筑摩書房 |