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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(129)

2018-11-14 12:43:16 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
129  叔父に

 二十歳で戦死した叔父のことを書いている。

詩を愛したあなたは 一篇の詩も残さなかったが
あなたの二十歳の死こそが 書かれた詩以上の詩

 「詩」が何度も繰り返されている。この繰り返しを読みながら、私は、つまずく。ことば(文法)として奇妙なところがあるわけではないが、つまずく。

書かれた詩以上の詩

 この部分の、最初の「詩」に。
 「書かれた以上の詩」と、どう違うか。なぜ、書かれた「詩」と、高橋は書くのか。明確にするために、強調するために。
 そう「理解」することは簡単である。
 だが、私は、やっぱりびっくりする。
 「詩(書かれた詩)」というのは、高橋にとっては、とても重要なのだ。「書かれた詩」と書かないと、高橋のことばは動かなかったのだ。「詩」への思いが非常に強い。その「強さ」に触れて、私はつまずく。
 このあと、詩は、こう展開する。

あなたの死が真正の詩だ と信じるためにも
あなたの駆り出された戦争が 過誤だったとは
思いたくない むしろ過誤ゆえにこそ真正だったのか
過誤でない戦争 過誤でない死など どこにもない
これは古代ギリシアでも 現代日本でも同じく真実/

 この「論理」のポイントは「過誤」をどう評価するか(哲学として引き受けるか)といことにある。「過誤」のなかには「過誤」でしかつかみとれない「真実」がある、ということは、私も信じる。けれど、それを「他人の死」と結びつけることには、私は、抵抗がある。
 「死」は、それぞれが個人で引き受けるしかない。
 「他人の死」は、どうあがいても引き受けられない。「他人」になりかわって「死ぬ」ということはできない。この「事実」は「過誤」ではない。絶対に「過誤」ではないことが、この世にはある。それを「レトリック」で隠してはいけない。
 こういう感想は、詩に対する感想とは言えないかもしれないが、そうであっても私は書いておきたい。「事実」を隠すために詩を書いてはいけない。
 戦争による死は、殺人だ。国家による殺人を「詩」と呼んではいけない。


つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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