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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

溝口健二監督「近松物語」

2018-11-14 17:35:15 | 午前十時の映画祭
溝口健二監督「近松物語」(★★★)

監督 溝口健二 出演 長谷川一夫、香川京子、進藤英太郎

 私が生まれたころの映画。
 長谷川一夫は「美形」として有名だが、私は実際に舞台では見たことがない。映画は何か見たかもしれないが記憶にない。
 で。
 顔が人形浄瑠璃の人形みたいだなあ、というのが一番の印象である。「美形」ではあるが、表情が動くというわけではない。その顔の中にあって、「目」だけは特別である。表情筋は動かないが、目は動く。そして、その目は長い睫毛で縁取られている。ほんものだろうか。付け睫だろうか。わからないが、ともかく「目」に引きつけられる。
 これに比べると(?)、香川京子は「人形」になりきれていない。見ていて、私の視線が散漫になる。
 こういう感想は、映画の感想にはならないか。あるいは映画の感想の「核心」をつくことになるのか。よくわからない。
 この「人形」みたいな顔の長谷川一夫は、動きも「人形」みたいである。あまり「肉体」を感じさせない。最初の登場シーン、風邪で寝込んでいるところなど、風邪の肉体をぜんぜん感じさせない。ただふとんの中で横になっていて、それから起き上がるだけ。しかし、これがなぜか印象に残る。
 見せようとしていない。存在感をアピールしない。物語のはじまり、状況説明、登場人物の紹介を、ただたんたんと果たしている。
 クライマックスは、香川京子との「心中未遂」のシーン。舟で琵琶湖に漕ぎだす。いよいよ入水という瞬間に、香川京子の気持ちが変わる。そして二人で抱き合う。舞台装置(?)は舟と水だけ。それが、とても美しい。三味線の音楽が、こころをかきたてる。そのこころを溢れさせるのではなく、ぐっと抑え込んで、肉体になる。こういうとき、人間の肉体というのは、もっと動くものだと思うが、あえて動かさない。形にしてしまう。それが、なんとも不思議な美しさなのである。
 芝居とは、芝居における役者の役割とは、役者が肉体を動かし感情を溢れさせることではなく、観客が意識の中で自分の肉体を動かすように仕向けることである、と心得ているのかもしれない。
 人形浄瑠璃を私は実際には見たことがないのだが、人形浄瑠璃の人形の動きは限られている。人形をあやつる人が三人。二人は黒い衣装で顔まで隠しているが、その三人の動きも観客は見てしまう。「声」は別の人間が演じている。物語のストーリーを語ると同時に、登場人物の「声」も出す。観客は、見聞きしているものを選択し、そのうえで自分の肉体に引き込む。
 うーむ。
 長谷川一夫は、この映画では、そういう人形浄瑠璃の「人形」そのものになって動いている、という気がする。
 とても「文学」っぽい。
 人形浄瑠璃をぜひ見てみたい、という気持ちにさせられる映画だった。
(午前10時の映画祭、2018年年11月11日、中洲大洋スクリーン3)


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