北野丘『黒筒の熊五郎』(ダニエル社、2008年12月20日発行)
北野のことばには不思議なリズムがある。方言(?)が書かれているからそう感じるのか、それともほんとうに不思議なリズムを生きているのか、私には見極めがつかないのだけれど。
「キン ぽたり。/キン。。」という詩がある。タイトルは2行になっているが、ここでは1行で紹介しておく。その書き出し。
この部分が私はとても好きである。雪のまぶしさ。それは、たしかに温かい感じがする。しかし、私の感じている温かさは、「温かい」と書いた瞬間から消えてしまう。「あったけぇような気がするな」ということばを読んだときだけ、ずーっと、そこに存在しているように感じる温かさだ。口語が持っている「肉体」の感じがいいのだ。雪を見て暮らしてきたひとの「肉体」の反応が、その口語のなかにある。「なあ/あったけぇような気がするな」。ふたつの、「なあ」と「な」の音の違い。そのあいだに、「温かさ」がある。人に語りかけるときの、不思議な味がある。ここでは「女」はだれかに語っているというより、自分自身に語っているのかもしれないが、自分に語るのも、他人に語るのも同じ口調になる。そのときに、そのことばのなかに(ことばに寄り添うように)あらわれる「肉体」のあたたかさ、経験を共有する温かさというものがある。
詩は(文学は)、ほんらいひとりの作業である。けれど、北野のことばの中には、たぶん「他人」がいる。北野がいっしょに暮らしたことのある人々がいる。その肉体があり、その肉体をもった人々と共有できることばだけが書かれている。
「キン ぽたり。/キン。。」は「女」に恋した「鷹」がおんなのために食べ物を運んでくるという内容になっている。鷹は何も言わないが、女は鷹と会話ができる。いっしょにそこにいるとき、女も鷹も肉体を持っているので、互いの肉体が感応しあい、無言でもことばが通じるのである。そのことばは、「雪」に代表される「風土」がつくりだすことばである。
北野のことばは「肉体」というより、「風土」を持っている、と言い換えた方がいいかもしれない。北野にとっては「肉体」とは「風土」である、と言い換えたほうかいいかもしれない。
こんなふうに「風土」を書いた人がいるかどうかわからないが、そうやって描く北野の「風土」は私にはとてもなつかしい。雪国で生まれ育った私には、北野のことばがとてもあたたかく感じられる。同じように「雪」を生きたことがあるひとの、何かを感じてしまう。
詩の最後。
最後の2行、タイトルと同じ表記の2行は、つららから雫が落ちるときの音と様子を描いたものである。あ、きれいだ、と思う。なつかしいと思う。その透明な輝きが、「なあ/あったけぇような気がするな」と思わず言いたくなる。
「黒筒の熊五郎」はせんべいのことだろうか。せんべいが丸い筒に入っている。筒の中に入ったせんべいと、その筒のことを書いている。
2連目が、とてもいい。読んでいてうれしくなる。「底はつるりと銀の月」--この歌うようなリズム。それは、ことばを口にしつづける人間(口語でことばをつかまえる人間)のみがつかみとることができる音だと思う。
そして、私はなぜか、肉体と同時に「風土」を感じる。同じ空気を吸って生きている人々とのあいだでかわされることばのリズムを感じる。こういう歌はひとりでは歌にならない。だれかが聞いてくれて、同時に反応してくれてはじめて歌になる。そこには歌う「風土」がある。次の行の「ぽっかりしん」も、そういうことばに誘われてできてた美しい口語だ。書きことばにはつかみとれない音だと思う。
ことばが空中を飛び交って、そのことばがまたひとつの「風土」になる。そういう時間の蓄積も感じる。人間が生きている感じが、とてもあたたかく伝わってくのである。
そういう人間の「におい」「体温」があるからこそ、次の「ちょうだい」がとても美しく響く。せんべいを食べ終わったあと、空になった筒の容器--それ、ちょうだい。だれが、そういったのか。こどもなら言いそうなことばである。
そして、それは実際にこどもがいったことばである。それは、そのあとの詩の展開のなかで明らかになるのだが、それは私が紹介するより詩集で読んでもらったほうがいい。おわりのちょっと前に、
という2行がある。それは、まだ見ぬ読者へ向けて呼びかける声のようでもある。
北野のことばには不思議なリズムがある。方言(?)が書かれているからそう感じるのか、それともほんとうに不思議なリズムを生きているのか、私には見極めがつかないのだけれど。
「キン ぽたり。/キン。。」という詩がある。タイトルは2行になっているが、ここでは1行で紹介しておく。その書き出し。
ながいながい吹雪がやんで
屋根裏部屋で
ほっと女は目が覚めた
なんてまぶし
まっしろい雪
なあ
あったけぇような気がするな
この部分が私はとても好きである。雪のまぶしさ。それは、たしかに温かい感じがする。しかし、私の感じている温かさは、「温かい」と書いた瞬間から消えてしまう。「あったけぇような気がするな」ということばを読んだときだけ、ずーっと、そこに存在しているように感じる温かさだ。口語が持っている「肉体」の感じがいいのだ。雪を見て暮らしてきたひとの「肉体」の反応が、その口語のなかにある。「なあ/あったけぇような気がするな」。ふたつの、「なあ」と「な」の音の違い。そのあいだに、「温かさ」がある。人に語りかけるときの、不思議な味がある。ここでは「女」はだれかに語っているというより、自分自身に語っているのかもしれないが、自分に語るのも、他人に語るのも同じ口調になる。そのときに、そのことばのなかに(ことばに寄り添うように)あらわれる「肉体」のあたたかさ、経験を共有する温かさというものがある。
詩は(文学は)、ほんらいひとりの作業である。けれど、北野のことばの中には、たぶん「他人」がいる。北野がいっしょに暮らしたことのある人々がいる。その肉体があり、その肉体をもった人々と共有できることばだけが書かれている。
「キン ぽたり。/キン。。」は「女」に恋した「鷹」がおんなのために食べ物を運んでくるという内容になっている。鷹は何も言わないが、女は鷹と会話ができる。いっしょにそこにいるとき、女も鷹も肉体を持っているので、互いの肉体が感応しあい、無言でもことばが通じるのである。そのことばは、「雪」に代表される「風土」がつくりだすことばである。
北野のことばは「肉体」というより、「風土」を持っている、と言い換えた方がいいかもしれない。北野にとっては「肉体」とは「風土」である、と言い換えたほうかいいかもしれない。
こんなふうに「風土」を書いた人がいるかどうかわからないが、そうやって描く北野の「風土」は私にはとてもなつかしい。雪国で生まれ育った私には、北野のことばがとてもあたたかく感じられる。同じように「雪」を生きたことがあるひとの、何かを感じてしまう。
詩の最後。
浜の廃屋から
ばさっこばさこと音が聞こえた
雪の村には
まだ、なんの足跡もついていない
軒先にはつらら
キン ぽたり。
キン。。
最後の2行、タイトルと同じ表記の2行は、つららから雫が落ちるときの音と様子を描いたものである。あ、きれいだ、と思う。なつかしいと思う。その透明な輝きが、「なあ/あったけぇような気がするな」と思わず言いたくなる。
「黒筒の熊五郎」はせんべいのことだろうか。せんべいが丸い筒に入っている。筒の中に入ったせんべいと、その筒のことを書いている。
一家
せんべいを食べ尽くし
なんに使うの
熊五郎せんべい
土産の空(から)の黒い筒
ひんやり手にした黒い筒
底はつるりと銀の月
中はぽっかりしんと鎮まって
ちょうだい
2連目が、とてもいい。読んでいてうれしくなる。「底はつるりと銀の月」--この歌うようなリズム。それは、ことばを口にしつづける人間(口語でことばをつかまえる人間)のみがつかみとることができる音だと思う。
そして、私はなぜか、肉体と同時に「風土」を感じる。同じ空気を吸って生きている人々とのあいだでかわされることばのリズムを感じる。こういう歌はひとりでは歌にならない。だれかが聞いてくれて、同時に反応してくれてはじめて歌になる。そこには歌う「風土」がある。次の行の「ぽっかりしん」も、そういうことばに誘われてできてた美しい口語だ。書きことばにはつかみとれない音だと思う。
ことばが空中を飛び交って、そのことばがまたひとつの「風土」になる。そういう時間の蓄積も感じる。人間が生きている感じが、とてもあたたかく伝わってくのである。
そういう人間の「におい」「体温」があるからこそ、次の「ちょうだい」がとても美しく響く。せんべいを食べ終わったあと、空になった筒の容器--それ、ちょうだい。だれが、そういったのか。こどもなら言いそうなことばである。
そして、それは実際にこどもがいったことばである。それは、そのあとの詩の展開のなかで明らかになるのだが、それは私が紹介するより詩集で読んでもらったほうがいい。おわりのちょっと前に、
おーい
おーい
という2行がある。それは、まだ見ぬ読者へ向けて呼びかける声のようでもある。