監督 宮藤官九郎 出演 宮崎あおい、佐藤浩市、木村祐一
宮藤官九郎ならではの強引なでたらめさ加減が楽しい。宮崎あおいも佐藤浩市も木村祐一も、みんな楽しんでやっている。芸能界をばかにして、というか、芸能界に夢中になる人間をばかにしているところが、とてもいい。当人たちはみんな芸能人なのだけれど。
たとえば、昔のグループサウンズアイドルの描き方。マシュマロヘア(知ってます?)で、ぶりっこしている。メルヘンチックな歌を歌っている。なぜ、あんなものがヒットしたのか、いまの状況からはさっぱりわからない。ただこっけいである。それをまじめに、下手糞にやっている。それがとてもおかしい。
現在の、抒情っぽい若者グループのポップサウンドも同じ。ソロを夢見ている宮崎あおいの恋人の歌も同じ。チープで、ありきたりで、とてもばかばかしい。「現実」とかけはなれていて、ばかとしかいいようがない。人気芸能人の行動もばかばかしい。そのとりまきも、ばかばかしい。
これに対して、元「少年メリケンサック」の面々、中年メリケンサックには、どうしようもない生活が積み重なっている。音楽から離れ、他人の活動をくだらないと蔑みながら、そのくだらない音楽よりももっと落ちぶれている。「夢」の分だけ、ずれている。そのずれが、他の少年たち(若者たち)と違って自覚できるだけに、自分で自分のやっていることがとても面倒くさい。自分の面倒くささをもてあましている。
あ、中年になる(大人になる)ということは、こういう面倒くさいことがわかる、自覚できることなんだなあ。その面倒くささを、どうやってこなしていくか。乗り越える、ではなく、まあ、こなしていくとしかいいようがない。面倒くささを他人にぶっつけて、暴れる。ようするに、不良をやってしまう。その不良中年ぶりが、とても楽しい。
宮崎あおいは、まだ、その面倒くささの領域に達していない。彼等がとんでもない不良中年にしか見えない。けれど、その不良の面倒くささにどこかで接している。(だれもが、それに接している。)だから、彼等と接して、自分のなかにある面倒くささを発見する。恋人は単なるヒモなんだ、ということを知らされる。恋人は宮崎あおいを利用しているだけなんだ、というようなことを知る。けれども、好き、という気持ちを捨てきれない。それが「夢」の部分である。そこから「ずれ」がはじまる。あ、面倒くさいなあ。
ただし、中年メリケンサックの男たちの面倒くささと、宮崎あおいの面倒くささは微妙に違う。そこがおもしろい。
中年メリケンサックたちは、面倒は面倒でも、「他人」を気にしていない。「他人」なんか、なんとも思っていない。「自分」の面倒だけを生きている。面倒の性質が違う。ふっきれている。ある意味で「年季」が入っている。面倒くささが、その「年季」によって、かっこよさになる部分がある。宮崎あおいの面倒くささは「年季」が入っていないだけ、かっこよくはなれない。
でも、まあ、こんなことはどうでもいい。
ただ何かを壊したい。壊すことで、自分の面倒くささを発散してしまいたい。そういう感じの音楽と、行動--それを「堅牢」につみかさねているところにこの映画のよさがある。宮藤官九郎はばかばかしさに手を抜かない。ばかばかしさを堅牢にまで鍛え上げる。映像のひとつひとつ--といういいたいけれど、映像はまだ堅牢になってはいない。そのかわり、「ことば」、つまり脚本と、瞬間瞬間の役者の肉体を動きを堅牢に鍛えている。あくまで、ばかばかしく、堅牢にしている。
そういう「笑い」と「中年」の結びつきが、とてもおもしろい。
宮藤官九郎ならではの強引なでたらめさ加減が楽しい。宮崎あおいも佐藤浩市も木村祐一も、みんな楽しんでやっている。芸能界をばかにして、というか、芸能界に夢中になる人間をばかにしているところが、とてもいい。当人たちはみんな芸能人なのだけれど。
たとえば、昔のグループサウンズアイドルの描き方。マシュマロヘア(知ってます?)で、ぶりっこしている。メルヘンチックな歌を歌っている。なぜ、あんなものがヒットしたのか、いまの状況からはさっぱりわからない。ただこっけいである。それをまじめに、下手糞にやっている。それがとてもおかしい。
現在の、抒情っぽい若者グループのポップサウンドも同じ。ソロを夢見ている宮崎あおいの恋人の歌も同じ。チープで、ありきたりで、とてもばかばかしい。「現実」とかけはなれていて、ばかとしかいいようがない。人気芸能人の行動もばかばかしい。そのとりまきも、ばかばかしい。
これに対して、元「少年メリケンサック」の面々、中年メリケンサックには、どうしようもない生活が積み重なっている。音楽から離れ、他人の活動をくだらないと蔑みながら、そのくだらない音楽よりももっと落ちぶれている。「夢」の分だけ、ずれている。そのずれが、他の少年たち(若者たち)と違って自覚できるだけに、自分で自分のやっていることがとても面倒くさい。自分の面倒くささをもてあましている。
あ、中年になる(大人になる)ということは、こういう面倒くさいことがわかる、自覚できることなんだなあ。その面倒くささを、どうやってこなしていくか。乗り越える、ではなく、まあ、こなしていくとしかいいようがない。面倒くささを他人にぶっつけて、暴れる。ようするに、不良をやってしまう。その不良中年ぶりが、とても楽しい。
宮崎あおいは、まだ、その面倒くささの領域に達していない。彼等がとんでもない不良中年にしか見えない。けれど、その不良の面倒くささにどこかで接している。(だれもが、それに接している。)だから、彼等と接して、自分のなかにある面倒くささを発見する。恋人は単なるヒモなんだ、ということを知らされる。恋人は宮崎あおいを利用しているだけなんだ、というようなことを知る。けれども、好き、という気持ちを捨てきれない。それが「夢」の部分である。そこから「ずれ」がはじまる。あ、面倒くさいなあ。
ただし、中年メリケンサックの男たちの面倒くささと、宮崎あおいの面倒くささは微妙に違う。そこがおもしろい。
中年メリケンサックたちは、面倒は面倒でも、「他人」を気にしていない。「他人」なんか、なんとも思っていない。「自分」の面倒だけを生きている。面倒の性質が違う。ふっきれている。ある意味で「年季」が入っている。面倒くささが、その「年季」によって、かっこよさになる部分がある。宮崎あおいの面倒くささは「年季」が入っていないだけ、かっこよくはなれない。
でも、まあ、こんなことはどうでもいい。
ただ何かを壊したい。壊すことで、自分の面倒くささを発散してしまいたい。そういう感じの音楽と、行動--それを「堅牢」につみかさねているところにこの映画のよさがある。宮藤官九郎はばかばかしさに手を抜かない。ばかばかしさを堅牢にまで鍛え上げる。映像のひとつひとつ--といういいたいけれど、映像はまだ堅牢になってはいない。そのかわり、「ことば」、つまり脚本と、瞬間瞬間の役者の肉体を動きを堅牢に鍛えている。あくまで、ばかばかしく、堅牢にしている。
そういう「笑い」と「中年」の結びつきが、とてもおもしろい。
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