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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浜江順子『飛行する沈黙』

2009-02-19 11:02:34 | 詩集
浜江順子『飛行する沈黙』(思潮社、2008年09月30日発行)

 浜江順子の詩は、私にはよくわからない。どうにも私の「肉体」かみ合って来ない。「頭」に刺激はあるのだが、「肉体」になじまない。なぜなんだろう。そんなことを思いながら読み進んで、「飛行する沈黙」に出会う。その2連目。

中世の労働者たちのように水を求めて、身体の水をわさわさと共鳴させる。水は沈黙の奥に、清水のようにある。ペストを恐れぬ男たちは、ペニスを揺らし、修道院でふて寝して、脳には蚊が飛んでいる。血が飛ぶ。十四世紀の自分は下女で床をしわしわ磨きながら傷を食っている。内省行為とともにさらに中世へとにじみ出る。精液の射出は、ニンジンの葉っぱのように青々としていながら、無意味だ。

 「十四世紀の自分は下女で」。この一言で、私には、何かが納得できた。
 浜江は「私」を「いま」「ここ」でとらえていないのだ。「私」を常に「何か」に置き換えて世界との関係をつくっている。「頭」の操作が、「私」と「世界」とのあいだにあるのだ。
 「私」が「いま」「ここ」にある場合は、今度は、「世界」の方が「いま」「ここ」にはない。そこにあるすべての存在は、それ自体というよりも、それとは違う別のものなのだ。
  最終連には、次の行がある。

セイヨウヒルガオを噛んで「いま」にまた迷い出た私は行方不明の自分を探している。

 「十四世紀の自分」は「下女」のなかに存在することができたけれど(下女として「肉体」と「頭」を統合した存在として生きることができたけれど)、「いま」に戻ると「自分」が何かわからない。
 浜江にあっては、「私」と「世界」の和解は、どちらかが本来の姿ではないときにはじめて成立するのである。そんなふうに和解するために、ことばは動いていく。

 この詩では「私」が「十四世紀の下女」であると同時に、世界の方もそれ自身から離れている。ほんらいの「もの」自体の「肉体」を放棄している。たとえば「精液の噴出」は「ニンジンの葉っぱ」である。
 「私」も「世界」も、それ自体ではなく、別個の存在になっているので、この詩はとても速度がある。「頭」の速度がとても滑らかである。

 こういう「私」と「世界」の関係に、「沈黙」が重要な位置を占める。
 「沈黙」の定義はむずかしいが、たとえば「私」が「私ではない何か」であるとき、その「私ではない何か」と「世界」のあいだの空白が「沈黙」である。「私」が私であるときは、その「私」と「世界ではない世界」のとのあいだの「空白」が「沈黙」である。別のことばで言えば、「頭」と「肉体」の「空白」が「沈黙」である。その「空白」を埋めるために、近江のことばは動く。つまり、「沈黙」と拮抗するために。
 浜江の論法にしたがえば、たぶん、そうなるのだ。
 この作品では、ふたつの「沈黙」が複合し、透明になっている。そのため、どこまでも誘い込まれるような速度があるのだ。

 私が浜江のことばになじむことができないのは、その「沈黙」、あるいは「空白」が視覚(視力)をもとに把握されているからだ。「1/2の顔」。その冒頭。

しつこい蛇の追跡を逃れても
しびれが狙っている
二分の一の顔は
誰からも知られることなく
絶壁に隠れている

キッとなって
見つめる先は
嘘の城だったが
顔の右半分は死んでいる
左半分でなんとか
機械たりえている

 顔の半分--それを右と左にわける。この分離は視覚である。視力である。「飛行する沈黙」の「水は沈黙の奥に、清水のようにある」の「奥」も視覚である。視力である。
 視力の不思議さは、自分が無傷のまま、対象に触れることができる点にある。遠く離れ場所から、視力は対象に触れることができる。逆に近づきすぎると、視覚は対象に触れることができない。視覚は、対象と「私」とのあいだに「距離」を必要としている。「距離」とは「空白」のことである。浜江は、したがって「沈黙」をも視力でとらえていることになる。
 別のことばで補足すれば……。
 「沈黙」を聞き取る聴覚。それは対象が遠い場合も、近い場合も有効である。小さい音を聞くために、私たちは「耳」を対象に押し当てることさえする。近づけるだけではなく、押し当て、ごりごりしたりもする。視覚にはこんなことはできない。「目」を対象にくっつけてしまえば何も見えない。闇になる。

 浜江は「私」を私以外のものと仮定することで世界を描写する。ことばの運動として描き出す。あるいは「世界」をそれ自体とは違ったものと仮定することで、ことばの運動領域をひろげる。つまり、詩を書く。
 そのとき、浜江を動かしているのは視力である。視覚である。浜江はしかし、それを視覚と自覚していない。聴覚と誤解している。たぶん、どこかに、「ずれ」がある。「飛行する空白」という視点でことばを動かすと、その「ずれ」はすーっと消えるような気がする。
 「化け方が、うにゅうにゅだ」は、気持ちのいい詩である。そこでは「視力」がきちんと動いているからだと思う。

尻の穴から
すうっと入ってきた化け物は
実は自分自身で
そいつの背負ってきた鏡には
ハートの形が不自然にでこぼこに並んだ古ぼけた木枠がついていて
驚いたことに私のイニシャルまで彫ってある

化け方が、足りない
化け方が、チビている
化け方が、うにゅうにゅだ

 「鏡」は自己確認をする視覚にとって、とても重要なものである。鏡なしに、視覚は、自己確認できない。「鏡のなかの像」と「私」のあいだには「空白」があり、断絶しているにもかかわらず、視覚はそれを「連続したもの」「つながったもの」、つまり、自分とつながった「同一のもの」と見なしてしまう。「同一のもの」とみなすために、「空白」を必要としている。
 視力はまた、別の「証拠」も見つける。イニシャル。文字。
 浜江は、きっとことばを視力で覚えた人間だ。つまり、本を読むことで覚えた人間だろうと思う。きっとたくさんの本を読んでいるに違いないと思う。

 私が、この詩をとても気持ちよく感じるのは、その視覚、視力が、触覚と融合し、「肉体」を獲得しているからだ。「うにゅうにゅ」。なんとなく、何かに手で触っている感じがするでしょ? 
 その前に、でこぼこ、も出てきた。凸凹は視力でも把握できるが、触覚の方がより端的に理解できる。点字というようなものまで、世界には存在する。触ること、触覚を働かすことで、見るものまで、という意味なのだが。
 あらゆる感覚は融合して「肉体」になる。その瞬間に、私は詩を感じる。その瞬間を、とても気持ちよく感じる。
 「飛行する沈黙」は書いてあることは理解できる(つもり)だが、とても遠い。「うにゅうにゅ」はそれとは違って、気持ちがいい。肉体になじむ。読んでいて、安心感がある。


飛行する沈黙
浜江 順子
思潮社

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飛行する沈黙について (浜江順子)
2009-03-24 20:37:56
「飛行する沈黙」への批評ありがとうございます。浜江順子です。(ちなみに、近江ではありません)

詩「飛行する沈黙」は、谷内様による「頭の操作が「私」と「世界」のあいだにある」ということですが、この詩では「私」は現代の世界と中世の世界を
行き来しているだけなのです。「「私」が「いま」「ここ」にある場合は「いま」「ここ」にはない」
ではなく、「私」はいまここにある場合は、「現代の世界」が「ここにある」だけなのです。

「1/2の顔」については、鼻の手術で実際に顔の
半分が痺れていることを書いたもので、「視力の
不思議さは自分が無傷のまま対象に触れることが
できる点にある」というご指摘とはまったく異なり、自分自身の傷そのものを描いているのです。

他の詩についても底辺にあるのは、私自身の痛みで
あり、傷で、書物から書いていることはありません。(多くのいただいた感想にも作者の痛みを
感じるというのが多くありました)

「化け方がうにゅうにゅだ」については、あたたかいご意見ありがとうございました。

今後とも宜しくお願いします。

浜江順子

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失礼しました (谷内修三)
2009-03-26 00:47:28
浜江さん、
名前は訂正しました。
申し訳ありませんでした。

浜江さんから、「詩暦」を受け取りました。
85年 「日付のある詩ダイエー賞」審査員奨励賞
93年 国際優秀詩人賞
93年 黄金往還世界詩人賞
94年 Michael Madhusudan賞

なお、「飛行する沈黙」は「現代詩手帖」(2008年12月号)の「今年度の収穫」で4人が取り上げ、他に4人が好意的な評価をしていると教えていただきました。

針生一郎は「これだけの手ごたえは近年めったにありません」という感想を浜江さんにはがきで書いているとも教えていただきました。

ありがとうございました。
 
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