goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2020年07月07日(火曜日)

2020-07-07 00:00:00 | 考える日記
 ピカソの作品には、「整えられる前」の事実がある。
 私たちは、すべて「整える」ことを教えられる。
 「整えられたもの」が他者との「共有できる認識」になる。一点透視の遠近法は、私たちに「ものの見え方」を整える。そして、私たちは、「整えられた世界」へ入ってゆき、最初に見た事実を忘れてしまう。
 ピカソは、その「整えられた世界」を破壊し、「整えられる前」の視力に帰っていく。「整えられる前の欲望」のままに、世界を再現する。

 私は、ことばで、同じことをしたい。
 「結論」へ向けてことばを整えていくのではなく、「書き始めること」が結論なのだ、「書いている(書きつづけている)事実」が結論なのだ。
 書くことがなくなったら、それで終わり。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年07月06日(月曜日)

2020-07-06 23:59:59 | 考える日記
ことばが勃起する。
 そういう瞬間がある。
 ことばを射精したい。

 どれだけ出るか。どれだけ飛ぶか。
 
 こんなふうに言い換えることができる。
 ことばは何に照準をしぼっているか、ことばの射程はどこまで広いか。そんなことは書いてみないとわからない。けれど、このことについて書きたいという欲望が、「結論」を無視して動いてしまう。結論を想定できないのに、ことばが動いてしまう。「結論は書きながら考えろ」というよりも、「結論は書き終わってから考えろ」という感じ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇76) Eduardo Mun'oz

2020-06-26 10:34:50 | 考える日記


?Por que’ entendemos a Don Quijote cuando ves este trabajo? Don Quijote, que se especializa en usar un lavabo de un barberi’a.

Eduardo recoge unos hierros abandonados y los combina.
Luego, entre las combinaciones, aparecera’n la que esta’ ocultanda en hierro hasta ahora.
De ninguna manera, Don Quijote se escondi’a entre estos hierros.

Por supuesto, todo esto se puede llamar una ilusio’n.
Pero como Don Quijote, queremos ilusionarnos con todo.
Todo es un suen’o, y un suen’o tiene un pasado humano.
El pasado humano vive en el hierro abandonado.

ドン・キホーテとわかるのはどうしてだろう。床屋のタライを魔力を持ったヘルメットと勘違いしてになっている得意になっているドン・キホーテ。

エドゥアルドは捨てられてしまった鉄を拾い集めて組み合わせる。
そうすると、その組み合わせの中から、いままで隠されていたものがあらわれてくる。
まさか、こんなものたちのなかにドン・キホーテが隠れていたなんて。

もちろん、このすべてを錯覚(誤解)と呼ぶことはできる。
だが、私たちはドン・キホーテと同じように、すべてを錯覚したいのだ。
すべては夢であり、夢には人間の過去がある。
人間の過去は捨てられた鉄の中にも生きている。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年05月25日(月曜日)

2020-05-25 17:08:00 | 考える日記
「間違える」。
 だが、間違えてはいけないのか。「正しい」とは何なのか。
 ある作品について何かを書く。それは、その作品が好きだからだ。好きになった瞬間、私は私を忘れている。私は私ではない。だから「正しい/正しくない」の区別は意味がない。
 好きになるとは、自分がどうなるかを気にしないで相手についていくことだ。もう自分ではないのだから「正しい/正しくない」を考えてもしようがない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

検察庁法改正に反対

2020-05-15 17:33:42 | 考える日記
以下は朝日新聞デジタル版に掲載されていた記事の全文。
そのまま引用します。
https://www.asahi.com/articles/ASN5H4RTHN5HUTIL027.html?iref=comtop_8_01&fbclid=IwAR1Y_ZZHy-qJ5QK6KtMIBRHoun0o4HERfnUrdPWbLoySdgA5Na0d4U_V75o

【意見書全文】首相は「朕は国家」のルイ14世を彷彿
 検察庁法改正に反対する松尾邦弘・元検事総長(77)ら検察OBが15日、法務省に提出した意見書の全文は次の通り。
    ◇
 東京高検検事長の定年延長についての元検察官有志による意見書
 1 東京高検検事長黒川弘務氏は、本年2月8日に定年の63歳に達し退官の予定であったが、直前の1月31日、その定年を8月7日まで半年間延長する閣議決定が行われ、同氏は定年を過ぎて今なお現職に止(とど)まっている。
 検察庁法によれば、定年は検事総長が65歳、その他の検察官は63歳とされており(同法22条)、定年延長を可能とする規定はない。従って検察官の定年を延長するためには検察庁法を改正するしかない。しかるに内閣は同法改正の手続きを経ずに閣議決定のみで黒川氏の定年延長を決定した。これは内閣が現検事総長稲田伸夫氏の後任として黒川氏を予定しており、そのために稲田氏を遅くとも総長の通例の在職期間である2年が終了する8月初旬までに勇退させてその後任に黒川氏を充てるための措置だというのがもっぱらの観測である。一説によると、本年4月20日に京都で開催される予定であった国連犯罪防止刑事司法会議で開催国を代表して稲田氏が開会の演説を行うことを花道として稲田氏が勇退し黒川氏が引き継ぐという筋書きであったが、新型コロナウイルスの流行を理由に会議が中止されたためにこの筋書きは消えたとも言われている。
 いずれにせよ、この閣議決定による黒川氏の定年延長は検察庁法に基づかないものであり、黒川氏の留任には法的根拠はない。この点については、日弁連会長以下全国35を超える弁護士会の会長が反対声明を出したが、内閣はこの閣議決定を撤回せず、黒川氏の定年を超えての留任という異常な状態が現在も続いている。
 2 一般の国家公務員については、一定の要件の下に定年延長が認められており(国家公務員法81条の3)、内閣はこれを根拠に黒川氏の定年延長を閣議決定したものであるが、検察庁法は国家公務員に対する通則である国家公務員法に対して特別法の関係にある。従って「特別法は一般法に優先する」との法理に従い、検察庁法に規定がないものについては通則としての国家公務員法が適用されるが、検察庁法に規定があるものについては同法が優先適用される。定年に関しては検察庁法に規定があるので、国家公務員法の定年関係規定は検察官には適用されない。これは従来の政府の見解でもあった。例えば昭和56年(1981年)4月28日、衆議院内閣委員会において所管の人事院事務総局斧任用局長は、「検察官には国家公務員法の定年延長規定は適用されない」旨明言しており、これに反する運用はこれまで1回も行われて来なかった。すなわちこの解釈と運用が定着している。
 検察官は起訴不起訴の決定権すなわち公訴権を独占し、併せて捜査権も有する。捜査権の範囲は広く、政財界の不正事犯も当然捜査の対象となる。捜査権をもつ公訴官としてその責任は広く重い。時の政権の圧力によって起訴に値する事件が不起訴とされたり、起訴に値しないような事件が起訴されるような事態が発生するようなことがあれば日本の刑事司法は適正公平という基本理念を失って崩壊することになりかねない。検察官の責務は極めて重大であり、検察官は自ら捜査によって収集した証拠等の資料に基づいて起訴すべき事件か否かを判定する役割を担っている。その意味で検察官は準司法官とも言われ、司法の前衛たる役割を担っていると言える。
 こうした検察官の責任の特殊性、重大性から一般の国家公務員を対象とした国家公務員法とは別に検察庁法という特別法を制定し、例えば検察官は検察官適格審査会によらなければその意に反して罷免(ひめん)されない(検察庁法23条)などの身分保障規定を設けている。検察官も一般の国家公務員であるから国家公務員法が適用されるというような皮相的な解釈は成り立たないのである。
 3 本年2月13日衆議院本会議で、安倍総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕(ちん)は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。
 時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。
 ところで仮に安倍総理の解釈のように国家公務員法による定年延長規定が検察官にも適用されると解釈しても、同法81条の3に規定する「その職員の職務の特殊性またはその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分の理由があるとき」という定年延長の要件に該当しないことは明らかである。
 加えて人事院規則11―8第7条には「勤務延長は、職員が定年退職をすべきこととなる場合において、次の各号の1に該当するときに行うことができる」として、①職務が高度の専門的な知識、熟練した技能または豊富な経験を必要とするものであるため後任を容易に得ることができないとき、②勤務環境その他の勤務条件に特殊性があるため、その職員の退職により生ずる欠員を容易に補充することができず、業務の遂行に重大な障害が生ずるとき、③業務の性質上、その職員の退職による担当者の交替が当該業務の継続的遂行に重大な障害を生ずるとき、という場合を定年延長の要件に挙げている。
 これは要するに、余人をもって代えがたいということであって、現在であれば新型コロナウイルスの流行を収束させるために必死に調査研究を続けている専門家チームのリーダーで後継者がすぐには見付からないというような場合が想定される。
 現在、検察には黒川氏でなければ対応できないというほどの事案が係属しているのかどうか。引き合いに出されるゴーン被告逃亡事件についても黒川氏でなければ、言い換えれば後任の検事長では解決できないという特別な理由があるのであろうか。法律によって厳然と決められている役職定年を延長してまで検事長に留任させるべき法律上の要件に合致する理由は認め難い。
 4 4月16日、国家公務員の定年を60歳から65歳に段階的に引き上げる国家公務員法改正案と抱き合わせる形で検察官の定年も63歳から65歳に引き上げる検察庁法改正案が衆議院本会議で審議入りした。野党側が前記閣議決定の撤回を求めたのに対し菅義偉官房長官は必要なしと突っぱねて既に閣議決定した黒川氏の定年延長を維持する方針を示した。こうして同氏の定年延長問題の決着が着かないまま検察庁法改正案の審議が開始されたのである。
 この改正案中重要な問題点は、検事長を含む上級検察官の役職定年延長に関する改正についてである。すなわち同改正案には「内閣は(中略)年齢が63年に達した次長検事または検事長について、当該次長検事または検事長の職務の遂行上の特別の事情を勘案して、当該次長検事または検事長を検事に任命することにより公務の運営に著しい支障が生ずると認められる事由として内閣が定める事由があると認められるときは、当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日の翌日から起算して1年を超えない範囲内で期限を定め、引き続き当該次長検事または検事長が年齢63年に達した日において占めていた官及び職を占めたまま勤務をさせることができる(後略)」と記載されている。
 難解な条文であるが、要するに次長検事および検事長は63歳の職務定年に達しても内閣が必要と認める一定の理由があれば1年以内の範囲で定年延長ができるということである。
 注意すべきは、この規定は内閣の裁量で次長検事および検事長の定年延長が可能とする内容であり、前記の閣僚会議によって黒川検事長の定年延長を決定した違法な決議を後追いで容認しようとするものである。これまで政界と検察との両者間には検察官の人事に政治は介入しないという確立した慣例があり、その慣例がきちんと守られてきた。これは「検察を政治の影響から切りはなすための知恵」とされている(元検事総長伊藤栄樹著「だまされる検事」)。検察庁法は、組織の長に事故があるときまたは欠けたときに備えて臨時職務代行の制度(同法13条)を設けており、定年延長によって対応することは毫(ごう)も想定していなかったし、これからも同様であろうと思われる。
 今回の法改正は、検察の人事に政治権力が介入することを正当化し、政権の意に沿わない検察の動きを封じ込め、検察の力を殺(そ)ぐことを意図していると考えられる。
 5 かつてロッキード世代と呼ばれる世代があったように思われる。ロッキード事件の捜査、公判に関与した検察官や検察事務官ばかりでなく、捜査、公判の推移に一喜一憂しつつ見守っていた多くの関係者、広くは国民大多数であった。
 振り返ると、昭和51年(1976年)2月5日、某紙夕刊1面トップに「ロッキード社がワイロ商法 エアバスにからみ48億円 児玉誉士夫氏に21億円 日本政府にも流れる」との記事が掲載され、翌日から新聞もテレビもロッキード関連の報道一色に塗りつぶされて日本列島は興奮の渦に巻き込まれた。
 当時特捜部にいた若手検事の間では、この降って湧いたような事件に対して、特捜部として必ず捜査に着手するという積極派や、着手すると言っても贈賄の被疑者は国外在住のロッキード社の幹部が中心だし、証拠もほとんど海外にある、いくら特捜部でも手が届かないのではないかという懐疑派、苦労して捜査しても造船疑獄事件のように指揮権発動でおしまいだという悲観派が入り乱れていた。
 事件の第一報が掲載されてから13日後の2月18日検察首脳会議が開かれ、席上、東京高検検事長の神谷尚男氏が「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ検察は今後20年間国民の信頼を失う」と発言したことが報道されるやロッキード世代は歓喜した。後日談だが事件終了後しばらくして若手検事何名かで神谷氏のご自宅にお邪魔したときにこの発言をされた時の神谷氏の心境を聞いた。「(八方塞がりの中で)進むも地獄、退くも地獄なら、進むしかないではないか」という答えであった。
 この神谷検事長の国民信頼発言でロッキード事件の方針が決定し、あとは田中角栄氏ら政財界の大物逮捕に至るご存じの展開となった。時の検事総長は布施健氏、法務大臣は稲葉修氏、法務事務次官は塩野宜慶(やすよし)(後に最高裁判事)、内閣総理大臣は三木武夫氏であった。
 特捜部が造船疑獄事件の時のように指揮権発動に怯(おび)えることなくのびのびと事件の解明に全力を傾注できたのは検察上層部の不退転の姿勢、それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制な政治家たちの存在であった。
 国会で捜査の進展状況や疑惑を持たれている政治家の名前を明らかにせよと迫る国会議員に対して捜査の秘密を楯(たて)に断固拒否し続けた安原美穂刑事局長の姿が思い出される。
 しかし検察の歴史には、捜査幹部が押収資料を改ざんするという天を仰ぎたくなるような恥ずべき事件もあった。後輩たちがこの事件がトラウマとなって弱体化し、きちんと育っていないのではないかという思いもある。それが今回のように政治権力につけ込まれる隙を与えてしまったのではないかとの懸念もある。検察は強い権力を持つ組織としてあくまで謙虚でなくてはならない。
 しかしながら、検察が萎縮して人事権まで政権側に握られ、起訴・不起訴の決定など公訴権の行使にまで掣肘(せいちゅう)を受けるようになったら検察は国民の信託に応えられない。
 正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。
 黒川検事長の定年延長閣議決定、今回の検察庁法改正案提出と続く一連の動きは、検察の組織を弱体化して時の政権の意のままに動く組織に改変させようとする動きであり、ロッキード世代として看過し得ないものである。関係者がこの検察庁法改正の問題を賢察され、内閣が潔くこの改正法案中、検察幹部の定年延長を認める規定は撤回することを期待し、あくまで維持するというのであれば、与党野党の境界を超えて多くの国会議員と法曹人、そして心ある国民すべてがこの検察庁法改正案に断固反対の声を上げてこれを阻止する行動に出ることを期待してやまない。
 【追記】この意見書は、本来は広く心ある元検察官多数に呼びかけて協議を重ねてまとめ上げるべきところ、既に問題の検察庁法一部改正法案が国会に提出され審議が開始されるという差し迫った状況下にあり、意見のとりまとめに当たる私(清水勇男)は既に85歳の高齢に加えて疾病により身体の自由を大きく失っている事情にあることから思うに任せず、やむなくごく少数の親しい先輩知友のみに呼びかけて起案したものであり、更に広く呼びかければ賛同者も多く参集し連名者も多岐に上るものと確実に予想されるので、残念の極みであるが、上記のような事情を了とせられ、意のあるところをなにとぞお酌み取り頂きたい。
令和2年5月15日
 元仙台高検検事長・平田胤明(たねあき)
 元法務省官房長・堀田力
 元東京高検検事長・村山弘義
 元大阪高検検事長・杉原弘泰
 元最高検検事・土屋守
 同・清水勇男
 同・久保裕
 同・五十嵐紀男
 元検事総長・松尾邦弘
 元最高検公判部長・本江威憙(ほんごうたけよし)
 元最高検検事・町田幸雄
 同・池田茂穂
 同・加藤康栄
 同・吉田博視
 (本意見書とりまとめ担当・文責)清水勇男
 法務大臣 森まさこ殿



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョンソンの言う「社会」とは何か。

2020-05-10 22:39:47 | 考える日記
2020年05月10日(日曜日)

 私は読み落としたのだが、イギリスのジョンソン首相は、コロナに感染し、一時重体だった。そして、そこから復帰した。そのとき、こう言った。

「今回のコロナ危機で、すでに証明されたことがあると思う。社会は存在するのだ。」

「社会」の定義はむずかしい。
私は日本国憲法13条に書いてある「公共の福祉」というのが「社会」ではないかと考えてる。
「公共の福祉」とは何かと言われたら「社会」と答えると思うが。

「公共」だけでも「福祉」だけでもない。「公共の福祉」。

これは「公共」と「福祉」という「二つの考え(概念)」が、「公共=福祉」という「一つの考え」に統合するときに生まれるのだと思う。
「社会」は単なる集団ではない。「福祉」を実現するための集団であり、福祉が実現されない限り「社会」ではあり得ない。
「社会」を目指そうとするから、奇妙なことになる。
「福祉」を目指し、それを実現すれば必然的に「社会」は生まれてくる、と言い直せると思う。
「公共の福祉」は「公共」に意味があるのではなく「福祉」方に意味がある。
「公共」も「福祉」も名詞であり、これを「動詞(人間の動き)」として見直すのは面倒だけれど、あえていえば「福祉」は「命を助ける」という現実の動きだと思う。「ひとのいのち」を助けることが「福祉」。
そう考えると、ジョンソンの言った「社会は存在する」もすんなりと読むことができる。「人のいのち(ジョンソンのいのち)を助けようとして、現実に動いた人間がいる」、それが「社会」というものだ。ジョンソンは、それを「実感」したのだ。

ひるがえって。
日本には、ジョンソンが実感した「社会」は存在するか。安倍は、「社会」を目指しているか。
目指していない。
簡単に言い直すと「医療崩壊」を口実に、国民がコロナに感染しているかどうかの検査さえしない国には「社会」は存在しない。
「医療崩壊」を口にした医療関係者は、そのときから「人のいのちを助ける」ということを放棄している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年05月02日

2020-05-02 15:50:18 | 考える日記
私はだれかと対話するとき、ひとつの基準をもっている。その人を信用するか、信用しないか、の基準だ。
とても単純。
その人が、私に理解できないことを言う。私がそれについて質問する。そのとき「〇〇〇」という本を読め、という答えが返ってくる人を信用しない。
本を読むのは、本の作者と対話するため。
目の前に対話の相手がいるのに、なぜ、その人のことばではなく、別の人のことばを読まないといけないのか。
「〇〇〇」の本に書いてあることを、その人自身のことばで、私に対して語りなおすことができないなら、それはその人自身が「〇〇〇」に書いてあることを理解していないことにならないか。当人が理解していな本を、なぜ私がわざわざ読まないといけないのか。
私はもともと、私の知らないことばを話す人のことを疑ってかかる人間である。
私の知らないことを知っているからといって、その人が正しいという根拠にはならない。
だいたいことばなんて、あてにならない。
たとえば「百角形」と「九十九角形」「百一角形」は、ことばでははっきり違いを認識できる。でも、それを目で判断して区別できる人、手で触って区別できる人がいるだろうか。
もしいるとしたら、それはそういう形を肉体で覚え込んでいる人、何かの職人さんだろう。私は、ことばよりも、そういう「肉体」で現実を判断できる人を信じる。
ことばが危険なのは、ことばを知っていると、事実を知っていると錯覚することがあるということだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年04月28日(火曜日)

2020-04-28 10:30:31 | 考える日記
2020年04月28日(火曜日)

鴎外『伊沢蘭軒』を読む。読むというより、眺める。漢文が読めないので、引用してある詩や手紙、日記(?)がわからない。
 しかし、引き込まれる。
 鴎外は原文に句読点を付け加えている。つまり、句読点の存在によって、鴎外が単に資料をコピーしているのではなく、きちんと読んで引用しているということがわかる。句読点に、鴎外の誠実さ(正直)があらわれている。
 人を引き込む力とは、正直なのだとあらためて実感する。

 なぜ鴎外は、伊沢蘭軒を書こうとしたのか。伊沢への批評が、そのまま鴎外の仕事をあらわしている。こう書いている。

 新邦の興隆を謀(はか)ののも人間の一事業である。古典の保存を謀るのも亦人間の一事業である。

 「古典」ということばが強く、重い。古典には天にのびる幹と枝、葉がある一方、その巨体を支える根のひろがりがある。鴎外が古典と呼んでいるのは、根のひろがりの方である。根が死ななければ、木は生きる。蘇る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年04月14日(火曜日)

2020-04-14 18:49:54 | 考える日記
 そのとき、ことばは、言うのだ。「外にはことばがあふれている。確立されたことばだ。多くのことばは、その外にあることばを利用してことばの世界を広げて行く。どれだけ外のことばを、新しいことばを取り込むことができるかを競っている。」
 それから、間を置いて、こうつづける。
 「私は、ことばの内部から、ことばにならないものを探したいのだ。それは決して外へとは広がらない。それは取り込むではなく、むしろ取り出すである。しかも、外へではなく、内部へ取り出すのである。」

 このことばの言ってることは矛盾している。「内部」が二重の意味につかわれている。だが、それは置き換えてはならないことばなのだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年03月20日(金曜日)

2020-03-20 11:57:18 | 考える日記
対話していて「正義」ということばが出てくると驚いてしまう。
「対話」は正義を追求するものではない。「正しさ」さえ求めたりはしない。ただ「わからない」を確かめるためにある。
わからないから「対話」する。その結果「わからない」が残っても、それが対話というものだろう。

私はソクラテスから踏み出すことができない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年03月02日(月曜日)

2020-03-02 00:00:00 | 考える日記
嵯峨信之の詩「そこへ連れていつてくれ」にこういう行がある。

言葉ではあらわせないところ
想いもとどかぬところ

 「言葉」は不思議だ。ことばであらわせないことも「言葉であらわせない」とことばにすることができる。矛盾している。「想い」も同じだ。「想いもとどかぬ」は「想い描くことのできない」である。しかし、そういうことを「想う」ことはできる。
 「言葉」と「想い」は、この詩では入れ替え可能である。それぞれが、互いの「比喩」になっている。
 「あらわす」「とどく」も入れ替え可能である。
 そして、詩は「名詞(言葉/想い)」ではなく「動詞(あらわす/とどく)」に重心をおいて読んだ方が、肉体に迫ってくる。言葉も想いも、届けるものである。届いたときだけ、そこに何かが「あらわれる」。
 他動詞/自動詞が、そのとき交錯する。「肉体」そのものになる。ことばはかわっても、AからBへと動いていった「もの」は一つだ。
 「もの」はそのとき「思想」になる。
 あるいは、こういうべきか。人と人との間を行き来する何か、それだけが「思想」である。行き来しないものは「思想」ではない。そして、それは行き来するだけではなく、その行き来をささえる「肉体」でなければならない。ほんとうは「肉体」が行き来しているのだ。「肉体」がいれかわる、というときが「思想」が完成するときなのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年02月11日(火曜日)

2020-02-11 09:39:42 | 考える日記
 木がある。これを「私が、木を見る」「木が、私に見える」と言い直すことができる。鳥が鳴いている。「私が、鳥の声を聴く」「鳥の声が、私に聴こえる」と言い直すことができる。
 いつも「私」が動いている。「肉体」が動いている。
 だからこれを「私の肉体が私の肉体ではないものと出会っている(向き合っている)」と言い直すことができる。出会い方、向き合い方が「見る/見える」「聴く/聴こえる」だが、これをさらに「ある」と言い直すことができるのではないか。
 木が「ある」、鳥の声が「ある」。そのようにして、世界が「ある」。
 私がいるとき、私の「肉体」が「ある」とき、かならず何かが「ある」。その「何か」と向き合うとき、世界が「ある」。世界が「はじまる」。

 私が生まれてきたとき、すでに「世界」は「あった」。
 でも、それは世界が「ある」というのとは違う。「はじまる」というのとは違う。
 私の「肉体」が何かと向き合い、「肉体」が動く。そのとき、世界が「ある」。「肉体」が動いていくところまでが「世界」。動いて行って「ある」を確かめるだけだ。世界が「どのようして」あるかを。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年01月24日(金曜日)

2020-01-24 23:16:47 | 考える日記
2020年01月24日(金曜日)

 私は「誤読」する。もちろんそれは意図的に誤読するのである。しかし、その「意図」を私は理解しているわけではない。何を目指しているのか、わからない。わかるのは「誤読」しないかぎりたどりつけないものがあるということだ。それは、どこかにすでに存在しているのではない。どこにも存在していない。あえていえば、すでに存在しているものを破壊したときに生まれるものなのだ。つまり、「誤読する」その瞬間だけに生まれ、ことばにしてしまった瞬間には消えてしまうものなのだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年01月12日(日曜日)

2020-01-12 10:15:27 | 考える日記
2020年01月12日(日曜日)

 「渾沌」ということばがある。「無」ということばもある。そして、それをつなぐことばは、たぶん「闇」である。
 しかし、私は「それ」を体験したことがない。
 「闇」のかわりに「光」を組み込むと、私の知っている「世界」になる。

 私は田舎に生まれた。
 家の前には畑があり、道があり、山があって、直接は見えないけれど川もある。道が分かれるところに神社がある。こう書くと、それは「渾沌」とは違って、明確に整理された世界だ。
 しかし、私はいま道と呼び、山と呼び、川と呼び、神社と呼んだものを、意識しない。存在しているけれど、存在しない。「ある」けれど、名前を持たない。ことばを持たない。
 ことばにしたとき、ことばといっしょに「あらわれる」。
 たとえば、いまの季節。昔は雪が降った。私の田舎は雪が多い。学校が終わって、家に帰って、帰り際に友達と、「川の向こうの段々畑でスキーをしよう」と言えば、そのときその「場所」が「段々畑」として「あらわれる」。そして、すぐに「スキー場」にかわり、「あらわれなおす」という感じだ。スピードを出しすぎる、いちばん下の畑で曲がり間違える。川に落ちる。そのとき「川」が「あらわれる」。
 「ある」けれども「名前がない」というのが、私の「渾沌」である。「名前もある」けれども「名前が意識されない」が私の「渾沌」である。

 「闇」というものがあることは知っている。しかし、私が最初に見たのが「闇」だという記憶はない。これが、私が「渾沌」について考えるとき、いつもつまずく問題である。つまり、「闇」から出発して「渾沌」を考えることができない。
 「論理的」には理解できる(理解できているつもり)だが、現実感覚にあわない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年01月09日(木曜日)

2020-01-09 09:57:37 | 考える日記
2020年01月09日(木曜日)

 和辻哲郎『古寺巡礼』の「道」、その2。

 「十二」。法華寺十一面観音について書いている。光明皇后の伝説について触れたあとの部分。

「あった」か「なかった」かの問題よりも、「あり得た」か「あり得なかった」かの問題に興味を抱く人に対しては、これらのことも何ほどかの意味を持つに違いない。
                               (135ページ)

 和辻は、「あり得た」か「あり得なかった」かに興味を持つ人である。この「あり得た」か「あり得なかった」かは、「事実」ではなく「構想力」の問題である。
 「構想力」ということばは、別の場所で、こんな具合につかわれている。「七」、聖林寺十一面観音について書いている。

かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうして自由な、構想力の結晶なのである。
                                (68ページ)

 「十一面」は「あり得る」のである。では、どこに。「構想力」を、和辻は、こう書き換えている。

人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核まで突き入り、そこにつかまれた人間存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。
                                (69ページ)

 「構想力の結晶」「一つの形像に結晶せしめようとした」と「結晶/結晶する」ということばが二つの文章をつないでいる。そして、そこに「人間存在の神秘」ということばが挿入されるのだが、この「あり得る」ものとしての「人間存在の神秘」こそが、和辻にとっての「道」なのだ。それは、「心の奥底」「体の中核」という、いわば「見えない」ところに、ある。
 和辻は、それを探している。「ことば」で、追い求めている。和辻は「倫理」の人であるが、同時に「哲学」の人として迫ってくるのは、そのためである。

 忘れられない本がある。忘れられない「ことば」がある。「意味」ではなく、「ことば」がある。それは、私と他人をつなぐ。そういうことが「あり得る」。その「あり得る」ものからすべてが生まれてくる。そういう「あり得る」ものとして「道」。
 「神秘」ということばは、私は好きではない。私は、その「あり得る」を「神秘」ではなく「ほんとう」としてわかりたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする