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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2021年01月04日(月曜日)

2021-01-04 10:57:38 | 考える日記
 「試行錯誤」は、そのまま「試行錯誤」として残しておく。「誤り」を消してしまうと、論理は簡潔になるが、「完璧」をもとめて暴走してしまう。論理は完結すると美しいが、同時に排他的になる危険性がある。
 つねに矛盾を抱え込むこと。立ち止まること。
 完結してしまったら、次はそれを破ること。
 「論理」ではなく、「生きる」を重ねること。

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Estoy loco por espana(番外篇96)Joaquín Llorens

2021-01-02 15:46:17 | 考える日記
Joaquín Lloréns
Técnica hierro
70x50x30
Serie. Cuatro elementos




¿Por qué es difícil apoyarse mutuamente?
Al soportar, el peso se vuelve insoportable.
Cuando pienso en por qué tengo que apoyarlo, me abrumo.
Pero, ¿y si no estoy apoyando a alguien, sino alguien esta apoyando a mi?

¿El hemisferio inferior sostiene al hemisferio superior o lo sostiene el hemisferio superior?
Cuando lo miro, lo pierdo gradualmente.

Creo que el arte es lo que nos dice que hay algo que no entendemos sobre nuestra "ansiedad".


支えあうことがむずかしいのはなぜだろう。
支えていると、重さが耐えられなくなる。
なぜ、支えなければならないのか、と考えると気も押しつぶされてしまう。
でも、支えているのではなく、支えられているのだとしたら?

下になっている半球(半円)は上の半球(半円)を支えているのか、あるいは上の半球によって支えられているのか。
見ていると、だんだんわからなくなる。

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2021年01月01日(金曜日)

2021-01-01 11:37:23 | 考える日記
 プラトンの『ソクラテスの弁明』を読む。(岩波書店、「プラトン全集1」、1986年06月09日、第三刷発行)
 私が「指針」としていることばがいくつもある。

①それはありあわせの言葉でもって、むぞうさに語られることになるでしょう。

 「借りてきたことば」(流通している「現代思想用語」)をつかわない。

②ひとつずつしらべてみることにしましょう。

 「調べる」とは「ありあわせの言葉(自分がふだんつかっていることば)」で言い直してみること。

③たましい(いのちそのもの)を、できるだけすぐれたよいものにするように、

 私は「魂」の存在を信じていない。ソクラテスは「たましい」を「いのちそのもの」と言い直している。私は、この定義ならば、なっとくできる。「いきていること」を「いきてあること」を、できるだけすぐれたよいものにしたい、と私は望んでいる。
 そのために、読む。

④一人一人に接触して、徳に留意せよと説いてきた

 「徳」については、考えない。「一人一人に接触して」は大事。
 私は詩の感想を書き綴っているが、それはそのつど「ひとり」を相手に向き合っている。ただ、そこに「ひとり」の人間がいきてあることを感じて、それについて私がどう感じたかを書く。
 「接触して」というもの大事だ。「接触」というのは、瞬間的なものである。そのときそのときによって、「接触」する部分が違う。私の状態も一定ではない。
 「ひとりひとりに、そのとき接触して」
 ソクラテスは、これを「各人に個人的につくす」、あるいは「一人一人をつかまえて」と言い直している。
 他の人といっしょにしない。

⑤私人としてあることが必要

 これは①に通じる。「私」の「ありあわせの言葉」で「むぞうさ」に、いきる。公、共通、流通の拒否。
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最果タヒ『夜景座生まれ』(2)

2020-12-13 11:01:52 | 考える日記

(新潮社、2020年11月25日発行)

 最果タヒ『夜景座生まれ』の31ページから61ページまで読んだ。61ページは空白なので60ページといった方が正しいのかもしれないけれど。書いてみたいことがふたつある。
 まず「5月」という作品。

ハサミで切断された髪の束は一瞬だけ、花束だった、
床に落ちる数秒前まで、花束だった、ぼくはそれを
見ていた気がする、いちごの匂いがした気がして、
でもどこからなのか結局わからなかったあの日から、
ぼくの少年期は終わり、あなたが新たに病院で生ま
れていた、ぼくは記憶の中にある、背の高い石垣に
もう戻ることができない、腰掛けることすら容易な
その場所を、見上げていたぼくの手にはアイスクリ
ームが少しついていて、甘い匂いがしていた、

 ことばは、まだつづく。そのことばは、読点だけでつづいている。句点は詩の終わりに一回だけ出てくる。引用はここまでにしておく。
 詩を読みながら、私は「ぼくは記憶の中にある」ということばに、私は思わず傍線を引いた。きのう書いた「具体的」ということばのように、そのことばだけが詩全体の中から飛び出してきているように感じたのだ。
 「ぼくは記憶の中にある」は前後を読点で挟まれている。そのことばは前のことばにつづいていると読むこともできるし、後のことばにつづいていると読むこともできる。さらには、それ自体で独立しているように見える。
 この意識的時間の流れの、行きつ戻りつを含んだ動きは書き出しの「髪の束=花束」にも、すでに書かれている。切断される前に花束だったのか。切断されて床に落ちたとき、一瞬花束に変わったのか。どう読むか悩んでいると「床に落ちる数秒前まで」ということばが追加され、切断されて、床に落ちるまで、空間に浮かんでいる一瞬のことを書いているのだとわかる。しかし、「ぼくはそれを見ていた気がする」ということばがそれを呑み込んでいくとき、いったい「髪の束=花束」という「一瞬」はいつのことかよくわからなくなる。わかるのは、それが「気がする」ということだけだ。そこにあるのは「気」だけである。「気持ち」か「気分」かわからないが、「もの」ではなく「もの(具体物)」をつかまえようとする「意識」だけがある。だいたい「髪の束」は「もの(実在)」だが「花束」は比喩であり、実物(もの)ではないから、そもそも存在しているのは、「髪の束」を「花束」と呼ぶ意識だけなのである。ことばの運動だけなのである。
 それを「気」と呼ぶ。「気」は、しかし、「いま」しか存在しない。不安定な、つねに動いてしまうものである。これを最果は「記憶」に変えていこうとしている。「気がする」「気がして」は、こう言い換えることができる。
 
ぼく(に)はそれを見ていた「記憶がある」、いちごの匂いがした「記憶がある」

 「記憶」は「記録」に通じる。いまり「記す」ということが含まれる。「気持ち/気分」は「記録」される(ことばにされる)ことで、「記憶」にかわる。そして、「記憶」になった瞬間、それは「記憶」自体として存在し始める。
 これが、いま書いたことが、私の意識の中で突然暴走するのである。

ぼくは記憶の中にある

は、前の文章にも後の文章にもつながらず、独立して存在し、それだけで「意味」をもつ。「ぼくは」「記憶の中に」「ある」という三つの要素にわかれたあと、「記憶の中にぼくはある」と「ぼく」と「記憶」が入れ替わってしまう。「ぼく」は「いま」「ここ」に存在しない。「ぼく」は「記憶」というもの(ことば)のなかにある、と主張しているように見えてくるのである。
 「髪の束」が「花束」に見えた、気がした。その「記憶」なのかなにあるのが「ぼく」なのだ。「髪の束」と「花束」と「ぼく」が「記憶」のなかでは同等の存在である。もしかすると「髪の束」「花束」が「ぼく」を見ていたのかもしないのだ。「髪の束」が切断されながら、自分自身を「花束」だと認識し、その「認識」を書きとめてくれる「ぼく」を出現させていたのかもしれない。あるいは「花束」そのものが「切断される髪の束」と「ぼく」を呼び寄せていたのかもしれない。それは、「ことば」が「髪の束」「花束」「ぼく」を呼び寄せたということであって、「もの」が「ことば」や「意識」を呼び寄せたのではない。
 「ことば」が世界を出現させる。

ぼくは記憶の中にある

 これは「ぼくはことばの中にある」であり、「ことばの中にぼくはある」でもある。「ことば」のなかに最果は「ぼく(わたし)」を探している。「ぼく」は「仮称」である。まだ存在しない「自己」というものだろう。
 若い読者がどういう感覚で最果の詩を(ことばを)読んでいるのかわからないが、きっと、「ことば」のなかに「自己」を探すとき、その「ことば」となってあらわれてくる「いま/ここ」にいない「自己」、どこか「記憶」として感じている「自己」を重ね合わせているのかもしれない。どこかに置き去りにしてきた「自己」と言い直せばいいのか。
 私自身は最果の「ことば」のそのものに私を重ね合わせ、自己の輪郭を確かめるということはしないが、最果の「ことばの運動(ことばの肉体)」そのものに、あ、そうなのか、と立ち止まるのである。

 「マッチの詩」には、強烈なことばがある。

ぼくが、あなたを好きだったことなど一度もなかった、
火のような、あなたへの感情はいつまでも黒い火薬のままで、
瞳の中に詰め込まれ、ずっと燃えることがない。

 「火のような」のに、「火」ではない。「燃えることがない」のだから。しかし、それは「火薬」であり、いつ爆発してもおかしくはない。むしろ、それは「火」よりも危険な存在である。燃えている火は消すことができる。やがて消えもする。しかし、「火薬」はどれくらいの爆発を起こすかわからない。少量の火薬なら、わざわざ火薬とは意識しないし「詰め込まれている」とも意識しない。
 矛盾だけが表現できる「いま/ここにない」もの、しかし、それを「知っている/覚えている」ことをことばは「いま/ここ」に出現させることができる。
 このとき「知っている/覚えている」は「記憶」をもっと「肉体」に引きつけたものである。「ことば」というよりも「肉体」そのものである。「記憶」は「ことば」によって「記す」ことができる。しかし、「知っていること/覚えていること」は「ことば」を必要としない。自転車に乗れるひと、泳げるひとは、長い間自転車に乗っていなくても、泳いでいなくても、「いま/ここ」で自転車に乗り、泳ぐことができる。「肉体」は、「過去の体験」を「覚えている」「忘れない」。そんなふうに「肉体」になってしまった何か、「肉体」にしみこんで「ことば」になることを放棄している何かをひっぱりだし、「矛盾」のようなものとして出現させる。
 こういう部分は、私のように、最果の世代から遠い人間にも、とても魅力的だ。「記憶の中のぼく」を一緒に生きている感じがする。これを私は「共感」と呼ぶ。






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料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
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費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
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また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

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(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

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2020年12月06日(日曜日)

2020-12-06 11:20:03 | 考える日記
 私のスペイン語は独学である。独学でやっていると、突然、変なことに気がつく。

 「スペイン語で読む やさしいドン・キホーテ」という本がある(NHK出版)。
 
 En un lugar de la Mancha vivía un viejo hidalgo de costunbres muy peculiares.

 とはじまる。だいたい中級向け、ということになっている。そのため簡略化、短縮化されている。しかし、ラジオ講座の初級をうろちょろしている私にはチンプンカンプンである。日本語の対訳になっているのだが、それを参考にしてもぜんぜん読み進めることができない。
 ところが。
 せっかく読むのだから、せめて日本語版は全編、短縮されていないものを読んでみようと思い立ち、岩波書店から出ている前編・後編の二巻を読み始めた。やっときのう読み終わった。そして、さてスペイン語に戻るか、と思い読み直してみた。
 すると。
 これが、すらすらとまではいかないが、結構わかるのである。
 それで、気づいたのだ。
 ことばは、ことばを知っているだけではことばがわからない。逆に言うと、ことばを知らなくても「事実」を知っていれば、ことばはなんとなくわかる。さらに、たくさん何かを知っていれば、ことばはなんとなくわかるのだ。文法は関係ないのだ。
 日本語版は二段組で、前編・後編をあわせると1000ページを超えている。それを読み終わると、ドン・キホーテがどういう人間かわかる。サンチョ・パンサがどういう人間かわかる。「スペイン語で読む やさしいドン・キホーテ」に書かれていることは、そのほんのほんの一部である。だから、そこに書かれていることが全部手に取るようにわかる。それがスペイン語であっても。「知っていること」が「ことば」よりも多くないと、「ことば」は理解できない。
 あたりまえだね。「ことば」はどんなに頑張ってみても「現実」のすべてを語れるわけではない。「現実」の方が多い。「現実」を知っているから「ことば」が理解できる。「ひとは知っていることしか理解できない」と、あらためて思った。
 そして、もうひとつ。
 語学の勉強は、なんといっても「名文」を読むにかぎる。最初に引用した「ドン・キホーテ」はオリジナルは、こうである。(本の最後に、名文なので全文が紹介されている。)

 En un lugar de la Mancha de cuyo nombre no quiero acordarme vivía un viejo hidalgo de costunbres muy peculiares.

 とてもリズミカルである。意味がわからなくても、ことばが自然に動いているのがわかる。意味はあとからやってくる。

 いま日本では国語教育が見直されようとしている。高校の国語教科書から「文学」が追放されようとしている。しかし、それでは逆効果しか産まないだろうなあ、と私は思う。「文学」はたしかに実用的ではない。無駄かもしれない。しかし、無駄がたくさんあって、無駄どうしが淘汰しあって自然なことばが成り立つ。ことばを勉強するなら、やっぱり「文学」にかぎるのだ。多くの人が「名文(味わい深い)」と判断したものをたくさん読むにかぎるのだ。
 「やさしいドン・キホーテ」も読み通せないのに、私は、「文学」をもっと読みたくなってしまった。

 それにしても、『新訳 ドン・キホーテ』(岩波書店)の牛島信明の訳はすばらしいとしかいいようがない。私は目が悪いから一日三十分と決めてページをめくっていたのだが、ついつい我慢できずに時間をオーバーしてしまった。牛島の訳がすばらしいから、登場人物の動きがわかる。その結果、スペイン語の文章もわかる、ということにつながっている。

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2020年11月30日(日曜日)

2020-11-30 10:45:05 | 考える日記
 私は少しずつスペイン語を勉強している。どうしてもわからないことがある。特にややこしいのが「接続法」である。日本語にはない概念である。「主節にこの動詞(ことば)があるとき、従節は接続法になる。覚えるしかない」という乱暴な人もいる。そのうちになれる、というのである。
 そうかもしれない。
 しかし、私は突然、気づいた。「ことば」とはなによりも「哲学」である。つまり、人間そのものである。「ことばをつかむ」ということは「人間をつかむ」ということである。「文法をつかむ」ことではない。
 「接続法」はスペイン語だけではなく、フランス語にもある。たぶん、イタリア語にもドイツ語にもあるだろう。そして、その言語を話す「人間」はどういう人間か。私はある日、インターネットでスペインの友人と話していて、突然、気づいたのだ。あ、このひとは「他人」なのだ。独立した存在なのだ、と。あたりまえなのだが、この「個人(他人)の重視」という哲学が「接続法」のなかに生きている。
 言い直すと、私(主節)が何を考えようが、従節(他人)は別個の次元を生きている。主節と従節で「主語」が変わるならば、動詞(私の好きな言い方で言うと、肉体の動き)は私とは関係がない。無関係に生きている。他人は私の感情や意志では動かない。そういうことをヨーロッパの言語は「文法」として人間にたたき込むのである。

 日本で「同調圧力」というものが語られる。そんなものはスペイン語やフランス語では成立しない。日本語は、日本語を話す相手は「自分と同じように考える」ということを前提としている。でもヨーロッパのことばは、「他人は自分の考えとは関係なく生きている」と明確に意識している。
 「文法」の正しさをいくら追求しても何も始まらない。まず「人間」をつかむこと。そこから出発しないといけないのだ。

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2020年10月30日(金曜日)

2020-10-30 16:15:20 | 考える日記
 私はまだボーヴォワール「アメリカその日その日」を読んでいる。こんなことが書いてある。

ほんとうの若者は、人間の未来に向かって自己を超出しようと懸命になる若者であって、自分に割当てられた領分に迎合的な諦めを以て閉じこもる若者ではない。

 まるで、いま私が日本の若者に対して感じていることそのままだが、ここで「いまの若者は」と言ってしまうのでは年寄りになってしまう。
 ホーヴォワールのことばを借りて、私自身が「若者」にもどってみることにする。「人間の未来に向かって自己を超出しようと懸命になる」ということを試みたい。
 いくつになっても「自己を超出しよう」とすることはできるはずだ。本を読む。そこでみつけた「ことば」を自分に引きつける。その「ことば」を頼りに、自分を動かしていく。この小さな行為も「自己を超出しよう」とする試みであるはずだ。
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2020年10月26日(月曜日)

2020-10-26 15:52:49 | 考える日記
 ある本に、こんなことが書いてある。

彼らは日ごとにますます険悪になる人種差別や反動の強化、ファシズムのきざしをちゃんと見ている。世界の未来に対して自分の国がいかなる責任をになっているかも知っている。しかし彼ら自身は、何に対しても責任がないと感じている。それは彼らが、この世界で何かをなすことができると思っていないからである。二十歳にして彼らは自己の思考は無益で、善意は無効だと確信しているのである。

 まるで日本の若者のことを書いているように感じてしまう。「人種差別」を「中国・韓国への差別」と書き換えれば、そのまま日本の若者に対して私が感じているとことと一致してしまう。ここに書いてあることに「政治を追認し、いまの自分を守ることだけが未来を生きることだと確信している」とつけくわえれば、いっそう、いまの若者に近づくだろう。
 そう気づいて、私は、かなりぞっとした。

 ある本とは、ボーヴォワールの「アメリカその日その日」である。ホーヴワールはこの「日記」を1947年に書いている。そのときボーヴォワールが見たものが、いまはさらに増幅された形で世界をおおっているということかもしれない。

 ところで。
 私が大学生の頃、ボーヴォワールの「第二の性」は北九州市立図書館では閲覧は可能だったが貸し出しは禁止だった。図書館の本は必ずしも借り出せるものではないし、図書館には読みたい本がそなえてあるわけではないということを教えてくれたのは、ボーヴォワールだった。必要な本(読みたいと思う本)は自分で買い揃えなければならないと覚悟できたのはボーヴォワールのおかげである。
 脱線したが。
 やはり読むべきはボーヴォワールである。活字が小さくてつらいが、人文書院の「全集」をやっと手にすることができた。「源氏物語」を手に入れたなんとかという人のように私はうきうきしている。
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2020年10月21日

2020-10-21 23:59:05 | 考える日記

2020年10月21日(水曜日)

 魯迅を読む。読み返す。
 魯迅は、私に「正直」を教えてくれた人である。その「正直」は、何とも言えず悲しい。
 「故郷」には、こんな文章がある。

 私は横になって、船底にさらさらという水音をききながら、いま私は私の道を歩いていることをさとった。

 この「道」ということばに、私は、どうしようもなく胸を打たれる。
 この「道」の対極に、「故郷」の場合、彼の幼友達の「閏土」がいると考えるのは簡単である。しかし、それでは閏土に「道」はないのか。いや、あるのだ。「阿Q」に「道」があるのとおなじだ。
 魯迅は「道はある」とは言わずに「道になる」と書く。

 それは希望でも、絶望でもない。「道」は現実であり、「道」は歩くしかないのである。

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「詩はどこにあるか」2020年9月号

2020-10-02 08:47:58 | 考える日記
「詩はどこにあるか」2020年9月号発売中。1750円(送料別)
↓↓↓↓

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710186

目次

小池昌代『かきがら』(2)2  笠原仙一『命の火』5
以倉紘平「水字貝」9  青柳俊哉「水面」、池田清子「慣れ」、徳永孝「振亜さん」11
冨岡悦子「文庫本」20  中村不二夫『鳥のうた』22
未知野道「雨」26  佐藤裕子「再び しびとに夢を見てはならない」30
大橋英人『パスタの羅んぷ』34  田中庸介「こぼれ、倒す」「洗濯男」、細田傳造「思想少年」40
愛啓浩一「ベンヤミンは書いている」45 村上春樹の読み方56
北野丘『字扶桑』61  小川三郎「バス」65
沢田敏子『一通の配達不能郵便が私を呼んだ』69  鎌田尚美「涸れ井戸」ほか73
松浦寿輝「人外詩篇 9」78  くりはらすなを『ちいさな椅子とちいさなテーブルを持つ家』83
白井知子「ヴォルガ河 真夜中の晩餐」85   嵩文彦「生活」89
高貝弘也「黒犬/記憶」94  伊藤芳博『いのち/ことば』98
高橋秀明「春泥」102  ロン・ハワード監督「パヴァロッティ 太陽のテノール」106
冨岡郁子「朽木の空(ウロ)」109  クリストファー・ノーラン監督「TENET テネット」119
北爪満喜『bridge』121


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外務省幹部?(読売新聞のおもしろさ)

2020-09-12 09:00:08 | 考える日記
外務省幹部?(読売新聞のおもしろさ)
   自民党憲法改正草案を読む/番外391(情報の読み方)

 2020年09月12日の読売新聞(西部版・14版)1面に、安倍が「辞任会見」でぶちあげた「敵基地攻撃システム」の続報が載っている。

敵基地攻撃 結論先送り/安倍首相が談話「次の内閣で」

 「辞任会見」でぶち上げたのに気づく記者がいなかったので、読売新聞をつかって「特ダネ」情報に仕立てた。しかし、頓挫してしまった。だいたい去っていく人間が「遺産」をでっちあげるために新政策を策定するということ自体がおかしいのだが、これはすでに多くの人が指摘しているのできょうは書かない。
 私がきょう指摘したいのは、きょうの問題。この見出し。新聞を熱心に読んでいる人なら気づいたと思うが、とても、とても、とても変である。「意味」としては間違ったことを書いていない。でも、

安倍首相が談話

 新聞の見出しは、ふつうは、こう書かない。ふつうなら

安倍首相談話

 と「が」を省略する。新聞の見出しは「短い」のが原則。わざわざ「が」を補うことはない。
 ここからが問題である。「安倍首相が談話」と「安倍首相談話」のどこが違うか。1面の記事を読むかぎりは、わからない。なぜ「安倍首相談話」にしなかったか。
 3面に書かれている記事を読まないとわからない。3面の見出しは、

敵基地攻撃力/年末結論に壁/安倍首相談話
政局流動的/公明に慎重論

 となっており、そこでは「安倍首相談話」となっているのだが、記事を読んでいくと、こんな部分がある。

 談話は閣議決定を経る「首相談話」ではなく、「首相の談話」とされた。2015年8月の戦後70年談話などとは異なり、「政府方針ではなく、首相個人の思い」(外務省幹部)であることを示し、新首相の裁量を確保する狙いがある。

 私は知らなかったのだが「首相談話」と「首相の談話」は別物なのである。「首相談話」は「閣議決定」を経る。しかし「首相の談話」は「閣議決定」を経ていない。つまり、政府方針」ではない。「拘束力」がない。単なる「談話」なのである。もちろん単なる談話と言っても、話した人が首相なら、その重みは違うが、その重みも「首相談話」と「首相の談話」は違うということになる。
 1面の見出しが「安倍首相が談話」となっていたのは、安倍の談話は閣議決定を経た「首相談話」ではなかった。「閣議決定」はされていない。「政府方針ではない」という意味だったのだ。
 これは微妙な問題だが、微妙であればあるほど、それがわかるように記事にしないといけない。読売新聞は1面には書いていないが3面に書いているから「問題はない」というかもしれないが。

 私は「邪推派」「懐疑派」の人間だから、いろいろ思うのである。3面の「説明」の部分でびっくりしたのは、「首相談話」と「首相の談話」が違うという指摘と同時に、次の部分である。

「政府方針ではなく、首相個人の思い」(外務省幹部)であることを示し

 ふつうの記事にあらわれる「コメント」は「政府関係者」が多い。「外務省幹部」も政府関係者のひとりであるかもしれないが、わざわざ「外務省」が出てくるのはなぜなのか。ことばの定義だけの問題なら、他の関係者でもいいはずである。
 「外務省」が登場するのは、安倍の「談話」が、「国内向け(国民向け)」であるよりも「外国向け」だからだろう。つまり、「敵基地攻撃システム」は何よりも「外交問題」であるからなのだろう。「的基地」が外国にあるからというよりも、そのシステムに必要な武器を買う相手が「外国」だからだろう。予算が伴うから、もちろん財務省も関係するし、武器調達だから防衛省も関係するが、今回は「外務省」の関与が大きいのだ。そういうことを考えさせる。
 「武器を買うシステムを首相在任期間中につくれるよう努力してきた。しかし、できそうもない。だから次期政権に引き継ぐ。努力したことをわかってほしい」とアメリカに伝えたかったのだ。伝える必要があったのだ。そのために大々的に新聞を利用しているのだ。私は他紙を読んでいないが、他紙でもきっと1面で報道していると思う。
 読売新聞は、単に「政府内」だけで「敵基地攻撃システム」が語られていたのではなく、そこには「外務省」が深くかかわっていることを暗示している。あるいは「外務省幹部」ということばを挿入することで「明示している」と言った方がいいかもしれない。読売新聞は、安倍より(政権より)と批判されつづけるのだが、ときどき「外務省幹部」のように、ちいさな声で何事かをささやきかけてくる。それが、とてもおもしろい。

 「書かれていないニュース」がいろいろあるのだ。もちろん「取材した」すべてをニュースにできるわけではない。「暗示」する形でしか書けないニュースがある。「暗示」されたことがらの裏で何が起きているのか。その起きていることは、いつ「ニュースになるのか」、あるいは「ニュースにするのか」、とても気になる。「辞任会見」「菅総裁選出」と安倍の設計図にしたがって政治が動いているように見えるが、そうではない部分があらわれ始めているということかもしれない。「敵基地攻撃システム」が確立されていいわけではないが、この安倍の「小さなつまずき」は、もしかすると以外に大きいかもしれない。
 いや、実際、いま、見えないところで何が起きているのだろう。


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2020年08月18日(火曜日)

2020-08-18 10:35:53 | 考える日記
 詩集、小説の「批評」を読んでいると、ときどき西洋の現代思想家のことばが引用されているのに出会う。
 その思想家が、批評の対象になっている日本の現代詩、小説について語っているのか。その具体的な作品ではないにしても、最低限、日本の詩や小説、つまり「ことば」について何か語っているのか。そうであるなら西洋の現代思想を引用する意味もあるだろうが、彼らが日本のことばについて何も語っていないなら、そういうひとのことばを引用しても意味があるとは思えない。
 その批評家は、最新の現代思想家になったのつもりなのか。
 しかし、その最新の現代思想家の思想、つまりことばが気になるなら、私はその思想家の書いたことばを読むだろう。それが翻訳であっても。
 でも、批評家が書きたいのは、何? 日本の現代詩、小説への批評? それなら自分のことばだけで書けばいい。西洋思想家のことばを経由しなくてもいい。他人のことば経由の批評を読ませられたのでは、それはだれのことばなのか、わからない。西洋の現代思想家が、日本の現代詩、小説について、ほんとうにそんなことを言うと思う?

 引用している西洋現代思想家について「批評」すれば、彼らを研究している日本の思想家からいろいろな指摘がくると恐れているのかも。日本の現代思想家が反論してこないところで、「私は、この思想家のことを知っています」と言っているだけのように思える。
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2020年08月09日(日曜日)

2020-08-09 11:43:44 | 考える日記
森鴎外『阿部一族』(鴎外選集 第四巻)(岩波書店、1979年02月22日発行)

 『伊沢蘭軒』に疲れたので、なじみのある「阿部一族」で一休み。
 私は、この小説の中では、犬の殉死の部分がとても好きだ。おもしろい。ほかの部分は忘れても、この部分だけは忘れることができない。鴎外自身も、「津崎五郎の事蹟は際立つて面白いから別に書くことにする」(182ページ)と断った上で書いている。いまなら、これだけを書いて「短篇小説」にするひとがいるかもしれない。
 その「逸話」のおもしろさとは別にして、やはり、鴎外はおもしろい。
 「阿部一族」というタイトルなのだけれど、なかなか「阿部一族」が出てこない。「細川忠利」の病気からはじまり、急死。そのあと多くの武士が殉死する。その殉死シリーズのなかに、先に書いた犬の殉死や、酒が好きな男が、最後に好きな酒をいつもより多く飲んだために昼寝をしてしまう。目がさめたら腹が減っているので家族でお茶漬けを食う。それから切腹するというような、いったい、何を書いているんだろう。落語なのか、と思うようなこともある。
 で、その「細部」がおもしろいのはもちろんなのだが。
 いつもいつもおもしろいと思うのは、鴎外の文章がどこへ向かって動いているか、さっぱりわからないことである。この小説でも「阿部一族」が出てくるのは190ページからである。はじまってから20ページも過ぎている。全体は37ページだから半分を過ぎてからである。「構成」バランスから言えば、何をもたもたと書いているのだ、ということになるが、そんな気持ちがぜんぜん起きない。
 「事実」が書かれる。そして、その「事実」を鴎外がどう感じたかが、「事実」を踏まえながら書かれる。犬の殉死を「おもしろい」と感じたと書くように、事実と鴎外の思いが一体になって動く。
 175ページでは「長十郎」の「心理」に踏み込んで、こんなことを書いている。

此男の心中に立ち入つて見ると、自分の発意で殉死しなくてはならぬと云ふ心持の傍、ひとが自分を殉死する筈のものだと思つていゐるに違ひないから、自分は殉死を余儀なくさせられてゐると、人にすがつて死の方向へ進んで行くやうな心持が、殆ど同じ強さで存在してゐた。

 こう書かれると、そう思えてくる。鴎外自身の想像にすぎないのに、想像に思えなくなる。
 散文は「事実」を積み重ね、それに自分の思い(感想)を重ねる。それがどこまで動いていくかは、書いている人間にもわからない。ただ「思い」を動かし、その動きをことばにするものなのだ。思い(ことば)を動かすために「事実」というものがあるだけであり、その「事実」は何であってもいいのである。
 犬の殉死も長十郎の殉死も同じというと、かなり問題を含むけれど、ことばが動く(ことばを動かす力になる)という意味では同じなのだ。そういうことを、「かのやうに」の112ページでは、こんな具合に説明している。(と、私は、強引に「文脈」を無視して引用するのだが。)

事実だと云つても、人間の写象を通過した以上は、物質論者のランゲの謂ふ湊合が加はつてゐる。意識せずに詩にしてゐる。嘘になってゐる。

 「事実」を積み重ねるといっても、そこには「選択」が入り、また語る順序も関係してくるから、それはすでに「事実」ではなく、「感想(思い/思想)」なのである。そうなのだけれど、鴎外は、その「思い/思想」の「到達点(結論)」をあらかじめ用意して書き始めているというよりも、書けるだけ書いてしまえばいいという感じでことばを動かしているように、私には感じられる。「思想」は到達点にあるではなく、ことはの動きにあるのだ。
 「国語」をその国の到達した思想の頂点というようなことを言ったのは、三木清だったかなあ。でも、その「思想の頂点」というのは「結論」ではなく、ことばが動いている「正直さ」のなかにある、と私は思う。
 人間はだれでも、そのひと個人の「意味」を生きているからね。
 で。
 やっぱり「先生」と呼べるのは「鴎外先生だけかなあ」と、会ったこともない鴎外のことを思うのである。






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2020年08月06日(木曜日)

2020-08-06 14:14:44 | 考える日記
 「常識がない(知識がない)」という批判は、意味がない。だれもが自分を基準にして世界をみているだけだからである。
 考えるか、考えないかが問題である。
 正しいか、間違っているかも問題ではない。
 考えなくても「正しい」ことを言うことができる。借りてくればいい。でも、それはそのひとが考えたことではない。

 借りてきたことばを話しているひとと対話するとき、いったい、私はだれと話しているのだろうか。目の前のひとが。それとも、その背後にいる「正しいことば」を語る別のひとだろうか。
 どんなに「正しい」ことでも、伝達の途中で変わってしまうことがある。「間違い」になってしまうことがある。もしかすると、そういう「間違い」を語る人の方が、考えているかもしれない。考えたから、他人のことばをそのままそっくり語ることができないのだ。自分の考えがまぎれこむから「間違い」が生まれる。「正しい」と違ったものになってしまう。
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2020年07月28日(火曜日)

2020-07-28 18:05:57 | 考える日記
2020年07月28日(火曜日)

 「結論」というの多くの場合最後にたどりつくものではなくてたいてい最初にある。
 そして、最初にあるものにあわせて不都合なものを排除していくことで整合性(論理性)を獲得していくという暴力を抱え込んでいる。
 ことばの運動というのは、どうしてもそうならざるを得ないのかもしれないけれど、私はそういうことに抵抗してみたい。

 理想は書かずに、話すこと。
 話しことばは、話したさきから消えていく。
 「私がいいたいのは、いま、きみが要約したことではなく、こういうこと」と次々に先へ進んで行く運動。
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