goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2020年01月01日(水曜日)(2)

2020-01-01 11:52:07 | 考える日記
 和辻哲郎『古寺巡礼』。「倫理」ではなく、「哲学」としての「道」。たとえば、次の部分。

 (芸術は)まだ実現せられないより高き自己を自分の前に展開して見せることによって、実生活にいい刺戟を与え、実行の動機を生み出すことがある。

 芸術は、衆生にそのより高き自己を指示する力のゆえに、衆生救済の方便として用いられる可能性を持っていた。
                               (22ページ)

 この二か所の「より高き」の「より」には傍点がついている。ここに「哲学」としての「道」がある。「より」はいまそこにないものへ向かっての運動の意欲をあらわしている。いまそこにない何かを実現するための「道」は「運動」と呼べるかもしれない。
 和辻の感想(批評)は非常に生き生きとしている。ことばに躍動感がある。対象を描いているというよりも、対象の「動き」を描いている。
 そういうことも「倫理」ではないもうひとつの「道」につながっているのではないかと感じさせる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年01月01日(水曜日)

2020-01-01 10:48:07 | 考える日記
 和辻哲郎『古寺巡礼』。私は高校時代、「木彫り」にあこがれていた。『古寺巡礼』を読んだのは、木と芸術(仕事)のことを知りたかったからである。しかし、はっきり覚えているのは、和辻が書いた芸術へのさまざまな批評(感想)ではなく、次の部分だ。
 「二」の冒頭に出てくる。短く、帰省したときのことが書かれている。

 昨夜父は言った。お前の今やっていることは道のためにどれだけ役に立つのか、
                      (ワイド版 岩波文庫、26ページ)

 父が言った「道」は、「頽廃した世道人心を救うのにどれだけ貢献できるのか」とつづくから、「倫理」につながる側面を持っていると思う。これに対して、和辻は「この問いには返事ができなかった」と書いている。
 私がつまずいたのは、この「道」ということばの不思議さである。「倫理」だけのことなのか。違うような気がする。「哲学」を含んでいるような気がする。その思いは、和辻の他の作品を読むといっそう強くなる。もちろん、こういうことは高校のときにはっきり感じたことではない。あ、ここが気になるなあ、どうして突然、父のことばが出てくるのか、そこに「道」ということばがあるのか、ということだったと思う。

 私は、立体感覚というものが私にはないということを痛感し、木に関わる仕事を高校時代に断念した。それからことばの世界をさまよい続けているが、迷うたびに『古寺巡礼』の「道」の一節がよみがえってくる。
 和辻は「倫理」について書きつづけているから、何とか「答え」のようなものを書こうとしているのかもしれない。しかし一方で「倫理」の範疇に入らないことについても書きつづけている。それは「芸術」といえばいいのか、広く「哲学」といえばいいのかわからないが、そうした文章のことばも和辻にとっては「道」につながっているのかもしれない。
 私は「道のためにどれだけ役に立つのか」と直接問われたわけではないから、「役立つ」かどうかはあまり気にならない。「倫理」ではなく、「哲学」としての「道」の方が気になる。『古寺巡礼』は「哲学書」というわけではないだろうが、今年は、原点に帰るつもりでこの本から再読することにする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年12月24日(火曜日)

2019-12-24 11:45:08 | 考える日記


 巨大な木がある。冬、真下に立って見上げるとどこが梢なのかわからない。どの枝先が一番空に近いのか。その枝とは逆に地中には根が広がっている。肉眼では見えない。
 巨大な木を見上げるとき、木と私は別個の存在なのだが、別個の存在であると考えるはじめると、どうにも納得ができない。
 別個ではなく「ひとつ」と感じるのだ。
 しかし、すぐにその考えに仕返しされる。
 私は手を天へ向かって伸ばすことはできる。しかし、足はどんなに工夫しても地の中へは広がっていかない。
 「ひとつ」になれるはずがない。
 何が邪魔しているのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年12月12日(木曜日)

2019-12-12 10:09:20 | 考える日記


 ルシアーノ・ゴンサレスの作品は「ことば」である、と書き始めてみる。
 それぞれの部位を、たとえば目、鼻、口(唇)、額、頬、首ということばで指し示す。指し示されたものは固有の形を持った具体的なものである。しかしその具体的な部位は現実ではない。
 ルシアーノの作品は、私が「ことば」と呼ぶものと同じように、現実の目ではない、鼻ではない、口ではないが、その形から私は私の知っている目、鼻、口を思い出し、それを結びつけている。目、鼻、口という「ことば」から、私が現実に存在する目、鼻、口を思い描くように。
 ルシアーノの作品と向き合うとき、思い描く意識、結びつける意識、その「思い描く」「結びつける」という意識のあり方(動き)そのものが問われていることになる。なぜなら、ルシアーノの作品は「具象」的ではあるが、彼の作品と同じ顔(頭)をした人間はいない。「具象」的に見えるが、「抽象」なのだ。「ことば」と同じように、意識を具象に向けて動かす「何か」なのだ。
 「抽象」の力、精神の力、「もの」のなかから「意識」を分節し、さらに統合するという力(エネルギー)と、運動の可能性が問われている。

 目に戻って見る。
 ルシアーノの作品には、目がひとつしかない。しかし、目がひとつしかなくても目である。いまは開かれているが、閉じられても目である。何をみつめようが、あるいはみつめることを拒否しようが目である。
 この「目である」ということが「抽象」の極点である。精神が「目性(目らしさ)」を把握し、「目」と名づける。そして、「目」がその瞬間に、分節され、「目」になる。
 私が、いま「ことば」でしたことを、ルシアーノは彫刻でおこなっている。

 さて、ここからがほんとうに考えなければならないことである。
 私が「目性(目らしさ)」と考えているものは何なのか。私は、それを「ことば」で完全に定義できない。その定義できないものは何なのか、それを知りたいと思うし、それを「知れ」と意識を揺さぶってくるのが、ルシアーノの作品なのだ。
 それだけではない。なぜ私たちはそこにあるものを、目と呼ばなければならないのか。目と呼ぶことで、何をしようとしているのか。それを「知れ」と、厳しく詰問してくる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年12月10日(火曜日)

2019-12-10 23:17:11 | 考える日記


 考えの対象になることを好まない、という書き置きをして、その「ことば」は一冊の本のなかから逃げ出した。
 その「ことば」は、その本のなかには存在しないが、その本のことを考える読者の思索のなかには存在する。あるいは、その「ことば」について考えるひとの思索のなかに存在する。「ことば」の意志に反して、そういうことが起きる。
 「ない」というのは、そういうことだ。
 「ない」になろうとした「ことば」がある。そして、その「ない」ということに反するように、「ある」が存在してしまう。

 可能的なものは、その根底に非存在を持つのか。
 (安部公房『他人の顔』を、このことばから対象化できるか。)
 これは、また別のメモである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年12月09日(月曜日)

2019-12-09 19:54:03 | 考える日記


 精神は見えない。
 見えないものを「絶対」と規定することは危険だ。
 もし精神が間違えても、その間違いを知ることができるひとは少ない。
 精神(ことば)を過信しない方がいい。

 感性も同じではないか。
 見えているのは「感性(感覚)」ではなく、感性がとらえたものである。感性が間違えても、その間違いを指摘できるかどうか、わからない。
 感性によってとらえられたものが「ことば」として表現されないかぎり、それは他者には認識されないからである。

 これは、しかし「ことば」で書かれていること、つまり「精神」の錯乱が噴出しているだけなのではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年12月08日(木曜日)

2019-12-08 16:09:40 | 考える日記
 「それ」は存在するか。
 「それ」を存在させようとする意思(ことば)がある。ことばが動き始める。
 「それ」が存在するとしたら、「それ」はことばを動かす「私」のなかにある。「私」の外にあるのではない。外には「ない」からこそ、「それ」を客観化できないのだが、その「ない」はいつでも主観的には確実に「ある」。
 そして、この「ない」を「ある」に変えようとする力は、あらゆる対象に対して働きかけを試みる。
 このとき「主観」は「主観」のままではいられない。何らかの「客観」として動かなければ、対象に作用することはできない。
 ここにいちばんの問題があるのだが。
 「主観」は、すでにそこに「ある(客観)」を否定し、それを「ない」と断定した上で、それを「私のなかにあるもの」、つまり「私の外にないもの」に変えようとする。主観によって「ある」を変質させてしまう。
 これは「比喩」を語るときに動くことばのあり方に似ている。

 これは、「それ」というタイトルの本を読んだときに勝手に動いたことばなのだが、どうも矛盾したところがある。どこかで「論理」を間違えている。「誤読」したために、つまずいたのだろう。
 それを正すためにはもういちど「それ」を読まないといけないのだが、どうにも見つからない。最初から「ない」本だったのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年12月05日(木曜日)

2019-12-05 23:42:14 | 考える日記
 抽象的なことがらだけではなく、たとえば「水」について書かれたものを読むときにだけ「水」というものがわかる。そして、その「わかった」ことを自分のことばで言おうとすると、あいまいになる。つまり「わかっていない」ということが、わかる。
 ことばは、この「わかる」と「わかっていない」をつなぐ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年11月29日(金曜日)

2019-11-29 23:59:08 | 考える日記
 「ことばがあって、同時に、ことばがさししめすものがあるとき、ことばは知性と感性に引き裂かれている、というのはどういう意味ですか?」と本棚の陰に隠れていた少年が、顔を上げて聞いた。ことばがうつむいた瞬間、目が合うのを待っていたかのようだった。路面電車のパンタグラフが電線にこすれて焦げた音を発するのが聞こえた。ことばは、どこかから剽窃してきたことばなのか、本を読みすぎたために文脈が乱れたために動き出したことばなのか考えたとき、遅れてきた顔をしたことばが、こう言った。「ものには知性で処理する部分と完成で処理する部分があるということです。五冊の本がある。本の形、色は感性でとらえることができる。でもそれを五冊だと判断するのは知性です。」その答えは少年を満足させなかった。軽蔑しながら笑った。「理性が働き続けるとき、そこには形の定まらないものしかない。言い換えると結論が生み出されるまでの間、そこには感性で処理できるものは何もない、ということを知らないんですか」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年11月27日(水曜日)

2019-11-27 11:08:02 | 考える日記
2019年11月27日(水曜日)

 ものの名。木を木と呼ぶとき、木は木である。しかし、木を別の名で呼ぶときがある。比喩である。そこには木ではない何かがある。つまり、「ない」が「ある」。
 たとえば木を、直立する精神である、と定義(比喩)する。精神は大地に深く根を張り、どこまでも迷い続け、不明なのもがあることを自覚する。その自覚が純粋化され樹液になって幹を駆け上り、枝や葉、さらには花となって開き、散ろうとする。そうことばにするとき、何が起きているのか。
 ことばにする前はなかったものが、つまり「ない」が「ある」として動いている。
 逆に言うこともできるにちがいない。「ある」を「ない」にするのが、ことばである。一本の木があり、花を咲かせている。それは散っていくが、それは「もの」ではない。私の知らないところから生まれ、育ってきたもの、形を変えて動き続けるものを、私は「形」と「名」を借りて「ある」ものと考えているだけで、それは「真実(実態)」ではない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年11月25日(月曜日)

2019-11-26 23:49:58 | 考える日記
 「ことば」に本来の意味はない。ほんとうの意味はない。
 ことばには、すでにある意味を否定しようとする、「追加」があるだけだ。「追加する」という動きがあるだけだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年11月25日(月曜日)

2019-11-25 23:38:35 | 考える日記
2019年11月25日(月曜日)

 「ある」と「ない」について書こうとしたが、書けなかった。
 何もない「ある」がある。「無」が「ある」と書いてしまうと、違うのだ。「名づけられたもの」が「ない」。
 何もないは「具象(名)」がないということである。「具象」はそこにはなくて、しかし、「何か」特定できないものがある。そこから「具象(名)」生まれてくる。「具象がある」という状態。「世界」が生まれる。それはたしかに「ある」のだが、それを「ない」と言ってしまうのが、最初に想定された「ある」なのだ。
 もし「実在」するものがあるとすれば、「生まれてくる」という運動(具象を生み出す力)と、具象になった瞬間に「具象はない」と断定する力だけである。
 そのふたつは、ともに「ことば」であって、それ以外のものではない。「ことば」は、そういうことを明らかにするためにある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年11月24日(日曜日)

2019-11-24 19:26:27 | 考える日記
2019年11月24日(日曜日)

 生きるとは自由であること。
 自由とは、自由に語ること。自由に思考すること。生きるとは、思考を存在させること。
 「名詞」としての「思想」ではなく、「動詞」としての「思想」を確立すること。「思想」を「動詞」の形で存在させること、つまり「動かす」こと。

 ふつうに日々つかっていることばでは、いろいろなことを明確にするのはむずかしい。「定義」が揺れる。流動的で、あいまいに見える。何も「知らない」ように見える。
 しかし、「何も知らない」まま、ひとは生きられないだろう。「知っている」ことを信じて生きているはずだ。
 だれもが「思想」をもって、「思想」を生きている。
 それを「動詞」として書くことはできないか。ことばにできないか。


 逆のことを考える。

 明確に定義されたことばがある。たとえば外国の、現代思想のことば。そういうことばはすでに固定された意味をもっている。固定されているので「事実」のように見える。そういうことばをつかうと、何かを「知っている」とみなされる。

 「知っている」(知識)は重要だが、知識よりも「考える」ということの方が重要だろう。
 間違っていてもいいから、考える。
 「知っている」ことではなく、考えたことを書く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする