木がある。これを「私が、木を見る」「木が、私に見える」と言い直すことができる。鳥が鳴いている。「私が、鳥の声を聴く」「鳥の声が、私に聴こえる」と言い直すことができる。
いつも「私」が動いている。「肉体」が動いている。
だからこれを「私の肉体が私の肉体ではないものと出会っている(向き合っている)」と言い直すことができる。出会い方、向き合い方が「見る/見える」「聴く/聴こえる」だが、これをさらに「ある」と言い直すことができるのではないか。
木が「ある」、鳥の声が「ある」。そのようにして、世界が「ある」。
私がいるとき、私の「肉体」が「ある」とき、かならず何かが「ある」。その「何か」と向き合うとき、世界が「ある」。世界が「はじまる」。
私が生まれてきたとき、すでに「世界」は「あった」。
でも、それは世界が「ある」というのとは違う。「はじまる」というのとは違う。
私の「肉体」が何かと向き合い、「肉体」が動く。そのとき、世界が「ある」。「肉体」が動いていくところまでが「世界」。動いて行って「ある」を確かめるだけだ。世界が「どのようして」あるかを。
いつも「私」が動いている。「肉体」が動いている。
だからこれを「私の肉体が私の肉体ではないものと出会っている(向き合っている)」と言い直すことができる。出会い方、向き合い方が「見る/見える」「聴く/聴こえる」だが、これをさらに「ある」と言い直すことができるのではないか。
木が「ある」、鳥の声が「ある」。そのようにして、世界が「ある」。
私がいるとき、私の「肉体」が「ある」とき、かならず何かが「ある」。その「何か」と向き合うとき、世界が「ある」。世界が「はじまる」。
私が生まれてきたとき、すでに「世界」は「あった」。
でも、それは世界が「ある」というのとは違う。「はじまる」というのとは違う。
私の「肉体」が何かと向き合い、「肉体」が動く。そのとき、世界が「ある」。「肉体」が動いていくところまでが「世界」。動いて行って「ある」を確かめるだけだ。世界が「どのようして」あるかを。