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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江口節『水差しの水』

2022-09-24 09:27:43 | 詩集

江口節『水差しの水』(編集工房ノア、2022年09月01日発行)

 江口節『水差しの水』は、表題作の一連目がとても美しい。

展示室の
壁の裏側に回ると そこも
器の絵だった
どの部屋にも 水差し 壺 花瓶 缶 ボウル
並べ方が変わり
光と影が変わり
一日であって一年であって一生のようでもあった
何も変わらないが
何かが変わるには十分な時間

 「一日であって一年であって一生のようでもあった」を「何も変わらないが/何かが変わるには十分な時間」と言い直す。一瞬は永遠であり、永遠は一瞬である。時間は残酷であり、同時に慈悲深い。唐突に、「慈悲」ということばが呼び覚まされる。そういうことばを呼び覚ます力が、ここにはある。
 「水差し 壺 花瓶 缶 ボウル」と、無造作に並べられたことばがいい。どんな「水差し」かは言わない。どんなふうに描写しても、それは「水差し」であり、そこにあるのは「一日/一年/一生」変わらず、同時に変わり続けるものだ。
 「並べ方が変わり/光と影が変わ」るのは、別な言い方をすれば、それを見る位置が変わるということだろう。同じ並べ方、同じ光と影であっても、それを見る人の位置が変われば、存在のあり方が違ったものに見える。しかし、それはほんとうに違ったものに見えるのか。違っていても、同じものに見える。それが残酷であり、同時に慈悲というものだろう。
 見るのではない、見られるのだ。
 私は六月にスペインの友人のアトリエを訪ねて回ったが、そのとき思ったことを、ふと思い出した。私は作品を見に行った。けれど、そこで体験したことは「見る」ではなく、「見られる」であった。作品が、私を見る。それは見る以上に、驚愕であり、恐怖であり、同時に歓喜だった。一緒に生きている、その「一緒」を感じる瞬間でもあるからだ。

一日の初め 花瓶に水差しで水を足す
死の説明はしない
日々の器があり
暮らしの振る舞いがあり

 江口が見つめているのは「死」であり、それは「説明」ができない。絶対的だからである。絶対に変わらないものが「死」である。「生(暮らし)」は変わる。その違いの中で、整えられていくのは「生」であって、「死」ではない。このことを江口は深く認識している。
 「普通電車」は、

読みかけの本を持って
(本のないときも やはり)
帰りは 普通電車がいい

 早く帰って来たくはないのである。そして、その「早く帰りたくはない」という気持ちのなかで、こんなことに気がつく。

上りで見て 下りで見て
景色は 一つになっていく

 「行き/帰り」ではなく「上り/下り」と言い直されている。抽象をくぐり抜けることで、世界の真実がより明確になる。「景色は 一つになっていく」。この「なる」という動詞がすごい。「景色(世界)」はもともと「ひとつ」である。しかし、気づくためには「行き/帰り」ではなく「上り/下り」という「抽象化」が必要なのだ。「抽象化」が「永遠」を生み出す。

「一日」も旅に似ている
覚えているけど知らない土地
見ているのに見えない時

とばしたページを もう一度めくる

どの駅にも 電車は停まる
どの道も 歩くにはよさそうだ
まだ歩いていなかった あの曲がり角

同じページを また読んでいる

 「まだ歩いていなかった あの曲がり角」の「あの」のせつなさ。なぜ、江口は「あの」ということばをつかったのか。知っているからだ。それも、単に「見て」知っているだけではない。「あの」というとき、「あの」ということばで「曲がり角」を共有するひとがいる。
 それは江口にとっては「まだ歩いていない」場所であり、覚えている(ことばで知っている)けれど、彼女自身の足では「知らない」曲がり角だろう。だからこそ「歩くにはよさそう」という推定が動く。
 そうであるのに、「あの」ということばをつかわずにはいられない。
 「あの」ということばを通して、「曲がり角」は絶対的存在、一つしか存在しない曲がり角なる。「景色は 一つになっていく」の「一つ」ように。
 「同じページを また読んでいる」の「同じ」には、「水差しの水」に出てきた「一日であって一年であって一生のようでもあった」と同じこころが動いている。だれかに会いに行って、そこから再び帰るしかない。その往復。「一日であって一年であって一生のようでもあ」る。江口は、生きている限り、それを繰り返すだろう。
 「絶対性」の前で、人間ができるのは「繰り返し」である。「繰り返し」だけが「絶対性」の前では「真実=正直」なのだ。
 ことばが、どこまでもどこまでも、深くなっていく詩集だ。

 

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草間小鳥子『源流のある町』

2022-09-18 23:16:26 | 詩集

草間小鳥子『源流のある町』(七月堂、2022年10月08日発行)

 草間小鳥子『源流のある町』を読みながら、思う。このひとには書きたいことがたくさんあるんだなあ、と。しかし、その長々とつづく行に、私が読みたいなあ、と思うことは書かれていない。長い詩だなあ、と思うだけなのである。なぜ、こんなに長く書くのだろうか。それは、きっと「意味」をこめたいからだ、と思う。
 でも、私は、何を読んでもそうなのだが、意味には関心が持てない。「意味」になるまえの、わけのわからなさに耐えているのに立ち会うのが好きだ。
 たとえば、詩集のタイトルになっている「源流のある町」。

実生の葱に
ようこそ、と声をかける子ども
姉の子どもは数人いるが
実在するのはこのひとり
勢いよく鉢に水をやる
流されてゆく芽もあるところは
人とおなじだ
「どうして」とだれも言わないだけ
土が水を吸うささめき
水が土を通るさざめき
わたしたちにも川は流れているのに
末端の支流まで水は迸るのに
聞こえないね、なにも
手を合わせても 頬を寄せても
耳をふさぐと川の音がする

 いいなあ、と思う。つづきが読みたいなあ、と思う。でも、「つづきが読みたい」というのは、つづきを読むことは違う。
 この感想が草間に届くかどうかわからないが、私は、そう書いておきたい。「実生」や「実在」という硬いことばが、ここではなんともいえず効果的だ。
 「廃村」のはじまりも私は好きだ。

もうずっと長いこと
しずかな手紙をしたためている
幸せな終息もあるのだと
ちいさく暮らしを畳みながら
起点も終点も曖昧にかさなる通奏低音のなかで
わたしたちの村は
たんなるひとつの小節だった

 長く書くのは、「これではわからない」ということなのだろうが、わからなくてもいなあ、と私は思う。
 この一連目のあとに、

これは夕凪
あれは反射光

 この二行だけを置いてみたら、どうだろうか。

 

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加藤治郎『海辺のローラーコースター』

2022-09-14 09:31:04 | 詩集

加藤治郎『海辺のローラーコースター』(書肆侃侃房、2022年08月20日発行)

 

 

 加藤治郎『海辺のローラーコースター』。まだ、読み始めたばかりだが。

息、きらし、息をきらして、霧の中から駆けてきたのは、紺のズックだ

 書きたかったのは、「き」の音の響きか。それとも「紺(のズック)」か。私は読みながら、迷う。私が読みたいのは、はっきりしている。「き」の音楽だ。「霧」と「紺」は、私の視覚では、どうもなじまない。好きなのは「黄色」だ。テオ・アンゲロプロスの黄色い雨合羽。何の映画だっただろう。霧の中を黄色い雨合羽を着て、自転車に乗った消防隊員(?)が走っていく。とても、美しい。だから、「黄色いズック」の方が、もっといいと思う。「紺のズック」だと霧の底へ向かって駆けていく(消えていく)感じがする。

消しゴムでうすい文字消す手帳には予定未満のレモンいくつか

 「予定未満」と「レモン」の脚韻が美しい。加藤は、短歌で音を楽しんでいるのだと思う。

目の前にあなたがいればそのうちって言葉はきっとひかりのなかにある

 「うちって」「きっと」。「うちって」という口語がとても効果的だ。

装飾がリアリズムを凌駕してクリムト展はゆうばえのなか

 「リアリズム」「凌駕」「クリムト」の「り」の動き。でも、「凌駕して」は、かなり作為的な気がする。作為であってもかまわないのかもしれないが、意味が強すぎて音楽になるのをいやがっているように、私には聞こえる。

キラ・キラ・キラではなくてキラ・キラキラなんです。きみの未来は

 「未来」と書いて「みき」と読ませる名前があったなあ、とふと思い出した。「未来(みらい)」では意味が強すぎるような気がしてしまう。
 で、その「意味」。強すぎる、と書いたが。
 なんというか、「未成年/思春期」の「意味」というか、初めてであった「意味」のような感じがして、私は、かなりとまどう。
 加藤治郎のことを知らなかったら、私は、クリムト展以外は高校生の短歌だと思うだろうなあ。高校生は「凌駕して」なんて、言わないだろうなあ、と「偏見」を持って判断するのだが。

消しゴムの角がちょっぴり黒ずんで、あしたの席を予約している

 これ、女子高校生が、隣の席の、欠席している机を見ながらつくった短歌かなあ、と思ってしまうのだ。あしたは、必ずそこに座ってね、と「予約」をいれておく、という感じ。「予約している」よりも「予約しておく」の方が、女子高校生の欲望に近いかなあ、などということも思ったりする。
 私は短歌を主体に読んでいるわけではないから、テキトウに、なんでもかんでも、思ったままに書くのだ。

はじまっているのが分かるしばらくは林檎のあわいりんかくである

 生理がはじまった? それがなんとなくわかる。女子高校生か。「林檎」と「りんかく」の響きあいがいいなあ。「わかる」と「りんかく」の「か」が呼び掛け合うのは、あいだにある「あわい」の「意味」の影響かなあ。「ぼんやり(あわい感じで)わかる」と、私はつなげてしまう。

雪になるかも窓がとっても冷たくてきれいなレモンもっとください

 これも女子高校生を主人公にしたい。「とっても」「もっと」。この響き。でも、ほから、雪が近づく窓の灰色、黄色いレモンが似合うなあ。やっぱり、灰色には黄色。ここは林檎やイチゴではなく、レモンに限ると思う。

頭の上に飛行機雲がふくらんでへんてこと言うりんと続けて

 これいいなあ。「へんてこ」と聞いた瞬間に「へんてこりん」と思い出す。そのスピードで「りんと続けて」がやってくる。「ふくらんで」という間延びした感じとの対比がとても効いている。

冬のプールに水みちている小学校にひとり立ち居りここは記憶か

 うーん、これも高校生の感覚かなあ。でも、「女子」という限定は消える。

もうちょっと空調なんとかならないか新生児室肉体あまた

原子力潜水艦乗組員が殺し合って北極海の底

 64ページの、この対比、好きだなあ。原子力潜水艦の歌がなくても「新生児室」の歌はいいなあ、と思う。「肉体」のなかに、早くも死の匂いがする。それが、すごい。赤ちゃんを産んだ女性には申し訳ないが。

 

 

 

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龍秀美『とうさんがアルツハイマーになった』

2022-09-08 21:46:51 | 詩集

龍秀美『とうさんがアルツハイマーになった』(花乱社、2022年06月20日発行)

 龍秀美『とうさんがアルツハイマーになった』は詩画集。絵も龍秀美が描いている。タイトルにある通り、父親がアルツハイマーになった。その後の生活を書いている。絵がやわらかくて、一緒に生きることが楽しいものだと教えてくれる。もちろん苦労もするのだろうけれど、生きているのはおもしろいと教えてくれる。
 「夫婦」という作品。

腰が痛いという父に
母がサポーターを巻いてやっている
ひざまずいてていねいに巻いている
父はこどものように両手を広げている
母が父を見上げて言った
「アタマの上で口笛吹かんと!」
                       (注・本文の最後の感嘆符は二つ)

 なんでもないが、そのなんでもないところが、詩集の始まりとして楽しい。「アタマの上で口笛吹かんと!」の最後の「と」は博多弁。「吹いてはいけないと(言っただろう)」の「と」が残ったものかどうかわからないが、そこまで論理的ではないかもしれない。
 「私のこと好いとうと?」は「私のことを愛しているか」の意味だが「私のことを好きと(言ってくれる/言って)」なのかどうかは、わからない。
 おもしろいのは、「ひざまずいてていねいに巻いている」の「ていねい」と「吹かんと(言っただろう)」の対比。一方でやさしく接し、他方で叱る。ちょっと、相反する。しかし、「吹かんと!」は単純に叱っているのではなく、注意しているのだろう。
 この詩でいいのは、もうひとつ。
 父の描写。「父はこどものように両手を広げている」しか書いていない。しかし、「頭の上で口笛吹かんと!」で父のしていることが、突然わかること。父は両手を広げ、何もすることがないので、口笛を吹いているのだ。その口笛を吹いている「描写」を母親の、実際のことばの中に吸収して表現していること。
 これで、詩のことばの動きが、一気に早くなった。
 龍にとっては、父は「こどものように」両手を広げている。しかし母親にとっては、父は(夫は)「こどものように」口笛を吹いている。「こどものように」ということばがひきつれてくる描写が違う。母は父を「こどものように」叱っている。「こどもを叱るように」叱っている。だかち、この「叱る」は「注意する」なのだ。
 こんなことをくどくど書いているのは、私がアルツハイマーの手前だからか。

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「非公開」から「公開」にもどりました。

2022-09-07 08:19:15 | 詩集

https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/f9c7b6e72d0a5602c0c44db818207497

ほんとうの人間の写真、と勘違いされて、「非公開」になっていたブログだが、やっと「彫刻」と理解されて「公開」状態にもどった。
ベルモントの作品は、ほんとうにリアル。
細部のていねいさに、思わず「これは、どうやってつくる?」と聞かずにはいられなくなる。

見逃した方、URLをクリックして見て下さい。

この作品を含めた旅行記「Tu no sabes nada」は以下のURLで販売中です。
ふんだんな写真と日本語、スペイン語(たぶん、間違いだらけ)の併記。

<a href="https://www.seichoku.com/item/DS2003713">https://www.seichoku.com/item/DS2003713</a>

少し(かなり?)高いけれど、日本ではまだ一部の人にしか知られていないアーチストたち。けれども、海外では高い評価を受けている。(知らずに会いに行ったのだけれど。)
紹介してあるアーティストの作品の購入を希望する方はお知らせください。取り次ぎをします。可能かどうかわからないけれど、値段の割引交渉もお手伝いします。

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松本秀文『詩後(2014-2022)』

2022-08-28 10:29:42 | 詩集

松本秀文『詩後(2014-2022)』(思潮社、2022年07月31日)

 松本秀文『詩後(2014-2022)』を読みながら、どの詩を引用しようか、考えた。どれを引用しても同じことを書きそうだ。だから、いったん閉じて、テキトウに開く。
 「ゲンエイの人 あるいはセカイ」。あ、いやなものを引いてしまった、というババヌキの感じがするが、まあ、これがきょうの私の仕事(?)だ。

とめどなく描線がブレつづける街で
青空の向こうに
なぜ(ひかりの分布図
星のようなものがあるのかを
死んでいるうさぎと考える(うそ
詩の(半減期
孤独(?)はいつもセカイとつながっていて

 タイトルの「ゲンエイ」は「渡辺玄英」の「玄英」である。ほんとうに「ゲンエイ」と読むのかどうかわからないが、わからないからこそそれですませるのだろう。私もよく知らないので「ゲンエイ」と読んでいる。別に間違えたってかまわない。私はテキトウな人間である。
 で、間違えてもかまわないといいながら、私は「ゲンエイ」にこだわる。なぜか。そう読む方が、私にとってはわかりやすい。私のことばのリズムにあう。そして、そのリズム、音は「幻影」と結びつきながら、それを否定する。このときのチグハグさ、あるいはデタラメさ、あるいはテキトウさ加減が、渡辺玄英の詩に似ているなあ、と感じるからである。渡辺玄英は「チグハグ、デタラメ、テキトウ」を書いているわけではないと言うかもしれないが。
 で。
 この「ゲンエイの人 あるいはセカイ」は、そういう「ゲンエイ」の音を引き継いでいるところが、まあ、楽しい。
 松本の「音」は、すべてをテキトウにしてしまう。「音」さえ、リズムに乗って響いていけば、それが詩。「意味」は、読者がかってに考える。だれの作品を読んだとしても、そこから理解できるのは自分の知っている「意味」だけである。自分の知らない「意味」を他人のことばに接続することはできない。「断絶(不可解)」を含めて、それは「意味接続」のひとつであり、そこからことばが逃げ出すことは、できない、と私は思う。たとえ、そこから逃げ出すことを試みていることばであったとしても。
 ということは、「金閣詩」を読んで、思った。

今村昌平監督作品『楢山節考』で左とん平は犬とセックスをする
そして戦争
人間も死んで
犬も死んだ
「戦争とはわれわれ少年にとって、一個の夢のような実質なき慌しい体験であ
り、人生の意味から遮断された隔離病室のようなものであった」
あなたの胸の中に金閣がある

 「あなた」って、だれ? 左とん平? 今村昌平? それとも三島由紀夫? まさか、私がこの詩を読むことを想定して松本がこの詩を書いたとは思わないが、その「まさか」が「まさかのまさか」で、私のことだったとしてもかまわない。
 「あなた」と言われれば、「私」かもしれない、と私は思ってしまう。
 それから「金閣詩」からは「金閣寺」(三島由紀夫)よりも先に「金隠し」を連想するのだが、それがそのまま一行目の「セックス」につながっていく。それも「犬とセックス」というような、まあ、最低なのか、最高なのか、わけのわからないセックスである。どんなことであれ、それをしているひとにとってはそれしかないのだから、最高と感じて悪いわけがない。
 それにしても、

今村昌平監督作品『楢山節考』

 か。
 「意味」はわかる。何を指しているかは、わかる、という意味であるが。そして、同時に、なんとまあ、律儀なと私は感じる。
 律儀はテキトウとは反対の概念だと私は思うが、松本はテキトウを律儀につづけるひとであり、その音/リズムを支えるは、実はテキトウではなくて、律儀なのだ。これは、先に引用(?)した渡辺玄英にも通じる。
 詩を書く(ことばを書く)ときは、どんなテキトウな詩であっても(テキトウに見える詩であっても)、どこかで律儀でなくてはならない。
 「腐眠」は、こんな感じ。

眠り続けているだけなの
それは儀式なのだろうか
破れた体の底で呼吸して
ただ
生きている私を表現して
橋の上で疲れて死んだら
落下する夢の捕虜となる
使者

 十一文字三行のあと二字というスタイルで詩がつづいていく。タイトルを考えると二字のあと十一字三行、二字一行、十一字三行なのだろうが。つまり、ここでは音を「視覚」でも制御し、リズム化している。丁寧に、最後まで。律儀だね。
 この詩集全体では、いろいろな「文学作品」が引用されている。アレンジされている。テキトウにつかわれている。でも、きっと、それはテキトウではないな。きちんと原典に当たっているだろう。変更があるにしても、それは「記憶違い」というのではなく、意図的変更だろう。そういうことを律儀というのだが。
 で、その律儀さは松本にとって長所なのか、短所なのか。
 私は、もっと「破れた」方がいいと思う。「律儀」と感じるのは、それがもう「定型」になっている、ということでもあるのだから。まあ、どんなものでも「定型」になってしまうものだけれど。それでも「破れ」の解放感がほしいと思ってしまう。読者というのは(あるいは、私だけ?)わがままだからね。

 

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咲原実玲『さくら準備中』

2022-08-24 17:15:45 | 詩集

咲原実玲『さくら準備中』(kotori、2022年06月30日発行)

 咲原実玲『さくら準備中』の巻頭の「春の午後」はとても丁寧な詩である。全行を引用する。

一枚の古い写真がある
幼稚園の制服を着たわたしが
ついさっきまで
風船を抱えていた手を胸のあたりにおいて
空を見上げている
うっすら笑っているけれど
少しさみしそう

この写真を見ると
今でもその時の気持ちを思い出せる
両手で抱えていた風船をそっと離した
それは すばらしいことに思えた
風船はどこかに行く
わたしより先に行く
「どこか」が憧れになった瞬間

憧れは いつだってわたしと空との間にある
見失うかもしれない
現実に叶ったら 憧れではなくなる
どのみち それは失われるのだ
なぜ憧れを抱く というのだろう
私から離れた存在だから気がつくのに

 一連目の「風船を抱えていた手を胸のあたりにおいて」の一行、特に「手を胸のあたりにおいて」がいい。それは直前の「抱えていた」を静かに思い出させる。これが二連目で「両手で抱えていた風船をそっと離した」と言い直されている。
 二連目は、全体として、一連目をもう一度言い直してる。「起承転結」という言い方を借りるならば、一連目が「起」、二連目が「承」。
 三連構成なので「起承転結」をあてはめるのは強引な感じがするかもしれないが、「転」は一連目と二連目の最後の二行(あるいは、三行)に組み込まれる形で準備されている。
 「憧れ」ということばが、「起承転結」の「転」である。
 そして、「結」の三連目で、この「憧れ」が説明される。すこし理屈っぽいかもしれない。つまり、詩としての飛躍が少ないかもしれない。だが、これでいいと思う。詩へ向かって動き出している感じに無理がない。
 何よりもいいのは、この三連目で、一連、二連目では「抱えていた」(抱える)という動詞が「抱く」という動詞になって、強く響くところである。人によって印象が違うかもしれないが、私は「抱える」よりも「抱く」の方が力がいると思う。力がこもっている感じがする。
 「抱える」という動詞が「憧れ」ということばを通り抜けることで「抱く」という動詞に変わる。その変化は、小さいようで、大きい。「風船」と「憧れ」以上の違いを持っている。その「違い」を見つめて、ことばが静かに動いている。確かな形で動いている。

 

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費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


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また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

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藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』

2022-08-21 11:46:56 | 詩集

藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』(思潮社、2022年07月31日発行)

 藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』を読んで「残す」という動詞が印象に残った。私が気づいたのは「汚職」という詩を読んだときだ。読み直して、点検したわけではないので、不確かだが、それは他の詩にも出てくるかもしれない。ほかのことばで「同じ意味」をもっていることばが動いているかもしれない。詩集を貫く「ことば」として響いてくる。
 「汚職」では、「のこす」という表記で、こうつかわれている。

「汚職で、逮捕されるまえに」と、
父は言いのこし、『詩集』を一冊、
家族の元に書き置いて、

きょう、帰らない旅に出ると言って、
それきり、帰って来ません。

新聞にはだれもが悪く言い立てるけれども、
私には汚職が、父ののこしたしごとなら、
非難をしにくいのです。

 一連目にすでに「言いのこす」という形でつかわれているのだが、私は、それには気がつかなかった。(だからこそ、他の詩でも「残す」、あるいは、その意味のことばがつかわれているかもしれないと想像する。「書き置いて」の「置く」も「のこす」に通じるから。だが、確認はしない。そういうことをしていると、印象が違ってきてしまうから。)
 私が三連目で「のこす」という動詞に気づいたのは、それが「仕事」といっしょにつかわれ、さらに「非難をしにくい」と「非難」ということばといっしょにつかわれているからだ。
 「のこす」は「のこる」である。そして、「のこったもの」は「受け継がれる(残されたものが、受け継ぐ)」。もし非難の対象になれば、受け継がれることはないかもしれない。
 もちろん、非難しながら、受け継ぐということもある。
 だから、私が感じたのは、「のこす」のなかにある、何かしらの「接続/継承/つながり」を含んだ動きである。それは「のこす」がなければ、存在しない。「のこす」という「意思」を感じないときもあるかもしれないが、きっとこの世界にあるものは、だれかが「のこした」ものなのである。そうであるなら、それは、ときとして単に「受け継ぐ」のではなく、「見つけ出し、受け継ぐ、生きなおす」ということになるかもしれない。
 詩は、こうつづいていく。

詩を書くことが、汚れたしごとなら、
汚れた言葉を『詩集』にまとめることが、
この世から見捨てられる人の、
さいごの証しなら、

 「のこす」のは「さいごの証し」。それがないなら、人は完全に「見捨てられる。」消えるのか。ということを考えると、かなりめんどうになる。
 私は「のこす」が「まとめる」と言い直されていることに、なんとなく、こころを動かされた。「のこす」ためには、なんらかの作業が必要なのだ。あるものは、単純に「のこる」わけではない。「のこす」と「のこる」は違うのだ。

怒りで汚れたこころを、
ぼくだって、うたうだろうと思います。

汚い言葉で、書いたらまとめたくなる。
それが汚職なら、
あなたのこころに従いました。

 いいなあ。「のこす」を引き継ぐことを「こころに従う」と言い直している。「従う」がいい。「継承」は「受け継ぐ」のではなく、「従う」のだ。
 では、そのときの「こころ」とは?
 「文法の夢」という詩を、私は思い出す。最後の方に、こんな二行がある。

それでも係り結びは、結ぶことよりも大切な、
思いを託して文末を解き放つのです。

 「思い」が「こころ」だろう。「終わり」はない、ただ「係り結び」という「構造」がある。託された「思い」がある。書いた人(語った人)は「結末」を書かない、言わない。読んだ人、聞いた人が、その「解き放たれたまま」(見完結のままの)ことば受け止め、その運動に「従う」のである。
 「係り結び」は「結末」は書かれていないが、たいてい、「予測」されている。その「予測」に従うのである。
 えっ、でも、それで、どうなる?
 「予測」が正しいかどうかは、だれが判断する?
 そんなものは、だれも判断しない。
「物語りするバクーニン」の末尾に、こう書いてある。

そのあとはどうなるかだって?
古典なんか、なかったのです。
現代語だけがあったのです。

 「現代」だけがある、ということだ。「受け止め、従う」という運動があるだけ。そして、その「受け止め方、従い方」は、それぞれ自由だから、可能性としてどこまでも広がっていく。そういう運動があるだけだ。
 だから「汚い」を受け止め、従ったとしても、それは「美しい」にかわってしまうかもしれない。もっと汚くなるかどうかは、従ってみないと、わからない。
 で、思うのだ。
 「物語」ということばにふれて、私は唐突に思うのだ。
 「のこす」のは「物語(構造)」だろうか、「うた(歌/詩/音楽)」だろうか。「のこる」のは「物語」だろうか、「うた」だろうか。
 物語は詩の容器、散文は詩の容器だと思う。
 詩は物語の構造を破壊し、破片として、残る。それを集め、まとめるとき、また新しい物語が生まれる。あるいは、生まれてしまい、それに抵抗するようにして、内部から詩が爆発し、物語を壊してしまう。
 「係り結び」は完結しない。永遠に運動し続ける。でも、それは「物語」? それとも「詩」? どっちでもない。「係り結び」という運動なのだ。あえていえば「文法」。「法」とは共有された「生き方」だ。「のこす」のは「係り結び」という生き方、「のこる」のも「係り結び」という生き方。「法」を生きる。それが、読んで、書く、という行為ということになるのだと思う。

 

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大橋政人『反マトリョーシカ宣言』

2022-08-20 16:34:40 | 詩集

大橋政人『反マトリョーシカ宣言』(思潮社、2022年09月01日発行)

 大橋政人『反マトリョーシカ宣言』の巻頭の詩、「肉の付いた字」。

肉水
肉草

肉雨
肉花

肉雪
肉火

肉土
肉歩

肉体
肉歩

 「肉体」は、わかる。ほかのことばは知らない。「肉歩」が繰り返されている。自分の肉体で歩いて書いた詩、ということか。
 次は「花力」。


と言ったら
やっぱ
草力でしょ
花は
花力


と言ったら
やっぱ
雨力でしょ
雪は
雪力


と言ったら
やっぱ
雲力でしょ
空は
空力

 そうすると、「肉」は「肉力」か。
 まあ、ただ、そう思っただけ。
 そして、「反マトリョーシカ宣言」と大橋は言うのだけれど、この二つの詩を読むと、どうしたって私は「マトリョーシカ」を思い出してしまう。人形の中に、同じ人形が入っている。同じように、同じことばの構造の中に、同じことばの構造が入っている。
 こういう感想は、意地悪だろうか。
 しかし、人間は、たぶん、正直な人間は、何を書いても「マトリョーシカ」になってしまうのだと思う。
 だから「反」なんてふりかざさずに、ただ、そのままでいればいいと思う。
 詩集の中で、私がいちばん気に入ったのは「空も悪い」。

空が大きいから
私は小さい

空が広がっているので
私はすぼまっている

夜には
星が光るが
あんなにもいっぱい
星が必要だったのか

朝には
太陽が出てくるが
太陽の考えていることが
太陽の真意が
太陽の本音が
いくつになってもわからない

空が大きいから
私は小さい

私も悪いが
空も悪い

 いいなあ。「空が大きいから/私は小さい」と「空が広がっているので/私はすぼまっている」は「マトリョーシカ」の関係。その一連目の「空が大きいから/私は小さい」がもう一度登場して「マトリョーシカ」性が強調される。これは、「マトリョーシカ」を開いていったところ? それとも閉じ込めていったところ? それは、区別したってはじまらない。同じこと。
 で。
 転調する。

私も悪いが
空も悪い

 これが

空も悪いが
私も悪い

 だったら、全然、おもしろくない。「空/私」という、もうひとつの「マトリョーシカ」がつづくだけ。開いていくのなら開くだけ、閉じ込めていくのなら閉じ込めるだけ。でも、逆転する。「マトリョーシカ」は、それだけでは「マトリョーシカ」ではない。それを、開くか、閉じるかする人間(私)がいるから「マトリョーシカ」なのだ。
 つまり、「主役/主語」はあくまで「私」。
 最初の詩にもどれば「肉体」は「歩く」。でも「歩く」「肉体」にとって、「主語/主役」は「肉体」というよりも、やはり「私」なのだ。
 「花力」も、やはり「私」が生きている。「私」ということばは書かれていないが、繰り返される「と言ったら」という一行に私は注目する。「私」が言うのである。「私」が「言ったら」その「言った」ことばに中から「マトリョーシカ」があらわれる。「花」と言えば、「花力」という「マトリョーシカ」が。それは「花」より小さい? つまり「花の内部」にある? それとも「花」を突き破り、「花」を包み込む「大きさ」をもっている? つまり「花」より「花力」は大きい?
 さて。
 「空」と「私」は?

空が大きいから
私は小さい

 ほんとうかな? 
 「私」ではなく「私力」だった、どう?
 そう考えると、

私も悪いが
空も悪い

 がおもしろくならない? 「悪い」って、とても楽しいことに思える。「悪い」ことを、してみたくならない?
 「マトリョーシカ」ならば、中を、全部出してしまう。あるいは、中に、全部閉じ込めてしまう。
 で、「悪い」のは、どっち?と考えてみる。
 この「考えてみる」がいちばん「悪い」ことだね。だから、楽しい。ほら、子どもって、「してはいけません」と言われると、絶対に、それをしたくなるでしょ?
 「反マトリョーシカ宣言」と言われると、私なんかは、賛成、というかわりに、反対と叫んで、大橋のことばを「逆撫で」してみたくなるのである。
 そういう詩集。

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木村孝夫『十年鍋』

2022-08-18 22:33:49 | 詩集

木村孝夫『十年鍋』(モノクローム・プロジェクト、2022年03月11日発行)

 木村孝夫『十年鍋』は東日本大震災の10年後を描いている。

もう十年ですか?
と 問う声に
まだ十年ですと答える

 ということばが、「海の方へ」の最後に書かれている。この詩集の全てを語っている。だが、紹介するのは、別の詩。「骨の重さ」。

死体が海底で
骨になる
身につけているものを脱ぎ捨てて
そこにある無常が
骨を磨き続けている
もう魂は
天に帰って行ったのに

諦めない
帰るまでは、骨の一片でも
衣類の切れ端でも
あの日のあの時間は
一生悔いる時だ
この両手にしっかりと抱いて
あげたかった

生と死の線引きに
大混乱した日
悲鳴の先が死の領域だとすれば
呼ぶ声は
その近くまで届いた筈なのだが
生へと引き戻す
力にはなれなかった

海岸線を歩きながら考える
残っている悔いは
引きずられていくあの瞬間だ
津波の丸い背が伸びて
水平線へと戻っていった時
助けを呼ぶ
手の姿が何本も見えた

その場所を足で掘ると
多くの声が隠されている
これが大きな錯覚だとしても
その時の時間は
そこに固定されたまま
頑なに動こうとはしない

写真に語りかけ
一言を添えての思いの水を交換する
嗚咽する
月命日
この両の手は
まだ骨の重さを知らないのだ

 終わりから二連目の6行を私は何度も読んだ。
 「その時の時間は」とは何か。
 木村は「その時」を「時間」と言い直している。「その時」は「一瞬」というか、短い。しかし、それは「その時」なのに「一瞬」ではなく、とても長い。「その時」は木村にとっては「果(終わり)」がないのだ。
 この「時間」をめぐる思いは、さらに複雑にゆれる。
 「固定されたまま」。この受動態は何を意味するのだろうか。「固定した」のは誰なのか。何なのか。
 「頑なに動こうとはしない」とあるが、「時間」は自分自身の「意思」で動くものなのか。
 ここでは「時間」は物理的な存在ではないし、客観的な存在でもない。木村自身である。「固定された」のではなく「固定している」のだ。「動こうとはしない」のではなく、「動かされないぞ」と誓っているのだ。
 「頑なに」ということばが、とても美しい。美しいと呼んでいいのかどうか、よくわからないが、美しいということばがふいに出てきた。
 「錯覚」ということばがある。つまり、木村の書いていることは、「客観的な事実」ではない、ということかもしれないが、「事実」が「客観的」である必要はない。「主観的」であっていい。「頑なに」主観的に生きる、ということがあっていい。それが「誓う」ということだろう。木村は、この詩で「誓う」ということばをつかっているわけではないが、誓いの強さが響いてくる。

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安藤元雄『恵以子抄』

2022-08-16 21:45:55 | 詩集

安藤元雄『恵以子抄』(書肆山田、2022年08月12日発行)

 安藤元雄『恵以子抄』(「恵」は、正しくは旧字。本文中も)は、妻の死を書いている。死を書いていると書いたが、死は書きようがなく、書こうとすればどうしても生にもどってしまう。その生は、妻の生であり、安藤自身の生である。そこに人間の悲しみがある。
 この不思議な感じ、どうしようもない何か絶対的な不条理が「恵以子抄」に書かれている。
 21ページから22ページにかけての、次の一連。

思うように歩けなくなった恵以子のために
家中に手すりを取りつけた
寝室に居間 廊下と階段 手洗い
洗面所や風呂場 玄関に勝手口
恵以子がいなくなって手すりだけが残った
いまは足腰の衰えた私が
もっぱらそれに頼って暮らしている

 死は「いなくなる」ことである。それ以外のことは、わからない。死んだ人は死について語らないし、死を経験した人もいない。だから「いなくなった」人間を思い出す。たとえば、残された「手すり」を通して、「思うように歩けなくなった恵以子」を。
 そして、この「思うように歩けなくなった」は、恵以子が生きていたときは、一種の想像である。安藤が、恵以子は思うように歩けなくなったと思っている。それがどういうことか、わかるようで、わからない。自分の「肉体」ではないからだ。想像はできるが、想像は「わかる」ではあるけれど、どこかもどかしいものがある。
 それがいま、「足腰の衰えた」安藤が、追体験している。「思うように歩けなくなった」安藤が、「思うように歩けなくなった恵以子」になって、それを再確認している。繰り返すとき、事実は真実になる。このとき、真実とは変更できない、という意味である。事実は繰り返しによって真実になる。
 この真実から、かけがえのないものが現れてくる。

もっぱらそれに頼って暮らしている

 「頼る」という動詞。そこに「かけがえのない真実=正直」が、しっかりと現れてくる。安藤が頼っているのは「手すり」という「もの」ではない。「手すり」をつくったひとだ。それは、安藤の場合、安藤自身ということになるかもしれない。しかし、恵以子にとってはどうか。やりは安藤がつくってくれたのだが、その安藤は安藤という固有名詞であり、また「支えてくれるひと」という普遍(愛という真実)につながる人間である。恵以子は、「手すり」に頼ることで安藤に頼った。そのことを追体験するとき、安藤の中で何かが交錯する。いま残された「手すり」に頼ることは、恵以子に頼ることである。生きていた恵以子に頼って、安藤は「手すり」に触れるのだ。
 そして、このとき「頼る」とは、「思う」ことであり、「思い出す」ことである。その「思う」が「思うように歩けなくなった」ということばのなかにある。「思うように歩けなくなった」の「思う」は「自分の思うように」である。そして、そのとき「他人の(愛しているひとの)思い=思う力」に「頼る」ということが生まれる。恵以子が「手すり」をつけてくれと頼んだわけではないかもしれない。けれども安藤は、「手すり」をつけた。そのとき、安藤は「頼られるひと」になった。これが、生きているということだろう。
 そして、いま、安藤は「手すり」に頼っているのだが、それは「手すり」という形で残っている恵以子に「頼って」生きるということになるだろう。もちろん、そこに恵以子の「意思」を確認することは、客観的にはできない。しかし、主観は(安藤の主観)は、「手すり」になって安藤を助けようとする恵以子の意思を感じるだろう。
 恵以子は生きており、生きて、いま安藤を助けている。安藤は、その助けに頼っている。頼ることで、恵以子をよみがえらせている。
 いろいろな思い出がこの詩集には書かれているが、そしてそれは楽しく忘れられない思い出なのだが、その美しい思い出よりも、この「思うように歩けなくなった恵以子」という、いわばつらい思い出と、安藤自身の肉体が重なり、その重なりの中で「頼る」ということばが動き、ふたりがいっしょに生きる瞬間がとても美しい。
 「頼りあっていた」ふたりの姿がはっきりみえる。
 「愛しあっていた」というのかもしれないが、「頼りあっていた」ということばの方を私は選びたい。「頼りあう」というのは、やがては死んでいくしかない弱い人間(死の絶対性の前では、人間はかならず敗北する)の、「正直」をあらわしていると思う。
 私は、この七行を、繰り返し繰り返し読んでしまった。

 

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谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』(2)

2022-08-15 22:26:09 | 詩集

谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』(2)(ポエムピース、2022年07月16日発行)

 「かなしみ」という作品がある。『二十億光年の孤独』のなかの一篇。私はかつて「谷川俊太郎の10篇』という「アンソロジー」をつくったことがある。(いま、どこにあるか、わからない。)「鉄腕アトム」「カッパ」「父の死」というのは絶対に譲れない三篇。あとは、その日の気分によって選ぶものが違うだろうなあ、と思う。しかし、あと一篇、「かなしみ」も外したくないなあ、と思う。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

 青年というよりも、少年という感じ。しかし、幼い少年ではなく、思春期の少年。
 でも、どうして、そういう印象を持つのかなあ。
 たぶん、「かなしみ」と言っても、「おとし物」くらいのかなしみ。成長すると、もっとおおきな悲しみがある。と、言っていいかどうかわからないが、なんとなく、そう思う。それは、私が過去の「おとし物」を思い出し、いま、悲しくなることがないからだ。
 だからこそ、ここに書かれていることが、美しい、真実だとも思う。
 特に、一行目が「美しい」し、谷川にしか書けない「真実」が書かれている、と思う。

 ところで、この詩集には、ときどき歌人の枡野浩一の「つぶやきコラム」というのがついている。一口感想、かな。
 枡野も一行目に注目している。私とは、ちょっと注目の仕方が違う。枡野のコラムを全行引用する。

おとし物をよくするから、遺失物係にもよくお世話になる。なくしたものは、みつからない。なくしたものに似たものならある。《青い空の波の音が聞こえるあたり》は、空のようでもあり海のようでもある。手がかりのない広い世界で何かを探し続ける覚束なさこそが、生きる実感に思えてくる。

 読んだ瞬間、私は、非常に違和感を覚えた。「あれっ」と声に出してしまった。そして、谷川の詩を読み直してしまった。同じ書き出しの一行に注目しているのだが、注目のポイントが私とはぜんぜん違う。そして、私が、思わず「あれっ」と声に出してしまったのは、「あれっ、私が読み違えた?」とびっくりしたからである。もう一度読み返したのも、そのためである。
 でも、私は間違っていなかった。枡野の引用が間違っているというのではないが、不十分だ。不完全だ。谷川は、こう書いている。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

 「あの」がある。枡野の引用には「あの」がない。行末の「に」も枡野は省略している。文字数の制限があり、省略したのかもしれないと思ったが、どうもそうではない。もっと長い「つぶやき」があるから。
 枡野は「あの」には「意味」がないと思ったのだろう。
 でも、私にとっては「あの」は「意味」がある。「意味」のほかにも、大切な働きをしていると思う。
 「あの」というのは、「ここ(近く)」「そこ(少し離れている)」ではなく「あこ(遠い)」に通じる。「青い空」だから、「遠い」。そこは「空の波の音」が聞こえるくらいだから、ちょっと「空想的」という意味でも「遠い」。
 でも、「あの」には、もう少し違った使い方がある。
 「このまえ食べた、あのカレーおいしかったね、また食べにいこうか」
 「あ、駅前のあのカレー屋?」
 こういう会話のときの「あの」は、会話しているひとの間で、カレー屋が「共通認識」としてある。ふたりとも知っている。だから「あのカレー(屋)」になる。
 それと同じように、

あの青い空

 という書き出しを読んだとき、私には、谷川が思い浮かべている空と同じものであるとはいえないけれど、なんとなく、一緒に見たことがある(あるいは、いま一緒に見ている)という感じがする。「あの」が私と谷川を結びつける。
 それは、それにつづく「青い空の波の音が聞こえる」という変なことば、空なの? 海なの?という疑問を消してしまう、強烈な「結びつき」だ。
 「青い空の波の音が聞こえるあたり」では、「結びつき」が生まれない。谷川少年がかってに「夢想」しているだけになる。
 引用するとき、「あの」を省略してほしくないなあ、と思う。
 それに。
 この「あの」があるから、「あたりに」がとても耳になじみやすい。「あ」の音が繰り返される。「あ」の「あ」おい波の音が聞こえる「あ」たりに。私なら「あの青い空の波の音が聞こえるあのあたりに」と「あの」を繰り返してしまうかもしれない。でも、そうすると、ちょっと音がうるさくなるというか、「あ」の音が多すぎる。「空」「波」のなかにも母音の「あ」があるからね。それに「あの」のなかの「の」のなかの「お」という母音の隠れ具合とも考えると、「あの青い空の波の音が聞こえるあたり」がいちばん美しいね。
 「音」のついでにいうと、二行目も「あ」と「お」の響きが交錯する。「し」という新しい音がくわわって、三行目に「し」が繰り返されるのも、とても自然。
 もっとも、こういう「音(音楽)」の問題は、ひとそれぞれの「好み」が大きく影響するから、いちがいには言えない。
 脱線しすぎたかも。
 脱線ついでにいえば、谷川が書いているのは「おとし物」であって、「忘れ物」ではない。「なくし物」でもない。これも、いいなあ、と感じる。「おとし物」は自分から完全に切り離されてしまった感じ。「忘れ物」なら、家に忘れた場合は、家に帰れば「ある」。「なくし物」は微妙。「なくす」よりも「落とす」の方が私には「肉体的」な切断感、痛みがあって、感覚的にしっくりくる。枡のは「なくしもの」に重点を置いているが、私の場合、とくに少年時代を思い出すと「なくし物」という意識はほとんどない。「おとし物」しかない。(忘れ物、はある。)
 二連目についても少し書いておく。
 二連目では「遺失物係の前に立ったら」がとてもいい。大好き。(変な感想かも。)
 最初に、私はこの詩の主人公を「少年」と書いたが、「少年」にとって「遺失物係」というのは、ちょっといかめしい。「遺失物」と漢字のテストで出たら「少年」には書けないかもしれない。ちょっと背伸びした感じが、「かなしみ」にぴったりくる。(「昼下がりの情事」のオードリー・ヘップバーンの背伸びした悲しみ--悲しみには背伸びが似合う。)
 それに「遺失物係の前に立ったら」が、ほんとうに美しい。こういうとき「立ったら」と、書ける? 遺失物係へ「行ったら」(行って、問い合わせたら)と書いてしまいそう。「立ったら」には、何か、教室で叱られて、「立っていなさい」と言われるような響きもある。叱られている感じ。
 それに。「係」にも母音「あ」があるが「立ったら」にも「あ」だらけ。それが「悲しくなってしまった」と響きあう。
 こういう「音楽」は「作為」ではむずかしい。谷川は、根っからの「耳の詩人」なのだと思う。

 

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谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』

2022-08-14 16:44:59 | 詩集

谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』(ポエムピース、2022年07月16日発行)

 谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』は、短い詩120篇のアンソロジー。田原が選んだ。こういう詩集は、最初から読んでいくのではなく、なんとなく開いたところから読んでいく。行き当たりばったりで読んで、行き当たりばったりの感想を書く。読み落としがあっても気にしない。「となりの」谷川俊太郎なら、なおさらそうだ。読み落としたって、「知っている」。というか、どうしたって田原が選んでいない詩が詩集の中にまぎれこんでいる。「本人も知らない」のが「となりの他人」の実態だから。あるいは「となりの住人」というのは、そういうものを含んでいるのだ。つまり、谷川俊太郎以外、この詩集でいえば田原以外の人間をかってに含めて、私は谷川俊太郎を「となりの谷川俊太郎」と思っているかもしれない。

 204、205ページに「牛」という詩がある。

のっそりと牛がやって来た
後脚をひきずっている 顔色も悪い
十牛図から出て来たのだという
禅の修行もせずに牛に出会えたかと喜んで
牛に乗ってうちに帰ろうと思ったら
牛はひとり黙々と角の吉野家へ入って行く
偉いものだ 衆生のために我が身を捨てるとは
私は自分を捨てられない 悟りは遠い
この一年どうやって生き延びようか

 これはなんだろう。
 いろいろ気になることがあるのだが、特に気になるのが「牛はひとり黙々と角の吉野家へ入って行く」の「ひとり」である。
 牛が「ひとり」?
 ふつうは、一頭と数えるが、(あるいは、一匹が今風かなあ)、谷川は「ひとり」と書いている。
 そして、私はその「ひとり」につまずいてはいるのだけれど、読んだ瞬間の「つまずき」は、これは変だなあ、ではなく、「あ、ひとり」かと納得してしまったつまずきなのである。
 この詩では、絶対に、牛は「ひとり」でなくてはならない。
 なぜ、そう思ったのか。
 「牛に乗ってうちに帰ろうと思ったら」という一行があるからだ。谷川は「牛に乗ってうちに帰ろうと思った」が、それを牛は拒んだ。「私には行くところがある」。つまり、ここに「他人」が出てきている。そして、その他人は谷川と対立する。こういうとき、それは「ひとり」なのだ。「ひとり」とは「意思」であり、「思想」だ。
 「一頭」だと、たぶん、「拒否された」という感じがない。
 なぜなら、牛だからだ。牛と人間は、交流できない。こころの交流があるかもしれないが、そういうものは、なんというか「屁理屈」。あとから付け足した、後出しジャンケン。牛と人間は別の存在。
 その「別の存在」であるはずのものが、「別の存在」ではなく、谷川と「地つづき」になって、「地つづき」のところから「拒否」している。
 この切断と接続の一瞬が「ひとり」であり、それが「禅/思想」なのだと、私は納得したのだ。
 最後の三行は「意味」であり、「意味」である限りにおいて、それは付け足しである。「ひとり」ということばを書いたときに、詩は完結している。そういう「完結」を提示できるところが「となりの」谷川俊太郎でありながら、「となり」を超越している。そして、「となり」ではなくなることで、また「となり」になる感じがする。
 不気味と親しみ。

 

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小見さゆり『水辺の記憶』

2022-08-11 17:40:05 | 詩集

小見さゆり『水辺の記憶』(書肆山田、2022年07月08日発行)

 小見さゆり『水辺の記憶』には、詩とは何かの、ひとつの「模範解答」のようなものがある。「まばたき」という作品の後半部分。

まばたきをしている間に地球がすばやく回転した
まばたきをしている間にスカートがめくれあがった
まばたきをしている間に数式を忘れた
まばたきをしている間に地面から鳥の影が消えた

 「まばたきをしている間に」という共通のことばが、別々のことばを引き寄せてくる。無関係なものが「まばたきをしている間に」によって共通のものになる。それがほんとうに共通しているかどうかは、わからない。わからないが、「共通項(まばたきをしている間に)」があるために、共通のものとして見えてくる。
 ただし。
 共通といっても、そこには「断絶」がある。なぜ共通しているか、わからない。無意味(ナンセンス)な、「断絶」と「接続」。そして、この「断絶」は、ある世界から、たとえば「地球がすばやく回転した」「スカートがめくくれあがった」が「切断」されてきたものだとすれば、これを「切断」と「接続」と呼び直すことができる。
 「切断と接続」、これが詩である。

まばたきをしている間にさかあがりを覚えた
まばたきをしている間に海岸の麦穂がはためいた
まばたきをしている間に草の中で卵が孵った
まばたきをしている間に水滴がこわれた
まばたきをしている間に一匹のクロアゲハが昇天した

 この「切断と接続」がしてあり続けるためには、「驚き」が必要である。「驚き」(意外性)をどれだけ持続できるか。
 小見の課題といえる。この詩に限定された課題ではないような気がする。どこかに「結末」があるようなことばの動きを感じるからである。
 最後の部分を引用する。

まばたきをしている間にひとつの声が路上を横切った
まばたきをしている間に砂漠のことを考えた
まばたきをしている間に何も起こらなかった
まばたきをしている間にあなたはわたしだった
まばたきをしている間にわたしはあなただった
わたしたちは歩行だった呼吸だったときめきだった
わたしたちは水辺だった木漏れ日だった鳥のさえずりだった
すべてはただまぶしかった
世界は単なるまぶしさとしてそこにあった

 「まばたきをしている間にあなたはわたしだった/まばたきをしている間にわたしはあなただった」はナンセンスな詩(ことば)が抒情(感情的意味)にかわるために、必然だったかもしれない。小見には。しかしナンセンス(わからない/無意味)を抒情に仕立てた瞬間、死んでしまう詩というものがある。
 小見は、それまで書いてきたものを「歩行だった呼吸だったときめきだった……」と要約して、そのあとで「切断と接続」の、そのナンセンスなスパークを「まぶしかった」と「定義」している。「結論」を出している。
 「結論」を書かないと落ち着かないのだと思うが、詩は結論ではない。ましてや、ナンセンスに「抒情」という「結論」があるのでは、それまでの「まぶしさ(ナンセンスのまぶしい輝き)」は消えてしまう。
 「まばたきをしている間に地球がすばやく回転した」で始まり、「まばたきをしている間に砂漠のことを考えた」で終わればよかったのになあ、と残念な気持ちになる。
 意味とは、作者がつくらなくても、読者がかってにつくってしまうものである。

 

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瀬崎祐『水分れ、そして水隠れ』

2022-07-28 15:24:57 | 詩集

瀬崎祐『水分れ、そして水隠れ』(思潮社、峯澤典子『微熱期』(思潮社、2022年07月04日発行)

 瀬崎祐『水分れ、そして水隠れ』の「夜の準備」。その書き出しの二連。

ここからは崖の上に止まっている大きなトラックがよく
見える 夕刻になるとあの崖上に戻ってくるのだが 少
し前に進むだけで崖から落ちてしまいそうだ そんなぎ
りぎりの場所で いつも夜をすごしている

昼の間はどこかへ作業をしに行っているのだろう 溶け
たものを運びつづけているのだろう 恨みや妬みを溶か
して 言葉が重く揺れてうねる 悪路でトラックは跳
ね 荷台からこぼれたものは路上に点々と跡をつける

 とてもおもしろいと思った。
 しかし、このあと「言葉」は、この詩のなかでは動かず、「幼い日」や「姉」が登場する。それを出すくらいなら、二連目でやめておけばいいのに。
 そんなことを思っていたら、「言葉屋」という詩が出てくる。

昔は大通りのあちらこちらに言葉屋があった そのころ
は誰でも言葉屋で好きな言葉を買うことができた その
言葉をつかって街の人たちは会話を交わすのだった

 ぼんやりと読んできたが、「夜の準備」の「夕刻」や「運ぶ」に関連することばが静かに詩のなかに隠れていることに気づいた。どこかにとどまるのではなく、動いていく。何かを運んでいく。そのとき、何かを「こぼす」。こぼれてしまうと、それはトラックの荷台にあったときとは違うものになっている。瞬間的に違うものになるのではなく、少しずつ変化していくのだ。
 「言葉」は「扉を閉ざして、人々は」という作品では、「形容詞や接続し」に変化しているし、「トラック」はセールスマンの「鞄」に変わっている。「湖のほとりで」では「言葉」は「眼球」になっている。
 「眼球」はもっと早く登場するが(「拾う男」)、この詩のなかで「言葉」と緊密に結合する。他の「水」や「男」も、この詩で明確に結びつく。
 この「言葉」から「眼球」への変化、そのたのことばの結びつきと揺らぎに、瀬崎の今回の詩集の「意味」のようなものが凝縮しているのだが、私はそれについては書かない。「意味」は書いてもうるさくなるだけだ。要約は、したくないのである。
 次の部分がいいなあ、とだけ書いておく。

湖にただよいつづける眼球の網膜には 最後に見た風景
がのこされている 眼球が水面でたがいに打ちつけ合っ
ているあいだに 焼きついていた風景の角はとれてい
く ものごとの輪郭はあいまいになり なごやかなもの
へと変わっていく 棄てられて 責められることから解
き放たれた風景だ

 「眼球」を「言葉」と読み直せば、瀬崎の向き合っている「詩」というのがわかる。「詩」は「ことば」でしかありえないものであるということがわかる。

 

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