谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』(ポエムピース、2022年07月16日発行)
谷川俊太郎『となりの谷川俊太郎』は、短い詩120篇のアンソロジー。田原が選んだ。こういう詩集は、最初から読んでいくのではなく、なんとなく開いたところから読んでいく。行き当たりばったりで読んで、行き当たりばったりの感想を書く。読み落としがあっても気にしない。「となりの」谷川俊太郎なら、なおさらそうだ。読み落としたって、「知っている」。というか、どうしたって田原が選んでいない詩が詩集の中にまぎれこんでいる。「本人も知らない」のが「となりの他人」の実態だから。あるいは「となりの住人」というのは、そういうものを含んでいるのだ。つまり、谷川俊太郎以外、この詩集でいえば田原以外の人間をかってに含めて、私は谷川俊太郎を「となりの谷川俊太郎」と思っているかもしれない。
204、205ページに「牛」という詩がある。
のっそりと牛がやって来た
後脚をひきずっている 顔色も悪い
十牛図から出て来たのだという
禅の修行もせずに牛に出会えたかと喜んで
牛に乗ってうちに帰ろうと思ったら
牛はひとり黙々と角の吉野家へ入って行く
偉いものだ 衆生のために我が身を捨てるとは
私は自分を捨てられない 悟りは遠い
この一年どうやって生き延びようか
これはなんだろう。
いろいろ気になることがあるのだが、特に気になるのが「牛はひとり黙々と角の吉野家へ入って行く」の「ひとり」である。
牛が「ひとり」?
ふつうは、一頭と数えるが、(あるいは、一匹が今風かなあ)、谷川は「ひとり」と書いている。
そして、私はその「ひとり」につまずいてはいるのだけれど、読んだ瞬間の「つまずき」は、これは変だなあ、ではなく、「あ、ひとり」かと納得してしまったつまずきなのである。
この詩では、絶対に、牛は「ひとり」でなくてはならない。
なぜ、そう思ったのか。
「牛に乗ってうちに帰ろうと思ったら」という一行があるからだ。谷川は「牛に乗ってうちに帰ろうと思った」が、それを牛は拒んだ。「私には行くところがある」。つまり、ここに「他人」が出てきている。そして、その他人は谷川と対立する。こういうとき、それは「ひとり」なのだ。「ひとり」とは「意思」であり、「思想」だ。
「一頭」だと、たぶん、「拒否された」という感じがない。
なぜなら、牛だからだ。牛と人間は、交流できない。こころの交流があるかもしれないが、そういうものは、なんというか「屁理屈」。あとから付け足した、後出しジャンケン。牛と人間は別の存在。
その「別の存在」であるはずのものが、「別の存在」ではなく、谷川と「地つづき」になって、「地つづき」のところから「拒否」している。
この切断と接続の一瞬が「ひとり」であり、それが「禅/思想」なのだと、私は納得したのだ。
最後の三行は「意味」であり、「意味」である限りにおいて、それは付け足しである。「ひとり」ということばを書いたときに、詩は完結している。そういう「完結」を提示できるところが「となりの」谷川俊太郎でありながら、「となり」を超越している。そして、「となり」ではなくなることで、また「となり」になる感じがする。
不気味と親しみ。