詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小見さゆり『水辺の記憶』

2022-08-11 17:40:05 | 詩集

小見さゆり『水辺の記憶』(書肆山田、2022年07月08日発行)

 小見さゆり『水辺の記憶』には、詩とは何かの、ひとつの「模範解答」のようなものがある。「まばたき」という作品の後半部分。

まばたきをしている間に地球がすばやく回転した
まばたきをしている間にスカートがめくれあがった
まばたきをしている間に数式を忘れた
まばたきをしている間に地面から鳥の影が消えた

 「まばたきをしている間に」という共通のことばが、別々のことばを引き寄せてくる。無関係なものが「まばたきをしている間に」によって共通のものになる。それがほんとうに共通しているかどうかは、わからない。わからないが、「共通項(まばたきをしている間に)」があるために、共通のものとして見えてくる。
 ただし。
 共通といっても、そこには「断絶」がある。なぜ共通しているか、わからない。無意味(ナンセンス)な、「断絶」と「接続」。そして、この「断絶」は、ある世界から、たとえば「地球がすばやく回転した」「スカートがめくくれあがった」が「切断」されてきたものだとすれば、これを「切断」と「接続」と呼び直すことができる。
 「切断と接続」、これが詩である。

まばたきをしている間にさかあがりを覚えた
まばたきをしている間に海岸の麦穂がはためいた
まばたきをしている間に草の中で卵が孵った
まばたきをしている間に水滴がこわれた
まばたきをしている間に一匹のクロアゲハが昇天した

 この「切断と接続」がしてあり続けるためには、「驚き」が必要である。「驚き」(意外性)をどれだけ持続できるか。
 小見の課題といえる。この詩に限定された課題ではないような気がする。どこかに「結末」があるようなことばの動きを感じるからである。
 最後の部分を引用する。

まばたきをしている間にひとつの声が路上を横切った
まばたきをしている間に砂漠のことを考えた
まばたきをしている間に何も起こらなかった
まばたきをしている間にあなたはわたしだった
まばたきをしている間にわたしはあなただった
わたしたちは歩行だった呼吸だったときめきだった
わたしたちは水辺だった木漏れ日だった鳥のさえずりだった
すべてはただまぶしかった
世界は単なるまぶしさとしてそこにあった

 「まばたきをしている間にあなたはわたしだった/まばたきをしている間にわたしはあなただった」はナンセンスな詩(ことば)が抒情(感情的意味)にかわるために、必然だったかもしれない。小見には。しかしナンセンス(わからない/無意味)を抒情に仕立てた瞬間、死んでしまう詩というものがある。
 小見は、それまで書いてきたものを「歩行だった呼吸だったときめきだった……」と要約して、そのあとで「切断と接続」の、そのナンセンスなスパークを「まぶしかった」と「定義」している。「結論」を出している。
 「結論」を書かないと落ち着かないのだと思うが、詩は結論ではない。ましてや、ナンセンスに「抒情」という「結論」があるのでは、それまでの「まぶしさ(ナンセンスのまぶしい輝き)」は消えてしまう。
 「まばたきをしている間に地球がすばやく回転した」で始まり、「まばたきをしている間に砂漠のことを考えた」で終わればよかったのになあ、と残念な気持ちになる。
 意味とは、作者がつくらなくても、読者がかってにつくってしまうものである。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Estoy loco por espana(番外... | トップ | 「台湾有事」への疑問 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩集」カテゴリの最新記事