goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

峯澤典子『微熱期』

2022-07-25 08:26:04 | 詩集

峯澤典子『微熱期』(思潮社、2022年06月20日発行)

 峯澤典子『微熱期』の、詩篇に入る前のページに、次の三行がある。

すべては
青い
微熱のなかへ

 この三行を読んだ瞬間に、この詩集の特徴がわかる。「青い」ということばが、すべてを語っている。これが「茶色」だったり、「黒」だったり、「薄汚れた紫」だったりすると、少し複雑である。しかし「青い」から私が連想するのは「透明」とか「美しい」とか「静か」とか「哀しみ」ということであり、実際に、詩はその通りに展開する。
 巻頭の「夏の雨と」

明け方の雨は
散ってしまった花びらの
あとを追うように
夢のなかの
夏の地図を濡らしていった

 ね、美しいでしょ? そして、その美しさに「矛盾」がないでしょ? 想像どおりのことが起きるのである。雨が降る、花が散る、散ったもの(なくなった/失ったもの/たぶん恋人)を追いかける。これは、「文学」の「定型」である。
 峯澤の特徴は、この「文学の定型」をていねいに守ることである。だからとても読みやすい。つまり、何も考えずに、峯澤のことばに身を任せることができる。何も危険なこと(私の考えていることを覆すようなこと)は起きない。よくできた、とてもよくできた、完成された「文学」を読む安心感がある。
 二連目は、こうつづく。

それは
もう訪れることはない
遠い南の町
雨あがりの
ひと気のない朝の坂道で香っていた
ライラック
薔薇
ジャスミン
すがたの見えない蝶たちのかげ

 「地図」の町が、サラ金の取り立て人がどの街角にも待っている街(だから、逃げてきた)だったりすれば、やはり「もう訪れることはない」町になるかもしれないが、峯澤はそういうことは書かない。あくまでも詩の「美しい」ことばが落ち着く「遠い」町である。このときの「遠い」は空想であり、あこがれである。つまり、意識(脳)がつくりだした町である。脳(意識)というのは、矛盾を嫌う。合理的で、整合性がとれるように、平気で嘘をつく。峯澤が「うそ」を書いているというのではないが、それはあまりにも「統一性」がとれていて、リアリティに欠ける。「ライラック/薔薇/ジャスミン」。よく三つも美しい花がそろったものだ。そういう町はあるだろうけれど、あまりにも人工的だ。これに追い打ちをかけるのが「すがたの見えない蝶たちのかげ」。ああ、これは、もう「頭の中」にしか存在しない。ここまで到達してしまうところに峯澤の「特徴(長所/美点)」があるのだろうけれど、なんというか、もう読まなくてもいい、という感じがしてくるのである。きっと、どこまで読んでも「文学の定型」がつづくだけなのだろう、と思ってしまう。もちろん、その「文学の定型」を維持できるというのは、いまでは貴重な資質だとは理解できるけれど。

ひとの一生は
そんな儚いものの名を歌うように覚え
そしてまた
忘れてゆくだけの
つかのまの旅 だとしても

 「儚い」は「つかのま」と言い直されているが、そのあいだにていねいに「忘れていく」ということばがさしはさまれる。この「忘れる」という動詞は、直前の「ものの名を歌うように覚え(の)」と呼応している。ことばの「呼応」が正確なので、文句のつけようがない。つまり、読んでいてつまずかない。
 これはたしかにいいことなのかもしれないが、完璧というのは、ときとして退屈でもある。読者は(私は)、わがままなのである。つまずいて、そこで何かを考えたい。考えることで、峯澤のことばと「交渉」がしたい。私自身のことばを変えないと、絶対にたどりつけないものがある、と感じたいのだ。このままでは、峯澤の完璧な歌(カラオケで採点すれば100点の歌唱力、「うまいでしょ?」自慢している歌)を、「あ、うまいね」と聞いているようなものなのだ。

失ってしまったものを数えるかわりに
ライラック
薔薇
ジャスミン
その散りぎわの
薫りの強さを思いながら
わたしは
雨の朝でも
暗いままの窓をひらきつづけよう

いまも夢のなかでは会える
あなたと歩いた
遠い花の町の
やわらかな月日の
雨おとが
私の濡れたまぶたのうえで
またあたらしい
夏のはじまりとなるように

 静かな哀しみは、おだやかな喜びでもある。それはそれでいいとは思うが、私は、どうしようもない憎しみが、拒んでも拒んでも侵入してくるような詩を読んでみたいと急に思うのだった。「微熱」というのは、そういう拒みきれない何かとの戦いのとき、肉体の奥から滲み出してくるものだと、私は感じている。「青い/微熱」というのは、ひとりで哀しみの空想を生きているようで、「あ、このひとはナルシストなのか」と感じ、それ以上近づきたいとは思わなくなる。
 よくフェイスブックで「いいね」のかわりに「100点」というスタンプを残しているひとがいるが、そうだね、この詩集の点数はと聞かれたら、私は「100点」をつけて、あとは口を閉ざすかもしれない。「100点」をつけておけば、筆者から「苦情」もこない。でも、私は、そういうことはしないのだ。「100点」なんて、読まなくてもつけることができる。読んだ限りは、読んだときの感想を書かずにはいられない。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新井啓子『さざえ尻まで』

2022-07-24 09:50:43 | 詩集

新井啓子『さざえ尻まで』(思潮社、2022年04月29日発行)

 新井啓子『さざえ尻まで』のなかに「旅の話」がある。以前、書いたかもしれないが、この作品がいちばんおもしろい。親戚で旅したときのことを、親戚が集まったときに思い出す。具体的なことは、前半に少し紹介される。それを受けての、後半部分。

集まるたびにみなが思い出話をする
何度もなんども同じ話が語られる
語る人数は減っていくが
語られるひとは変わらない

いなくなっても必ず語られるひとがいる
本当にあれだよね
しょうもなくあれさ などと
よくも わるくも
繰り返し語られる

何度もなんども語られるので
いったきり 帰れそうもない

 「思い出話」は「旅の話」とは限らないだろう。
 「語る人数は減っていくが/語られるひとは変わらない」はさりげなく、ひとが死んでいくことを語っている。葬式には、ひとが(親戚が)集まってくる。そうすると、葬儀の対象の故人の思い出話が出るのはあたりまえだが、ずーっと前に死んでしまったひとの話も出る。「いなくなっても必ず語られるひとがいる」。
 「何度もなんども語られるので/いったきり 帰れそうもない」と新井は書くが、それは、結局、ひとというのは「いったきり」になるということかもしれない。「いったきり」になり、語るひとではなく、語られるひとになる。それが人間なのだろう。それが人間の「旅」なのだろう、と私は静かに納得する。
 「影のひと」には、「あの日」、海でおぼれそうになったことが描かれている。

誰も 気づかなかった
(気づかれなかった

 という行がある。
 でもね、きっと気づいている。そして、それは「語られる」日がくる。
 この「影のひと」の最終連。

煮付けにするとおいしいイトヨリが買われていく
石川魚屋の生け簀に傘の群れ
三叉路のウィンドウの前に母がいた
食材を得たゆるく結ばれた口元
あそこから あの日とおなじ
おかえり
が とんでくる

 もう一度「あの日」が出てくる。
 「三叉路のウィンドウの前に母がいた」は生きている母ではなく、死んでしまった母だろう。(生きているのだったら、ごめんなさい。)「あの日」というのは「遠い日」だが、思い出すと、「いま、ここにある、きょう」になる。同じように、死んでしまった「あのひと」も、思い出す瞬間に「いま、ここ」に「生きている」。
 何かを思い出すことの美しさが、正直が、こんな形で語られる。
 「クラウドボウ」という詩。

折れ曲がったきつい坂は
ちちははの来た径
折れ曲がった蔓草の茂る坂は
わたしの帰る径

 どこへ「帰る」のか。「正直」に帰る。「自分」に帰る。それは、「あの日」を思い出すことである。「あの日」の「あのひと」を思い出すことである。自分を捨てて、「あのひと」になることである。「本当にあれだよね/しょうもなくあれさ」と「繰り返す」ことである。「繰り返される」もののなかに、「正直」がある。それは、たとえば「煮付けにするとおいしいイトヨリ」。母の言ったことばが、いま、新井の人感として生きていて、それが「おかえり」を誘う。「正直」と「正直」のつながり。
 この詩集は、それをしっかりとつかんでいる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安俊暉『武蔵野』

2022-07-21 00:01:29 | 詩集

安俊暉『武蔵野』(思潮社、2022年05月17日発行)

 安俊暉『武蔵野』は短いことばがつらなっている。28ページに、こう書いてある。

古里の
葦の葉
急ぎ揺る
われ
君に会いてのち
揺るごと

君に会いて
のちより
古里の
葦の葉の
急ぎ揺る

 最初の連と次の連とどこが違うのか。どちらかひとつでいいと思うが、安は一方を削除するのではなく、両方を残している。
 55ページは、こうである。


生けし花
山ごぼうと
すみれ
小ビンの
中に


生けし
野菊
小ビンの中に
また
小さく

 何にこだわっているのだろう。83ページから84ページにかけて。

無花果
伸びゆく
幾度かの
思い
重ねつつ

幾度かの
思い
重ねつつ

無花果の葉
散りゆく

 「思い/重ねつつ」が繰り返される。あ、安は繰り返すことで「思い」を重ねているのだ。「重ねつつ」あるのだ。この「つつ」が安のことばの動きの基本なのかもしれない。思いを重ねるけれど、重ねておしまいではない。重ねつづけるのである。「つつ」は「しながら」という意味を持っているが、それはある動詞に別の動詞を重ねるということだろう。そうやって少しずつ動いていく。
 これは詩というよりも、小説のことばの動き方だろうと思う。
 安は瞬間を書いているのではなく、変化していく時間を書いている。しかも、それは激しく変化していくというよりも、どこが変化したのかわからないような、けれど、振り返れば「変わった」としか言いようのない動きである。たぶん、それは安には切実に、くっきりと見える。そして、私には、くっきりとは見えない。ああ、また繰り返しかと読んでしまう何かなのだが、私はここでは、その見えない何かを明確にしたいときは思わない。不明確なまま、そういう動きがあるということだけを見つめていたい。
 他人のことは、わかるはずがないのである。そして、わかるはずがないにもかかわらず、わかってしまうものなのである。そして、その「わかった」は強引にことばにしてしまうと、たぶん、私の「結論」の押しつけになってしまう。安が書こうとしている、「書けないもの」とは違ってしまう。
 書いているが、「書けないもの」がある。その「書けないもの」が、少しずつ重なって何かになるのを、ただ、見つめていればいいのだと思う。

カボチャ花
黄の
安らぎてある
午前
君と別れゆく

カボチャ
初花の
黄の
昼またず
しぼみゆく

 「午前」を「昼またず」と言い直している。ここに、何か、切実なものがある。ここには「重なり」ではなく「ずれ」がある。「午前」と「昼またず」は「意味」としては同じかもしれない。つまり、たとえば「午前10時」という意味では同じかもしれない。しかし、それは「午前」なのか「昼またず」なのか。「またず」のなかに、時間の長さへの切望がある。
 191ページから192ページ。

君来れば
時現れる

君と
語りをる
時重なりて
無限となる

 「思い/重なりて」が「時重なりて」に変わる。「思い」は「時」のことである。「時」とともにあり、「時」ともに変化していく。そして、その「変化」のなかに「無限(永遠)」がある。
 安がことばを動かすのは、その「無限」へ向かってのことなのである。

鳥の声
君と僕の
位置

その都度
新しき

積み重なりて
来る


終わることなく
四十雀
またくる

 「くる」「時」を、受け止めるための詩なのだ。

「つつ」と「て」の使い方について、書いてみたい衝動に私はとらわれているが、長ったらしくなりそうなので、その使い方に安の「思想/肉体」を感じたとだけメモしておく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)(3)

2022-07-18 00:00:00 | 詩集

デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)(3)(七月堂、2022年05月05日発行)

 デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』を読み進むと、だんだん暗い気持ちになる。それが、なかなか気持ちがいい。
 「自由とは」の途中から。

                           わたし
は、責任をもってじしんの身体のケアをする男だ、身体と切り離し
えぬみだしなみもきちんと整える男だ。着るものにも意を用いるし、
容貌にも、わたしは鏡のなかのわが容貌をうつくしいとおもうもの
だが、それもきっちりと手入れをする。でも、知りたいのは、歯を
磨くことからも自由になり、顔や首のあたりも洗わずにいたり、足
指のあいだも洗わずにいたりするとして、それはどんな感じのもの
なのだろうということだ。知りたいのは、排便も怠り、健康維持の
ための食物も遠ざけ、下着は替えぬままにいたりするとして、それ
はどんな感じのものなのか、またぐらから、わきのしたから、にお
いが立ちのぼるままにするとして、それはどんな感じのものなのか、
ということだ。

 こんなことは知りたくないが、知りたいと言われてみると、知りたい気持ちになってくる。どんな感じなのだろうか。たぶん、デイヴィッド・イグナトーは肉体的に強靱なのだと思う。私は肉体的に脆弱なので、たぶん、彼が書いているようなことを「知りたい」という気持ちにはならなかった。肉体が強靱なら、つまり、こういうことをしてもすぎに元の肉体にもどれるという自信があるなら、こういうことをしてみたいと思う。これは、強靱な肉体を生きた記憶が言わせることばなのだろう。その強靱さを感じ、何か、楽しい気持ちになるのだ。
 詩は、こんなふうに終わる。

               バスルームに寝転んでゆかにぴた
りと背をつけてみる、生命がわたしの身体からしみでてゆくのがわ
かる、先月からなにも食べていないわたしだ、死んでゆくのだ。わ
たしは自由だ。

 自分の肉体(デイヴィッド・イグナトーは「身体」と書く)のケアをしなくてもすむようになる。それを「自由」と呼んでいる。
 こんなふうに死んでみたい、と思えてくるから不思議だ。もう、暗い気持ちはない。 「空」という詩。

わたくしは父と母のそばに埋められたいです
その声が聞こえるように よしよし かわいい息子よ
もうすこしなんとかできたかもしれないね
でも おまえのことは愛しているよ わたしたちはね
さ 横になりなさい ここに あおむけになって 空をみなさい

 デイヴィッド・イグナトーが父、母とどんな関係にあったのか知らない。たぶん、十分にいい関係ではなかっただろうと思う。しかし、そのことが逆に父、母を思い出すきっかけになっている。いろんなことがあったが、「父のことも、母のことも愛しているよ、わたしはね」という気持ちがあるから「おまえのことは愛しているよ わたしたちはね」という声が聞こえてくる。
 デイヴィッド・イグナトーは、なんにでも「なる」。なってしまうのだ。すべてと一体になる。ことばを通して。
 横になり、仰向けになって空を見るとき、デイヴィッド・イグナトーは、きっと空になっている。地中に埋められているが、空になっている。
 彼は、自分自身の死を救っている。だれも自分の死を救ってくれないと知っているから、自分で自分の死を救うようにして生きたのかもしれない。

 あ、書きすぎてしまった。消せばいいのかもしれないが、消せば消したで、妙なものが心に残る。だから、書いて、書きすぎたと書いて、消せばよかったと書くしかない。

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)(2)

2022-07-17 10:59:00 | 詩集

デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)(2)(七月堂、2022年05月05日発行)

 「プロローグ」という詩は、「わたしのじんせいはくるうようにつくられた人生でした。」という行ではじまる。「じんせい」と「人生」がつかいわけられている。そのつかいわけについては、ここではそれ以上考えない。ただつかいわけられている、ということだけを意識しておく。
 このあと、

わたしじしんをゆるし、このさき
ものをたべつづけるためには、わたしは、あなたと、
おなじことをしなくてはなりません。

 「あなた」が出てくる。だれのことか、わからない。わからないけれど「あなた」が出てくる、ということだけを覚えておく。
 読み進むと、抽象的だったことばの世界が、突然、生々しく変わる。

わたしは、ささやかななぐさめをもとめあった
ちちとははからうまれました。
父と母が出会った時、ふたりは愛撫し
合いましたが
きづいたらたがいを逆撫で、し合っているのでした。

だからあなたは、あなたのおとうさんが卑猥な
写真をみて日々をすごしていると知ったとき、
ほっとしてしあわせをかんじるのです。
胃が痙攣し、頭が重くなり、
囁きがきこえはじめるのです、あしがふるえるのです。

 「ちちとはは」が「父と母」にかわる。デイヴィッド・イグナトーが、そのことばをどう書き換えているのか、私は知らない。千石英世は、何らかの「違い」を強く感じ、それをひらがなと漢字につかいわけている。
 「わたし」と「あなた」は、それに類似した「つかいわけ」かもしれない、と私は感じる。
 「ちちとはは」が「父と母」であるように、「わたし」は「あなた」かもしれないと思う。そのあと、「父」は「おとうさん」と言い換えられているが、このとき「おとうさん」は「わたし」かもしれない。つまり、「おとうさん」になっている。「おとうさん」と同じように、気づいたら「卑猥な/写真をみて日々をすごしている」。そして、ああ、あれはこういうことだったのかと思う。
 「こういうことだったのか」というのは、特に、言い換えて説明しなくてもいい。ただ「肉体」で、それを思い出すのだ。ことばで「説明」すると、きっと違ってくる。
 「わたし」を「あなた」と呼ぶように、何か、突然、自分を客観化して理解するような感じ、客観化することでより主観的になるというと変だけれど、より複雑に融合して、分離不可能になるような感じ。
 それは「じんせい/人生」「ちちとはは」「父と母」の関係についても言えるかもしれない。
 それから「愛撫/逆撫で」ということばのなかに「撫」という漢字が共通するところにも通じるかもしれない。
 私は、こういうことは、これ以上明確にしない。明確にしようとすると、そこに「うそ」がまじる。感じていることではなく、頭が、勝手に「論理」のようなものをつくり出して、それを「結論」にしてしまうことを知っているからだ。そうなってしまうと、もう、そこには私の読んだ詩はなくなる。
 ただ、最終連の

ほっとしてしあわせをかんじるのです。

 という一行は、とてもいいなあ、と思う。ここでは「ほっとする」と「しあわせ」がとてもやさしく融合している。「じんせい/人生」「わたし/あなた」「ちちとはは/父と母」にも、そういう「融合」があったはずなのである。そう、思うのだ。
 この感じは「ひとつの存在論」のことばと重なり合う。

闇のなか、ベッドをぬけだし、
台所へむかう。
かべをまさぐる。
ざらざらしたところ、つるつるしたところ、
われたところ、あなになったところ、
もりあがったところ、へこんだところ、それぞれ、そのたびに、
わたしの手がそのかたちになる。
ゆかが軋み、たわむ。
そのくりかえし。そのたびに
あしのうらはそのかたちになる。

 肉体(手/足)が触れたものの「かたちになる」。このとき「かたちになる」は、きっと「かたち」を超えて、そのものになる、ということだと思う。手は壁になる。足は床になる。つまり、区別がなくなる。ほんとうは壁が手になり、床が足になる、と言い直したいくらいである。
 この一体感(存在するのは、わたしの肉体だけ)という感じは、「プロローグ」の「わたし/あなた」の一体感に通じる。
 「ひとつの存在論」は、実は、つづきがある。私は、引用した部分で終わっていると思ったが、デイヴィッド・イグナトーはさらにことばをつづけている。それを読みながら、私は苦しくなってくる。
 私が引用した部分だけでは「抽象論」になってしまうのだろう。それだけでは満足できない「ことば/肉体」があり、どうしても動いてしまうのだ。それは「胃痙攣」のように、自分の力では制御できない「訴え/異変」である。動くだけ、動くにまかせるしかないものなのである。
 もう、これ以上書かない。ただ、そのどうしてもデイヴィッド・イグナトーが追加しなければならなかった行を引用しておく。最後まで読むこと、それがデイヴィッド・イグナトーになることだから。「なる」ということを味わう詩集だ。

せまい廊下なので肩がつかえる。台所までつかえつづけて、
ようやくたどりつく。あかりがまぶしい。
ゆくべき方向がわからないので、わたしは
食べる。わたしはぱんの
一部となり、みるくの一部となり、ちーずの一部となる。
わたしはそれらのやすらぎとなる。わたしはわたしによってえいようを
あたえられるのだ。ベッドへもどる。わたしはマットレスになって、
わたしのうえにねむる。
めをとじて、ねむりになる。ねむりはゆめになる。わたしは転々する。
制御不能を得て、わたしはいたるところでわたしになる。
それがわたしだ。わたしとはわたしになってしまうもののことだ。
わたしが移動するとすべてがいどうするので、
わたしはそのいどうするすべてだ。
わたしになってしまわなければ痛みはない。
だがわたしがあるので、わたしはあるところのものである。

 だが「なる」はむずかしく、いつでも「ある」が顔を出す、とつけくわえておく。いま、私が追加で「ある」と書いたように。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡井隆『あばな』

2022-07-16 16:05:06 | 詩集

岡井隆『あばな』(砂子屋書房、2022年07月10日発行)

 岡井隆『あばな』は遺稿歌集。「あばな」は「阿婆世」と書く。

ああこんなことつてあるか死はこちらむいててほしい阿婆世といへど

 という歌に出てくる。「阿婆世」を私は「あばよ」と読んでしまうが、それは死と向き合っている、死んでいく人間の声として聞こえるからである。
 この歌だけでは、何が書いてあるかわかりにくいが、この歌の前には、この歌がある。

死がうしろ姿でそこにゐるむかう向きだつてことうしろ姿だ

 これは、すごいなあ、と思う。
 死んだことがないからわからないが、よく「お迎えがくる」という。「お迎え」というからには、向こうからだれかが岡井のところへやってくる。そう想像する。しかし、岡井はそうではない、という。「お迎え」なら、当然、岡井の方を向いているはずなのに、その誰かは岡井の方を向いていない。
 死は「お迎え」にくるのではなく、岡井を知らない場所へつれていくのである。それがどこかも知られず、「ついてこい」と背中で岡井を導いていく。
 「うしろ姿」と書いて、「むかう向き」と書いて、もう一度「うしろ姿」と書いている。だれもこんなことを書いていない(言っていない)から、自分のいいたいことをなんとしても正確に伝えたいという「欲望」(聞いてほしい)が、ここにこもっている。
 そのうえで

ああこんなことつてあるか

 と嘆く。しかも、口語で嘆く。
 私は、この岡井の、露骨な口語の響きが大好きである。
 そして、こんなことを遺稿歌集の感想として書いていいかどうかわからないのだが、思ったことなので書くしかない。この露骨な口語(俗語、というか、地口、というか……)に、それに拮抗するような「文語(雅語)」をぶつけて、ことばを活性化するところがとても生き生きしていておもしろいと思う。
 いつでも岡井は、ことばを活性化したいのだ。知っていることばを最大限に輝かせたい。そのためには「枠」にはめるのではなく「枠」を破ることが大事なのだ。「枠」を破ったあと、どこへ出て行くか、それは知らない。しかし、まず「枠」を破る。それがことばを活性化する第一歩だ。

 それにしてもね。
 死が、岡井の書いているように、顔もわからない誰かのうしろ姿についていくしかない「未知」の世界なら、これは、つらいね。「あばよ」と後ろを振り向いて、知っている誰かにあいさつしたいけれど、振り向いているうちに「死の背中」を見失って、どこへ行っていいかわからないということにでもなったらたいへんだ。真剣に、「死の背中(うしろ姿)」をみつめて、おいかけていかなければならない。振り返って「あばよ」と言えない……。
 
 この他の歌では、

魚焼いた臭ひを逃すべく空けし窓ゆ見知らぬ夜が入り来ぬ

ひむがしの野にかぎろひの立つやうに新年よ来よ つて言つたつてよい

 が、私は好きだ。
 「魚焼いた」の「焼いた」という口語活用のことばが「臭ひ」からつづく日常的な動きにぴったりだし、それが「ゆ」という古語を経由することで「見知らぬ夜が入り来ぬ」の「見知らぬ夜」が実は、ことばの奥底(伝統)のなかで知っているものであることを告げるところがとてもいい。「ことば」にとって「知らぬ」ものなどない。ことばみんな知っている。その「知る/知らぬ」の交錯のなかに「魔」が動いている。ことばは「魔」だ。「魔」を目覚めさせるのが「詩のことば」だ。
 「ひむがしの」は、この歌集で、私がいちばん好きな一種。最後の「つて言つたつてよい」が強い。何を言ったってよい。それは短歌にかぎらない。私はこの「つて言つたつてよい」に励まされる。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)

2022-07-15 10:48:28 | 詩集

デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)(七月堂、2022年05月05日発行)

 デイヴィッド・イグナトー詩抄『死者を救え』(千石英世訳)は、読み始めてすぐにひきつけられる詩である。
 「病院の受付係」。

その人の名前と住所を
その人の年齢と生地を
その人自身の口から聞き取って
以来、もうその人たちは何人死んでいったのだったか?
新生児の登録もした 出産の番号札をつけて
受付係だから

 三行目の「その人自身の口から聞き取って」が、一行目と二行目の事務的手続きを強く揺さぶる。「口」という肉体の存在、聞き取るときの、書かれてはいない「耳」と「手」の動き。そこに他人の肉体と、詩人の肉体の交渉がある。「その人自身」という個へのこだわりが、必然として個の消失、死を暗示させる。どきりとさせられる。だから、その後につづく「死ぬ」という動詞が、なまなましく、また避けることのできない「必然」として迫ってくる。
 ああ、この人は、生きながら「死ぬ」ということを考え続けたのだ、考えることを迫られたのだと、一瞬息が止まる思いがする。「以来」ということばで、詩人は、その衝撃を必死に緩和しようとしている。
 さらに、逆のことも書いて、自分自身を救い出そうとしている。死ぬものがあれば、生まれるものもある。だが、その生まれた人の「名前と住所」「年齢と生地(これは聞かなくてもわかる)」は「その人自身の口から聞き取る」わけではないのだ。
 だからこそ、三行目は、絶対に書かなければならなかったキーセンテンス(キーとなる一行)なのだ。そして、この絶対的な「ことば」、「その人自身の口」から発せられるものこそが、詩なのである。それがたとえ「名前、住所、年齢、生地」という、一般に詩とは感じられないものであっても、それが詩なのだ。一回限り、そこで存在した「ことば」なのだ。
 そういうことを意識しながら、詩は、二連目に入る。

ここで詩を書くのだ 死と生の数々に囲まれて
受付係として
それで深くなったか? ウソをいわなくなったか? ぼくときみは?

 「ここ」ということばが重い。「名前、住所、年齢、生地」が固有名詞なら、「ここ」も固有名詞なのだ。そして「受付係」さえも固有名詞だ。詩は、固有名詞のなかにある。個(固)のなかにのみ存在し、生きている。
 この固有名詞、個の存在と向き合い続けるのは、とてもむずかしい。「普通名詞(一般名詞)」になって「流通」してしまう。「ほんとう」が「ウソ」に変わってしまう。固有名詞は、その深さを測る基準がない。どこまでも深い。そして絶対的真実である。ウソを受け入れない。そこへ、たどりついたか?
 詩人は自問している。
 そして、この詩は問いかけてくる。この詩に対して、私は「私自身の口」から「私自身のことば」で、「私の名前、住所、年齢、生地(アイデンティティー)」を語ることができるかと。
 私は、感想を書くことで私自身を語り得ただろうか。私の感想のなかにはまじっていないか、つまり、私はウソをついていないか。
 詩を読むのではない。詩の方が私のことばを読む。その真剣な視線の前で、私はどれだけ自分自身に対して正直になれるか。新生児として生まれ変われることができるか。それが、これから詩集を読んでいくとき、私に求められることだ。

 「だからまたぐ」という詩がある。

わたしは
石ころ一個とのつながりで
わたしじしんを了解する

 この「石ころ」とは「固有名詞」としての「詩」である。そこにある「固有名詞としての石ころ(詩)」と「わたしじしん」をどうつなぎ、そこで何を語ることができるか。他人のことばではなく、自分のことばで。
 詩人はつづけている。

肉と骨であるもの
わたしは石ころに向かってひれ伏すべきだろうか?

 そう、ひれ伏すべきである。固有名詞の存在の前で、「わたし」と「人間」とか「市民」とかという「普通名詞」に逃げてはいけない。「固有名詞」にならないといけない。全体的存在としての「石ころ(固有名詞)」の前で、詩の前で、できることは、「ひれ伏すこと」、無力であることを自覚すること、無になること……。

これは聞こえてきた声 わたしの声
わたしは正面から石ころに対峙したい
プライドをもって
しかしわたしはこわれうるものである
わたしはあらそいをこのまぬものである
だから
石ころをまたいで過ぎる

 「しかしわたしはこわれうるものである」の「こわれる」をどう読むべきなのか。私は悩むが、「こわれる」を可能性と読む。固有名詞(詩)の前で、私は私であってはいけない。私を壊して、私でなくならないといけない。生まれ変わらないといけない。
 だが、こういうことは、頭で言うのは簡単である。ことばは、いつでも、自分の都合のいいように頭の中で動いてしまう。ウソを、かっこいいことを書いてしまう。
 詩人は、ここで踏みとどまっている。
 そこまでは、できない。
 だから、石ころ(詩)という全体的存在を認めながら、いまは、そっとそれを「またいで過ぎる」。この「またぐ」という動詞に、何とも言えない正直を感じる。これは「保留」のひとつの態度である。

 「夜の読書」にも、同じものを感じた。

なにを学んだから
わたしはいずれ死ぬんだ
という単純な事実から離れていられるのか?
本から学んだ考えは、わたしを素通りしてゆく
本を閉じる、わたしは閉じ込められる、闇につつまれる、急遽、
本をひらく
本のひかりがわたしの顔を照らすのを待つ

 「自分自身のことば」をみつけなければならない。しかし、ことばはいつでも「本」(他人)からやってくる。やってくるものは、たいてい、通りすぎても行く。通り越して行く。それは、しかし、通り越すにまかせるしかない。それは「自分自身のことば」ではないからだ。
 本のひかり、本のことばが、「わたし」を「照らす」。照らされたそのひかりのなかに、私自身のことばを見つけなければならない。「照らす」力を借りて、「私自身」を探す、ということだろう。ここにも「保留」がある。
 詩は(固有名詞は)、私を「固有名詞」に引き戻してくれる「ひかり」である。

 この詩集の前で、私はどれだけ正直になれるか。それが問われている。急いではいけない。ことばがウソをつきそうになったら、その直前で立ち止まり、「保留」することが必要なのだ。だから、きょうは、ここまでしか書かない。


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglmeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」11月号を発売中です。
142ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854">https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854</a>

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高野尭『マルコロード』

2022-07-14 22:51:34 | 詩集

高野尭『マルコロード』(思潮社、2022年07月20日発行)

 高野尭『マルコロード』を読む。私は最近までスペインにいたので、日本語の詩を読むのは約一か月ぶりである。だから、そこに書かれていることばに、うまく適応できない。読み違いをしてしまううだろうが、まあ、そこにはそれなりの必然がある、と「弁解」から書いておく。高野の詩が、よくわからないのである。
 「蝦蟇の罠」という作品。

逆流にあらがう蛙はうつくしい、おとなになる

 書き出しの一行で、私は私の青春時代、つまり1970年代にもどる。そのころの、詩のことばを思い出す。私の詩、というよりも、60年代の、安保敗北後の詩のことば、ことばの屈折を思い出してしまう。
 まず「逆流」がくる。ここには社会と個人の対立が象徴されている。まだ社会に対して、立ち向かう若者がいた。反抗する若者がいた。それは「うつくしい」。結局敗北するのだが、敗北もまたうつくしい。抵抗し、敗北し、敗北を受け入れることが「おとなになる」ということだった。(清水哲男兄弟の詩風、特に哲男の詩風を思い出してもらいたい。)
 これは、次のようにいいなおされる。

片手に発泡酒缶をにぎり、蛙になる
間がもてない、うつくしい青年だ、青年だ

 あの頃はまだ発泡酒というものはなかったから、高野は70年代を描いているわけではなく、もっと今に近い時代を描いている、あるいは現在を描いているのかもしれないが、ことばは70年代を生きている。
 「うつくしい青年」には自己陶酔がある。詩人の特権である。自己陶酔しなければ、だれが「うつくしい青年」と呼んでくれるものか。
 このあと、その自己陶酔が、それこそうつくしいことばを呼び寄せる。

がらんどうの胸襟をひらいて青年になった
つれない風にうなじをこそがれ
しわぶく蛙の喉、しわぶきのあたりに
泡をふいて青年になっていく

 「しわぶきのあたり」の「あたり」が絶妙だなあ。ここには、高野独自の音楽が響いている。これをもっと聞きたいと私は思うが、高野はこの音楽を自覚していないかもしれない。だからこそ、私は、そういうことばを「キーワード」と呼ぶのだが、ここではこれ以上のことは書けない。「あたり」ということばがどれだけ深く高野の肉体に食い込んでいるものなのか、どこまで無意識化されているものなのか、まだ高野の「文脈/文体」になじめないでいるからだ。(きっと旅の「時差」のようなものが、私の肉体のなかにしつこく残っていて、それがじゃましている。)

蛙だ、青年になる、青筋がたって
つめよってくる、ぞうの意象をはらい
切り詰めるひとの芽は不思議に思う
あそこにもここにも、なんの矛盾もない

 この「転調」に、私はとまどう。特に「ぞうの意象」ということばのなかにある、「ぞう」と「象」の交錯の前で、「あたり」ではなく、この「ぞうの意象」のような瞬間的な、あるいは主観的なずれこそが、重複が高野のことばの本質(キーワード)かもしれないと思ったりもする。よくわからない。わからないが、いま引用した部分で言えば「あそこにもここにも、なんの矛盾もない」の「あこそにもここにも」という軽い響きに、「あたり」に通じる音楽を感じる。「なんの矛盾もない」という明るさもいいなあ、と感じる。

カーソルをすりよせ、結局フリーズしている
昼休みのログオフを長押しすれば
カップ麺の汁をすする、少年だった
すり鉢の貧乏ゆすりに、波風をたてる
鈍感な蝦蟇だ

 ああ、ここから先は読みたくない。「うつくしい青年」を高野は最終的に「無垢な少年」と言い直すのだが、これでは「逆行」というものだろう。それが、新しい詩なのか。「うつくしい青年」は敗北することで「大人になる」が、敗北を「無垢な少年」に押しつけるのは、「大人になる」のではなく、「こどもになる」ことだ。
 「還暦」ということばがある。高野は、そのことばどおり、「還暦」後を、「無垢な少年」として生きていこうとするのか。
 それもいいかもしれない。でも、いまは70年代ではない。それより以前の60年代にまで引き返す覚悟があるのかどうか、私には、高野の書いていることばがよくわからない。その運動の方向が、わからない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本博道『夜のバザール』

2022-05-26 11:27:31 | 詩集

山本博道『夜のバザール』(思潮社、2022年05月31日発行)

 山本博道『夜のバザール』を読みながら、私は困惑した。山本はいろいろな土地を訪ね歩いている。「カンボジア、タイ、ベトナム、ミャンマー、バングラデシュ……」と帯に書いてある。しかし、私には、その違いがわからない。山本の詩を読んでも、どこが違うのかわからない。違いではなく、共通するものを描こうととしているのかもしれないが、違いがわからなければ共通も浮かび上がらないように思う。違っている、けれど、なにか通じるものがあるというように「認識」は進んでいくと私は考えているが、どうも先に「共通」があり、それを「個別」のなかに展開しているような気がする。「共通」にあてはまる「個別」を選びながら、ことばが動いている感じがする。窮屈なのだ。
 そうした印象の中で、次の数行は、「個別」という感じがした。

戦争博物館には
ほかにも拷問の絵や捕虜たちの写真が
不発弾などといっしょに展示されていた
棚に並んだ青いガラスの一升瓶を見ていると
ぼくの家にもあった空き瓶が重なり
いつもおどおどしていた母と
軍隊帰りの酒乱の父が思いだされた                 (死の鉄道)

 ほんとうに「一升瓶」なのか、一升瓶に見える瓶なのか。どちらでもいいと思うが、そこから山本は「ぼくの家」に引き返し、「母」と「父」を呼び出してきている。さらに父の行動に「戦争」の影響を見ている。ここは、山本にしか書けない行である。
 このことばの展開の中で、山本は「重なる」という動詞をつかっている。一升瓶と一升瓶が重なり、そして、そのまわりにあるものが同時に重なる。重なりは広がっていく。この動きのなかに、山本という人間がいる。
 こういう「重なり」と「広がり」の組み合わせがあれば、この詩集はもっと豊かになるのになあ、と思ってしまうのだ。
 山本は「思いだす」という動詞もつかっている。「思い出す」は山本が過去へ行くことではない。過去をいまとして、ここに呼び出すことだ。過去は存在しない。いつでも、「思い出す」という「いま」の行為があるだけなのだ。
 どれだけ「過去」を「いま」、この瞬間に呼び出すことができる。呼び出された「過去」には「時間」はあって「時間」はない。ただ「いま」だけがある。「いま」から「未来」へ動いていくものだけがある。
 次の部分は、さらにいい。

よれよれの十タカ紙幣三枚と
突っ返されるのを半ば覚悟で
ババ抜きのババのような
破れた五タカ札をチップで出した
若い男はいいともいやだとも言わなかった            (パナムノゴル)

 「若い男はいいともいやだとも言わなかった」とは、それでよかったのかどうか、山本にはわからなかったということだろう。「いま」起きていることがわからない。ここに詩がある。ひっぱりだしてくる「過去」がない。「いま」を生きるしかない。そして、その瞬間に、「他人」がいる。
 山本は、ここでは「他人」と出会っている。
 さらに、こういう行もある。

アメリカ軍が空から撒いた枯葉剤で
ジャングルは焼け野原になった
その後遺症がいまだにつづいているという
眼球が飛び出た嬰児を見つめている少女に
ぼくは彼女が背負っているベトナムを
説明できないまま強く感じた                    (夏の一日)

 「説明できないまま」が、いい。ここでは「過去」は明らかである。「アメリカ軍が空から撒いた枯葉剤」が「過去」である。それは「いま」も影響として、「過去」から噴出してくる。「眼球が飛び出た嬰児」だけが「過去」ではない。それを「見つめている少女」こそが「過去」なのだ。嬰児は死んでいる。ところが、それを「見つめている少女/見つめた少女」は死んでいない。いや、その嬰児を生んだ少女(女)は、もうこの世にいないかもしれない。しかし、その「記憶」はことばにならないまま生き残っており、それがいま「少女」のなかで動いている。
 山本は、その「動いている何か」を感じている。感じるけれど説明できずにいる。ここに、不思議な正直がある。山本は少女ではない。でも、この瞬間少女になっている。

 ここからである。
 いま、少女になっているように、山本は「酒乱の父」「おどおどしていた母」、あるいは「破れた五タカ札をチップを受け取る若い男」に、なれるか。なる覚悟があるか。その「覚悟」をもってことばが動くならば、この詩集は傑作になったと思う。
 「過去」を批判しなければならないという「良識」が先に立って、「覚悟」があとから少しだけついてきている、という印象が強く残る。「良識」がとらえた「歴史」ではなく、「覚悟」が駆け抜ける生々しい矛盾を、私は感じたい。
 父や母のなかにある「わからないもの」「説明できないもの」を山本が引き継ぎ、その「わからないもの」「説明できないもの」を、様々な土地、様々な人との出会いのなかに「重ね」、そこから「記録」ではないものの方へ踏み出していけるはずなのになあ、と思うのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(18)

2022-05-20 08:35:06 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(18)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 18篇目「夢か、」。
 この詩は不思議な「構成」。「夢か、」という行を冒頭にして、五連でできている。一、二、四、五連目には「父」ということばがある。ただし、四連目の「父」は林芙美子の父であって、石毛の父ではない。だから、ほかの連の父だって、石毛の父ではないのかもしれないが。
 一方、三連目には、そこに書かれている人物が詩人・黒田三郎であると後注で明記されている。「口惜しさのあまり、火の玉を、威勢よく吐き出していた」ような黒田は、石毛にとって父のような存在だったのか、と私はなんとなく思うのである。意識せずにはいられなかった、ということだけは確かである。
 では、父とは、どういう存在なのか。

下総台地のふもとを、汽車が走っている。
それに乗って、水郷佐原を廻れば、
----黙っていてもヨ、千葉サ、着ぐど。
どこか、あどけない眼で
----横浜サ、行ぐならば、乗り換えろ!
父の慣れた東京指南など、わたしは素通りした。

尾道の親不孝通りで、林芙美子の父が
----汽車に乗っていきゃア、東京まで、沈黙っちょっても行けるんぞ。
娘は、心配顔で訊く
----東京から先の方は行けんか?
父は、東京行きを制するように
----夷(エビス)の住んどるけに、女子供はいけぬ。

 父とは、子の知らないどこかを知っていて、そこへ行く方法を知っている。つまり「道先案内人」である。それだけではなく、そのとき「方向」を示すのだ。行ってはいけないということも言うのである。それを子供が守るのかどうかは別問題だが。
 石毛は、黒田の詩から、そういう「方向性」を学んだのかもしれない。教えられたと感じているのかもしれない。つまり、ひそかに、黒田を「ことばの父」と思っているのかもしれない。
 で。
 この父なのだが。父のことばなのだが。
 最終連では、ちょっと違う感じで動いている。

わたしは、アキアカネの群れを、指さしたが、
----秩父と下総は、地下で繋がってから
    銚子の犬吠埼に、秩父の地層が露出しているんだとよ。
    ここは、秩父おろしも吹くんだっぺ。
父は、「どうだ!」とばかりに
自転車の荷台に
わたしを、きつく縛りつけた。

 ひとは汽車に乗って、たとえば東京へ行く。それが人間の旅。ところが、最終連の父は、そんな「移動」に意味があるとは思っていない。土地、地層は繋がっている。それは「地下」にあるだけではなく、ときには表に「地層」を露出させ、そのつながりを知らせる。「土地/地層」にはそういう力がある。
 これは、たとえば「東京」を目指さなくても生きて行ける、東京で生きているのと同じことができる、という意味になるかもしれない。
 石毛は、そういう「ことばの地層の運動」のようなものを黒田から引き継ごうとしているのか。人間の口惜しさを火の玉にして吐き出すことばの運動を引き継ごうとしているのか。
 私の感想は、あれこれ交錯するのだが、二、四連めの「移動」が「汽車」だったのに、最終連では「自転車」であることもおもしろいと思う。最終連の父は、汽車に乗ってどこかへ行こうとは思っていない。行くのは自転車で行ける範囲で十分だ。そんなことをしなくたって、「地層」はつづいているのだ。ここにいて、「地層」に働きかけ、それをあちこちに露出させればいい、と言っているようである。
 「どうだ!」というのは、おれはこうやって生きる、おまえにこういう生き方ができるか、と問いかけているようでもある。これは、たいへん強い父である。子供の「反感/反抗」を誘って、子供を試している。
 ここから、一連目に戻る。

夢か、
古くさい自転車の荷台から、降ろされ
笑って、見物していた。
横浜「野毛山動物園」の、晩春のゴリラ--。
父のすがたは、畜舎に影を消していて
餌のお礼に
ゴリラは、おのが糞を投げてよこした。
かれの、みごとな制球を
わたしは、にやりと笑えなかった。

 父は、求められれば(求めに応じることができれば)、子供をどこへでもつれていく。好きなことをさせる。ゴリラに餌をやりたい。やればいいさ。その結果、何が起きるか。それは餌をやりたいと言った子供が自分の「肉体」で覚えればいいことである。
 父とは、いつでも「にやりと笑う」存在かもしれない。
 そして、子供とはいつでも「父の指南」を無視する存在だろう。
 そして、そこには、やはり「地層」のようなものが、どこかでつながっているのかもしれない。
 そして、互いに「どうだ!」と言い合うのが、父と子かもしれない。

 さて。
 石毛は、黒田に対して、どんなふうに「どうだ!」と言い返しているのか。黒田の詩をあまり読んだことがない私にはわからないが、どこかで「どうだ!」と言い返したくて石毛は詩を書いているんだろうなあ、と思い、私はなんとなくうれしい。
 何と言えばいいのか。
 石毛は、「父としての詩」を書いている。こんな詩を書く人は、いまは、いない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(17)

2022-05-19 08:44:53 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(17)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 17篇目「白秋を笑った」。後注に田村奈津子の名前が出てくる。二〇一八年一〇月一一日、十七回忌。知らなかった。
 田村奈津子の名前は、石毛から聞いた。石毛、田村、私の三人で同人誌をやったのだったか、田村に断られて石毛と二人で同人誌を出したのだったか、うろ覚えだが、石毛が田村を誘い込もうとしたことは覚えている。たしかそのとき田村の詩集を読んだような気がするが、これも定かではない。
 こういうことは詩を読むときに、どう影響するのか。
 私は、突然、ぼんやりしてしまった。
 きのう読んだ「六根、リヤカーを引け!」には知らないひとが出てくる。登場人物のことを何も知らないので、私は「ギリシャ悲劇」の一シーンを見るように、勝手に想像し、興奮した。
 そのときの興奮が、この詩では起きない。そのときの興奮が、やってこない。きょう興奮しすぎたせいなのかもしれないが、「ぼんやりした記憶」がぼんやりしたまま私を包む。
 田村奈津子って、私にとって、何だった?
 石毛にとっては?

もしや?
ここ 催涙の懐古寺に
きみは いないのではあるまいか
いない!
眠っていない きみは
ちるがいとしく 白秋を笑った。

 追善に来た。墓碑に田村奈津子の名前を確かめた。確かめたけれど、そんなことで人間が存在(出現)するわけではない。
 石毛は、田村が白秋を批判した(たぶん)、笑った、ということは覚えている。笑ったといっても、実際に、石出の目の前で笑ったのではなく、詩に書いた笑ったのかもしれない。それを思い出している。
 「ちるがいとしく」というのは、白秋の短歌の中に出てくる。副題に引用している。「草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしくて寝て削るなり」。腹這いになって、赤い色鉛筆を削っている。見ているのは赤い色だが、補色の草わかばのみどりを連想する。そこから逆に赤い粉を愛でる、というちょっと現実と幻想が交錯するような短歌だ。それを田村は、どう批判したのか。笑ったのか。
 石毛の詩から、その具体的な内容(ことばの細部)まではわからない。石毛が田村を思い出している、それも白秋と関係づけて思い出している、ということだけがわかる。
 その批判を聞いて、石毛がどう感じたかもわからない。
 でも、これでいいんだろうなあ。
 白秋批判に触れたとき、石毛は、それに納得したのか、反発を感じたのか。そんなことは、石毛と田村の出会いには関係がない。出会った。そして、何かを感じた。だからいつ死んだのかまで覚えていて、追悼のために寺まで訪れている。
 この詩には、「六根、リヤカーを引け!」とはまったく逆の、とても静かな何かがある。この静かさのなかで、私はただ「あ、田村奈津子という詩人がいた」と思い出す。誰だったのだろう。どんな詩人だったのだろう。私にはわからないけれど、確かにその名前を私は思い出すことができる、と思い出す。
 私と違って、石毛は……。
 そう、石毛は、はっきり意識している。田村は墓の中に眠っていない。田村は田村の書いたことばのなかにいる。ことばのなかで生きている、と。いま、田村は、石毛と一緒に生きている、と。

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(16)

2022-05-18 08:06:23 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(16)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 16篇目「六根、リヤカーを引け!」を読みながら、詩とは不思議なものだと思う。詩だけではなく、文学が不思議だし、ことばが不思議なのだ。

そんなに むちゃ引きしていいのかね
急げば 六根 からだにさわります
少し乱暴だが 是が非でも会っておきたい友がいる
どこか あどけなく右手の中指で
解放の二文字を 宙に 書き綴る
肺病に囚われた 気丈の男が
リヤカーの荷台で おれの六根を急かす
松の 竹の 梅の小径を 蹴散らして
リヤカーを はやく引け!
東村山「国立療養所多磨全生園」へ

 前書きというか「副題」というか。それとつきあわせて読むと、どうも肺病の男が、友人の危篤の知らせを聞いて、どうしても会いたくなり、リヤカーに乗って駆けつけようとしている。
 で、不思議、というのは。
 こういう詩を(ことばを)読んだとき、私は何を思わなければいけないのか、ということと関係している。
 「どうか間に合ってくれますように」と思わないといけないのかもしれない。それが「人情」というものかもしれない。
 ところがね。
 もちろん「間に合わなければいい」とは思わないが、「間に合う」「間に合わない」ということとは無関係に、この急いでいる様子に興奮してしまうのである。リヤカーを引かせ、その荷台から「もっとはやく」と叫んでいる男の様子に夢中になってしまう。引きつけられてしまう。「もっとはやく」という叫びを、もっと鮮明に聞きたいと思ってしまう。
 リヤカーを引かせている男だって死ぬかもしれない。彼の方が危篤の男よりも先に死ぬかもしれない。そうであったとしても、その男の苦しい熱望を見たいと思ってしまう。

 私は非情?

 そうかもしれない。けれども、この興奮を抑えることができない。
 そして、この興奮が、なんというか、書かれている「事実」よってのみ引き起こされるかといえば、そうではないのだ。いま起きていることを語る「ことば」、その「音」「リズム」によってもかきたてられる。

そんなに むちゃ引きしていいのかね
急げば 六根 からだにさわります
少し乱暴だが 是が非でも会っておきたい友がいる

 一行目は、誰のことばか。「いいのかね」という、突き放したような口語の口調。「むちゃ引き」というのも、激しく口語だ。二行目は、一行目のことばを言ったひとのことばかもしれない。今度は「からだにさわります」とていねいに諫めている。そのとき「六根」ということばを挟んでいる。「六根」は「かけ声」だけれど、本来の意味は「五感+精神」だと思う.だから石毛は「六根」を「からだ」と言い直し、ことばをつづけている。私は「六根」ということばを日常はつかわないから、ここで、突然、「異次元」へ引きずり出される感じがして、それが私をさらに興奮させる。
 三行目は、リヤカーを引かせている男の思いだろうけれど、今度は「友がいる」と、ふうつ体の表現。
 「文体」が三行のなかで、激しく交代している。そして、そこに先に書いた「六根」という、ふつうはつかわないことばも動いている。何か、この三行だけでドラマチックなのである。ドラマというのは、ハッピーエンドでなくても、感動する。ドラマであることによって感動する。そういう世界へ石毛は私をひっぱっていく。

清瀬、松竹梅を冠した 町のことほぎに
隠された陸の孤島から そこの塞ぎを 突破して
---ゴロゴロ、ガキガキ、ゴロゴロ、ガキガキ。
やくさむリヤカーを はやく引け!
白木蓮も 欅も 白樺さえも
無差別に 木を一括りにして
---それは、樹木というものだ!
粗っぽく片づけてしまうように

 私の引用は、詩を正確につたえることには役立たないかもしれない。どの行がどの行と関係しているか、それを気にせずに、ここがカッコイイと思ったところを、その部分だけ取り出しているからだ。
 ここでは「ゴロゴロ、ガキガキ、ゴロゴロ、ガキガキ。」という音が強い。昔は砂利道。リヤカーを引けば石がぶつかりあい音を出す。それはリヤカーにも反映する。だからこそ、「からだにさわります」という最初に引用した二行目のことばもあるわけだが。
 さらに、ここには「やくさむ」という、これまた、もう日常では聞かないことばが突然あらわれる。リヤカーに乗っている男も病人なら、それを引いている男(だと思う)もまた病人であるのか。そうであるなら「からだにさわります」はリヤカーを引いている男が私にはむりです、といっていることになる。それを承知で、しかし、乗っている男は「はやく」と叫んでいることになる。
 これではもう三人とも死んでしまう。
 しかし、三人が三人とも一緒に死んだら、それはまたドラマチックでカッコイイと思うだろう。私は、そういうことを望んでいる。その私の「望み」のなかでは、リヤカーに乗っている男、引いている男、それから危篤の男は、三人でありながら「ひとり」であり、その「ひとり」が石毛を乗っ取り、石毛を動かしている。逆に、石毛が三人を乗っ取り三人を突き動かしているとも言える。このドラマは、ハッピーエンドでは終わらない。ハッピーエンドで終わってほしくない。いや、ことばのなかで、劇的な不幸、絶望がが起きることを私は望んでいる。ギリシャ悲劇を見るように。
 ことばには、そういう理不尽な興奮を引き起こす魔力がある。そういう魔力を持ったものが、文学であり、詩なのだと思う。

富蔵よ!
おまえに 遭わねばならない
会って 言わねばならない
富蔵よ!
肺病タカリの息に のけぞるおまえの霊気は
秩父颪の砂塵に たえているか
狭山丘陵の白神 八国山にやくさむ たそがれ
ヤクザなリヤカー ニヒルな陶酔 すがる泪をうちすえて
---ゴロゴロ、ガキガキ、ゴロゴロ、ガキガキ。
やくさむリヤカーを はやく引け!
餓鬼のをぐりは 土車に引かれ 担がれ
---えいさら、えい!
道中 掛ける声が やけに昂り
全生園の欅並木 いっきに駆け抜けて
---もっと、速く。もっともっと速く、引いてくれまいか。
   もっと、もっと速く、引いてくれまいか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(15)

2022-05-17 08:51:15 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(15)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 15篇目「コーヒールンバ異聞」。この作品については、わりと最近(たぶん、今年だと思う)、感想を書いた。感想を書いたということは覚えているが、ほかは何も覚えていないので勘違いかもしれない。こんなことは詩にとってはどうでもいいことか。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。ほら、この詩の「題材」が「コーヒールンバ」なのだから。
 で、私が、いま書いた「ほら」の意味がどれだけ他人に伝わるか。たぶん石毛には伝わるだろうと思う。私の感想は、もともと「返信」のようなものだから、作者以外に伝わらなくても気にしないし、作者がその感想を気に食わなくても気にしない。だいたい、「気に食わない」という反応以上に、感想が届いたという明確な証拠(?)はないのだから、作者が気に入らないというのなら、それは私の感想に対するいちばん正確な反応だろうと思う。私は私の感想を書くのであって、作者の気持ちを代弁するわけではないから、どうしたって作者の思いと違うものがある。
 あ、どんどんずれていくが。
 「ほら」というのは、なんというか、「ほら、これ知っているだろう?」「ほら、さっき言っただろう」というような、何か「既知」のものを提示し、それについて語るときにつかう。「その」とか「あれ」とかに近い。何も知らないものを話題にするとき、「ほら」とはいわない。
 で、その「ほら」が、この詩で指し示しているのは「コーヒールンバ」である。「ほら、あのコーヒールンバだよ」。もっと補足するなら「ほら、西田佐知子が歌っていたコーヒールンバだよ」ということになる。この「ほら」は、私にはよくわかる。この歌がはやっていたころ(昔は流行期間が長かった)、私もそれを聞いたことがあるからだ。西田佐知子のビブラートの少ない声、起伏の少ないのっぺりした声と、リズムの対比が何とも印象的だった。のっぺりした声が、曲のもっているリズムを逆に浮かび上がらせる「補色」というのか「通奏低音」というのか、そんな感じがした。
 また、脱線した。
 そして、その「ほら」なのだが(行きつ戻りつするが)、それは一種の「ずれ」の指摘というか、「意識の喚起」を促す。「ある事実」がある。その「事実」と、それとは別の人間の「錯誤」を指摘する。「事実」と「意識」があっていないとき、「ほら」をつかう。「ほら、さっき注意したじゃないか」は、「注意したのに、それを守らないから、いまこんなことになっているんだろう」ということである。
 「錯誤」「齟齬」の指摘。
 ここから、石毛の「コーヒールンバ」がはじまる。
 コーヒーの自動販売機が「コーヒールンバ」を流していても、ふつうは、そんなにおかしくない。「コーヒーはここにあるよ、コーヒーをのむと恋ができるよ」。でもね、その自動販売機が、東日本大震災後の福島にあったとしたら、近くに東京電力の原子力発電所があったとしたら、まわりが瓦礫だったとしたらどうだろう。
 「あ、コーヒールンバか、なつかしいなあ」と思うだろうか。
 強引に考えていけば「西田佐知子、どうしてるだろう。西田佐知子といえば、60年安保。アカシアの雨に打たれて死んだのは誰だっただろう。あのひとの恋人はコーヒーをのんだだろうか。あれから日本はアメリカべったり。その果に原発(原子爆弾の原料製造所)がある。それが大震災で日本だけではなく、世界中を危機に直面させた」と言えないこともないけれど、まあ、そこまでは考えないだろうなあ。
 で。
 ともかく、「ずれ」、「違和感」に直面したとき、「ほら」ということばが一緒にうごくのだが、石毛は、ここでは「ほら、あの西田佐知子の歌ったコーヒールンバを、瓦礫の中の自動販売機が流している。これって変だろう? 何かおかしいだろう?」と言っている。
 何がおかしいか。
 それは、まあ、読者である私が考えればいい。私以外の読者も考えればいい。

うたって ごらん
自販機 変奏コーヒールンバ
歌詞のない歌が
瓦礫の山に こだまする
ニヒルな愛のうた
遠く崩れ落ちた 原発建屋がみえる
子どものあそぶ 声もない
理不尽な寂寥 コーヒールンバ
だれも通わぬ 瓦礫砂漠
異彩を放つ コーヒールンバ

瓦礫の片隅で
自販機は ただひとり
歌を うたっている
そこだけが やけに明るい
コーヒールンバ!

 しかも、この「コーヒールンバ」には、実は西田佐知子の歌声はない。だから「むかしアラブの偉いお坊さんが」と歌えるのは(思い出せるのは)、ほら、石毛や私の世代だけかもしれないのだ。
 石毛は、どこにも「ほら」ということばを書いていないのだが、私は「ほら」という声を聞くのである。「ほら」と言われたとき、たいてい指摘されたひとは「だって……」と言い訳をする。
 ここから、「ほら、こんなひとも通らないところにコーヒーの自動販売機がある。おかしいと思わないのか」と指摘されたとき、「だって……」のあと、たとえば東京電力は、あるいはこの自動販売機を設置したひとは、なんと「言い訳」するだろうか。
 そんなことも、私は考えたりするのだ。
 「感想」だから。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江上紀代『空を纏う』

2022-05-16 08:31:42 | 詩集

江上紀代『空を纏う』(鉱脈社、2022年04月15日発行)

 江上紀代『空を纏う』は初々しい詩集である。詩を書く、ことばを書く喜びにあふれている。
 「みどり児」の全行。

蕗の薹が さっき生まれた

難民キャンプの闇を発ち
コンクリートの分厚い壁を破り
鉄条網の棘をすりぬけ……

地べたを貫いてここに生まれてきたとき
キュンと泣いた事を 誰も知らない

音をたてずに滑らかに廻る秒針は
誕生の時刻など カウントしない

産毛の乾かない嬰児のため
誰も 子守唄をうたわない

午後の陽ざしは やがて
北向きのこの一角を見つけるだろう

まだ風は つめたい

 「嬰児」には「みどりご」というルビがふってある。この少し気取ったことば(日常的には、あまりつかわない文学的?なことば)と「キュンと泣いた」の「キュン」の対比がおもしろい。「キュン」だけでも、あ、いいなあ、これが書きたかったんだなあとわかるが、それを「みどりご」によって引き立てている。「えいじ」では「キュン」の魅力が9割方損なわれてしまう。音が「漢字漢字」している。「みどりご」の、「和語」のやわらかさと「キュン」が似合っている。「みどりご」とは、もう言わなくなっているので、あえて「嬰児」という漢字で説明しているのだろう。(「蕗の薹」にも「ふきのとう」のルビがある。)
 「キュンと泣いた事を 誰も知らない」の「誰も知らない」もいいなあ。江上以外の「誰も知らない」。書かれていない「江上以外」に意味がある。詩とは、他の誰も知らないけれど、作者が知っていることを書いたものだ。つまり、作者が発見した「事実」を書くのが詩なのだ。
 「事実」を書けば「真実」になる。
 ここには、その実戦がある。
 「難民キャンプ」などのことばからは、江上が、単に春の風景を描いているだけではなく、世界で起きていることにも視線を注いでいることがわかる。しかし、そのことは声高には語らない。つまり、「主張」まではしない。見守って、こころを痛めている。そういう「慎み」のようなものも感じさせる。
 「分を守る」ということばに私は与するものではないが、何か、江上にはこの「分を守る」という「正直」があり、それがいっそう「キュンと泣いた」を引き立てている。思わず、あ、生まれたてのフトノトウを見に行きたいと思うのだ。それはフキノトウを見ると同時に、フキノトウを通して江上に会いに行くということでもある。
 「帰郷」も、「声」をもたないものの「声」を聞く詩である。

その駱駝は少し
後の左足を痛めている
群れを離れ
空を仰いではいるが
眼は閉じたままだ
松の林の匂いと
おだやかな丸い雲と 柵と
飼育員さんから
過不足なく与えられる食物と水と

母さん、僕は足が痛いんだ
彼は うちに帰りたかった

ゴビの砂嵐の音も忘れかけている
柵を越え 松林を抜けはしたが
磁石を持たぬ彼は途方に暮れた

どうして僕はここにいる
どうして僕は帰れない

そうして今
彼は闇を待っている

今日も眼を閉じたまま
空を仰ぎ 夜を待つ
闇に眼を開けば
故郷が見える気がする
その時
ふたつの瘤は帰郷の翼になるのだ

 二連目の二行がとてもいい。「母さん、僕は足がいたいんだ」と駱駝が突然、言う。それにつづくことばは「僕は うちに帰りたい」ではない。「彼は」うちに帰りたかった。ラクダの声を江上が代わりに言っている。それは江上がラクダになっているということである。もちろん「僕は うちに帰りたい」でも江上はラクダになっているが、それでは「代弁」しすぎる。ラクダの声を「聞いた」というときの、「聞いた」の印象が薄くなる。「正直」を通り越して、「主張」になる。
 感情が整えられ、主張になるまでには、きっと様々なことをくぐり抜けなければならない。印象、想像を確かめながら、ひとつひとつ、ことばにしていく。その過程で、少しずつラクダになっていく。一気にラクダになってしまうのではなく、少しずつ寄り添っていく。その寄り添いに、私は引きつけられる。江上がラクダになるのではなく、私がラクダになる感じがする。
 最後の、

ふたつの瘤は帰郷の翼になるのだ

 この大胆な飛躍は、少しずつの寄り添いがあったからこその飛躍である。
 最初に「初々しい詩集」と書いたが、この最後の飛躍は、やはり詩を書き始めて間もない人間だけが必然的に抱え込んでしまう大胆さである。
 とても美しい。
 ちょっと逆戻りするが、書き出しの「その駱駝」の「その」もとてもいい。江上の意識にラクダは定着している。きょう初めて見たのではない。何度も何度も見ている。見守り続け、寄り添い続けている。それが最終連の「今日も」ということばに反映されている。きのうも、きょうも、あすも、なのだ。
 そして、それはラクダを「彼」と人間を指し示すことばで言い換えているところにも反映している。見守り、寄り添い続けているから、ラクダは動物ではなく、江上にとってはひとりの「人間」なのだ。
 ここにも、とても自然な美しさがある。作為ではなく、正直の美しさがある。

 詩集はⅠとⅡの二部に別れている。Ⅰに感じられる静かなこころの痛みはⅡではいっそう深くなる。江上はⅡを書きたいのかもしれない。書かずにはいられないのだと思う。そう理解した上で、しかし、私はⅠの作品群の方が好きだと書きたい。
 ほんとうに初々しく、あ、こんな気持ちでもう一度詩を書きたい、書いてみたいと思うのである。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(14)

2022-05-15 18:20:22 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(14)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 14篇目「母語について」。ここで言われる「母語」は生まれ育ったところで聞いたことば、ということ。「方言」のことである。

---おしまいな!

夕闇を 断ち切って
〈おしまいな!〉の声がする
仕事を手を とめて
声の主を 確かめる

---いつまで やっているんだあ!
   いい加減で やめなさい!

そういうことだと 祖母の背中で教わったのだ

 いいねえ、この「おしまいな!」。
 似たことばが私の田舎にもあったと思うが、忘れてしまった。「からだを壊したら、なんにもならんよ」くらいの意味だった。何をするにしても、そのことばがついてまわった。私は病弱だったから、田畑の仕事はほかの友人に比べると少なかったが、それは学校の宿題やなんかをしているときにもついてまわった。これは私にはなかなかおもしろいことに思えた。勉強しろ、と言われたことはない。もう、やめておけ、とは何度も言われた。それこそ繰り返し繰り返し、言われ続けた。私は医者に「朝6時に起きて、夜は9時には寝なさい」と言われ、それを就職するまでつづけた。寝る時間は、たいてい9時よりも早かった。それでも「もう、寝ろ」と言われた。ほんとうにからだが弱かったのである。貧乏だから、病気になられたら医者代がかかる。困るというのが親の本音だったのかもしれないが。
 でも、そのことばには「お」がついていなかった。石毛が育ったところでは「お」がついている。ていねいなのだ。相手に対する思いやりがある。それは、自分自身への、きょうはよくがんばった、という労りも含まれているのかもしれない。互いに、一生懸命にやった。だから、きょうはここまで、と互いに納得しあう、労りあうための「おしまいな!」。これは、悪く言えば(?)、「私はもう疲れた。おしまいにするよ。おまえも、さっさとおしまいにしてもらわないと、私は困るよ」くらいのニュアンスが含まれていると思う。
 言い直すと、ちょっと「ずるい」のだ。
 この「ずるさ」は小さいころは、わからない。疲れるといっても、ほんとうに疲れたことがないからだ。子どもの疲れは、30分眠ればとれてしまう。でも、親たちの肉体労働は、なかなか、そうはいかない。ときには「からだに鞭打ち」というようなこともあるだろう。だから、「おしまいにしなさい」は、「おしまいにしたい」でもあるのだ。微妙に、相互に、意識が動いている。誰のためでもない。きっと「みんな」のため。
 「ずるさ」の落ち着く先は、いがいと「健全」なのである。
 そういうことを、石毛は、違う「場面」で思い出している。「違う場面」と書いたが、それは明確には書かれていないので、私の「誤読」かもしれないが、こういうことである。

おれには いま
〈お終い〉にすることなどないのに
耳障りで 凡庸で 一様な悪態に酔っぱらった
未来への希望を 戦力でまかなうなんて
そのしとやかな獣の匂いすら
感じさせないで 酔わせる
案隠な協力要請を にくむ

 「未来への希望を 戦力でまかなうなんて」ということばから、私は、いま石毛が「肉体労働」の場ではなく、どこかの「会議」かなにかの場にいるのだと思う。そこで議論が白熱してくる。結論が出ないまま、もう「お終いにしろ」と誰かが言う。もう主張するな、と言う。そこにも「お」がついているが、この「お」は「おしまいな!」の「お」とは違うのだ。
 肉体労働の現場では、互いにいたわりあうことばだったのに、議論の場では違う。特に、そこに「戦力」が絡んでくる議題のときは、違う。とうてい「お終い」にはできない。だが「お終いにしろ」と誰かが言う。
 ああ、あのなつかしい「おしまいな!」はどこへ言ったのか。

案隠な協力要請を にくむ
どうして 晩方の労働停止の挨拶なのに
おしまいな! と
「御」を抱いた優しさなの?
どうして 挨拶のことばのことなのに
そんなに 哀しむのですか?
その たおやかなことばが 消えていく
戦時 飢えて 首をくくる寸前のときに
その〈おしまいな!〉の声に 助けられた
復員兵もいたというのに---。

 「たおやかなことばが 消えていく」は、先に引用した「未来への希望」
つかっていえば、「未来への希望が 消えていく、戦力に頼るという思想(考え方)によって」ということになる。「戦力による安全(未来の保障)」には「互いへの思いやり」を欠いている。ただ自分のことしか考えていない。自分の安全のために、他人を殺す。殺される前に、相手を殺す。そういうことからはじまる「終末」は「おしまいな!」からは、はるかに遠い世界である。

 母語とは何か。単に生まれ育ったところで聞き覚えたことばではないだろう。「ことば」ではなく、そこには人間関係があったのだ。人間関係が「ことばの肉体」となって動いているのだ。
 いま、人間関係を含んだ「ことばの肉体」というか、そういう「ことば」がどんどん減ってきている。ロシアがウクライナに侵攻して以来、その動きは恐ろしいくらい加速化している。
 きょう(2022年5月15日)私は読売新聞で社会部長・木下敦子の「作文」を読んで、そういうことを感じた。(ブログにも書いた。)「正義」を装って「正論」を書いているが、その「ことば」からは、日本人の(日本の)隣人である朝鮮半島や台湾(中国)への思いが完全に消し去られているし、いま日本で起きている「朝鮮学校」への差別の問題、外国人労働者、その子どもたちへの配慮もない。「母語」のことを書きながら、「ウクライナ人の母語」という世界で完結している。「日本人」がいないのである。木下敦子は「日本人」であるはずなのに。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする