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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三木清「人生論ノート」から「噂について」

2022-11-20 20:50:50 | 詩集

 

  「噂について」には、非常に難しい部分がある。

 噂は評判として一つの批評であるといふが、その批評には如何なる基準もなく、もしくは無数の偶然的な基準があり、従つて本来なんら批評でなく、きわめて不安定で不確定である。(285ページ)

 ここでは、「評判」と「批評」が対比されている。三木清は「評判」には「基準」がなく、「批評」には「基準」があるといいたいのだが、「その批評には如何なる基準もなく」と書いている。そのため、イタリア人青年は「批評には基準がない」と書いているため、よくわからない、というのである。これは「批評」という強いことば(名詞)にひっぱられて、その直前の「その」を見落としているためである。
 三木清は「噂は評判として一つの批評である」と定義するところからはじめている。「評判=批評」。そして、その定義を受けて「その批評」と書いている。したがって「その批評」とは「評判」のことである。これが最初の「難関」といえる。
 私が感心したのは、この「つまずかなければならないところ」で、きちんとつまずき、そこがわからないといえる読解力である。日本の高校生といっしょに三木清を読んでいたと仮定して、この部分で、「ここがわからない」と質問する高校生が何人いるだろうか。イタリアの青年はネイティブではない。日本語の学習者である。しかも、2年も学習しているわけではない。

 噂はあらゆる情念から出てくる(略)ものでありながら噂として存在するに至ってはもはや情念的なものでなくて観念的なものである。--熱情をもつて語られた噂は噂としては受け取られないであらう。--そこにはいはば第一次の観念化作用がある。第二次の観念化作用は噂から神話への転化において行はれる。(286ページ)

 この部分は、その後の「歴史」の問題(歴史と神話の違い)へとつながっていくのだが、「情念の観念化作用」を把握するのが難しい。「情念」はあくまで「個人的」で基準を持たないのに対し、「観念」は何らかの共有できる「基準」のようなもの、理性を持っている。
 だからこそ、この部分は、こう言い直される。

 噂は過去も未来も知らない。噂は本質的に現在のものである。この不動的なものに我々が次から次へと移し入れる情念や合理化による加工はそれを神話化していく結果になる。(286ページ)

 「情念や合理化による加工」という表現に注目すれば「情念」と「観念化作用」が対比されていたように、ここでは「情念」と「合理化による加工」が対比されていることがわかる。つまり「観念化作用」とは「合理化による加工」のことである。そこには「合理化」という基準があり、それゆえに共有される。前の文章にあった「神話への転化」は「神話化」という短縮形で言い直されている。
 どのことばが、どう言い直されているか。これを、「誘い水」を向けると、ちゃんと答えることができる。その結果として、文意を把握できる。
 最後の方に、こういう文章がある。

 噂の問題は確率の問題である。しかもそれは物理的確率とは異る歴史的確率の問題である。誰がその確率を計算し得るか。(288ページ)

 この部分だけ読んだのでは、誰にも意味がわからない。「物理的確率」と「歴史的確率」の違いを説明できるひとはいないだろう。しかし、「基準」ということばを参照し、ことばを補うと、きちんと説明ができる。
 ここでは詳しく書かないが、イタリアの青年(18歳)には、それができる。
 いっしょに三木清を読んでいて、とても楽しい。何よりも、三木清の文章が大好きといってくれるのが、とても嬉しい。

 私は三木清が大好きだが、だれか、三木清の文章が好きなひといます? 三木清読書会のようなものを始めたいと思っているのだけれど。

 

 

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小松正二郎『聲』

2022-11-20 17:16:01 | 詩集

 

小松正二郎『聲』(モノクローム・プロジェクト、2022年10月20日発行)

 小松正二郎『聲』は強い声に満ちている。詩集のタイトルになった「聲」の書き出し。
「聲がする。あなたの弟の血が大地からわたしに叫んでいる。」

この一日に終わりは来ないだろう
陽は垂直に上昇し再び帰らないだろう
明け染める紅は東天の栄光を返上するだろう
日も月も年も円環の巡りを放棄するだろう

 これは「現実」の描写ではない。では、何を描写しているのか。「だろう」ということばに注目すれば「未来」である。つまり、これは「予言」である。「予言」なのだが、「だろう」が「予言」を隠している。現代において「予言」は効力を失っていて、どうしてれ「推測」に終わってしまう。それを再び「予言」にするには、ことばに強い響きが必要である。たとえば「陽は垂直に上昇し再び帰らない」。このことばが象徴的だが、これは私たちの知っている「日常(現実)」の法則を超えている。だからこそ、「予言」でもあるのだ。
 すべての行から「だろう」を取り去って

この一日に終わりは来ない
陽は垂直に上昇し再び帰らない
明け染める紅は東天の栄光を返上する
日も月も年も円環の巡りを放棄する

 でもいいのだが、それでは「空想」になる。だから「だろう」を小松は補っている。ということは、それにつづくことば「だろう」を補って読むと、小松の書いていることが明確になる。
 「だろう」を補って引用してみる。

もう肩車もできないだろう
ぼくは
こどもたちが怖がらないように
そっと後ろから近づくだろう

 「だろう」がない原文よりも「リアリティ」が強くなることがわかる。
 「予言」は「言う」ということであり、「言う」とは「ことばを存在させる」ということである。「ことば」が「できごと」を「事実」そのものに高めていく。
 「天使論」の書き出し。

基督教グノーシスの一派はエデンの蛇にイエスを視たと言う。

 この「言う」は「証言」である。「証言」であることによって、「予言」になる。ことばの強さが「時間を超える」のである。
 あらゆる動詞の最後に「だろう」「と言う」を補って読むと、小松の詩はわかりやすくなる。ここに書かれているのは、事実の報告ではなく、「事実」をことばによって「真実」に変えるという行為、あるいは「真実」を「事実」にひきもどすという行為である。
 そして、そこには「事実」や「真実」があるのではなく、「事実」「真実」を語る人間が存在するということがある。「予言」が「予言者」を必要とするように、この詩集のことばは、小松という詩人を必要とした。そういう詩集である。

 

 

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五月女素夫『五月女素夫 詩選集』

2022-11-19 14:44:30 | 詩集

五月女素夫『五月女素夫 詩選集』(空とぶキリン社、2022年11月15日発行)

 五月女素夫。「詩学」に投稿していたのか、「現代詩手帖」に投稿していたのか、はっきりとは記憶していないが、どちらかの「投稿欄」にいっしょに投稿していた時代がある。その『詩選集』。
 巻頭に「恋」という詩。最初の詩集でも巻頭にあったのかどうか、憶えていない。しかし、この詩は五月女の詩のひとつの特徴をあらわしていると思う。

日本間の部屋の鏡台には
海がうつっている
廊下の ぼおっとくらい すみのほうで
こまかな鼠花火のひのこが舞う
それは狂躁の子供の わすれられた噴水だ
わたしの眸はどこもみていない はるかに
わたしの眸は なにもみない
花のない紫陽花の陰で 雷鳴がなっている
ゆうぐれの海をあがってくると
おまえから わたしの異国がはじまる

 「わたしの眸はどこもみていない はるかに/わたしの眸は なにもみない」という二行が非常に印象に残るが、ほんとうに「みていない」「みない」のか。
 たしかに、「海」を見ていない。見ているのは「鏡」のなかの海である。つまり、鏡は見るが、海は見ない。「鼠花火」は見たかと思ったら、「わすれられた噴水」によってかき消され、比喩の背後に消えていく。「見る」ことを拒んでいると言える。
 しかし、「花のない紫陽花」ということばに注目すれば、五月女が見ているのは「ない」としかいかない何かだとわかる。「ない」を見るのが五月女のことばの運動なのだ。それは、詩の最終行にもあらわれる。

おまえから わたしの異国がはじまる

 「異国」は、ここには「ない」。ここでは「ない」。だから「異国」なのだ。「ない」ものを存在させる、ことばによって出現させるのが詩である、ということか。
 逆に言えば、「見えない」ものを「見る」のが五月女のことばの動きである。
 「海沿いのみち」。

海沿いの 崖のうえへでるみちには
活きた海老をいれる水槽のある漁師組合と
ふるびた氷小屋
バラック建ての珈琲店がたっている
その夏の晩は
あらしふくみの晩で
あやういゆめにみちていた
人が、人をひめて 死地へ赴くようにも
すれちがうひとたちが 今宵
どうしておとなしいなみだを誘うのだろう
海は
あめまじりの天気だ
堤防に腰おろしていた娘がはなしかける
宿の二階 欄干のある窓から歓声があがる
対岸の妻良の港に 花火がうちあげられたのだ

 この作品で、いちばん「見えない」ものは「人が、人をひめて」ということばの、「ひめられた人」だろう。それは、姿か、こころか。肉眼では見えないものを、五月女は見るのである。
 だから引用した最後の行の「対岸の妻良の港に 花火がうちあげられた」の「花火」も、実は、堤防にいる五月女からは見えない。何かが邪魔している。しかし、宿の二階からは見える。その「歓声」が聞こえる。きっと花火を打ち上げるときの「音」も聞こえただろう。しかし、花火そのものは見えない。見えないの「ない」を意識するものだけが、「人が、人をひめて」いる、人のなかに、ひめられた人が「ある」をつかみとることができる。
 「ない」の反対の「ある」は、こんなふうにつかわれている。「道」という作品。

さびしい気持で見たゆめ
道というのは そんなふうにして
ある

 この「ある」は、ほんとうに「道」なのか。「さびしい気持」のように、私は感じてしまう。「気持」だから、それはあくまで五月女のこころのなかに「ある」。つまり、現実にはない。

雨がふり 午さがりの水銀灯がともろうとする
憶いの淵のようなところ
樹木は
雨にぬれて立っている

(略)

幾十年かまえの梅雨のころ
しろいうすいグレーのひとと ひかる雨のしたを
いちど 歩いた

ずいぶんと歩いてくれたこと--

これを話してしまったら
わたしには あとは話すことはなにもない
ちいさな雑木林に挟まれて 道はあった
肩にかかるこまかな葉は 息も止まりそうにしたたっていたろう
雨がふっている
家並みも変わり 樹木はもうないが
道は
その時間からずっとつづいて
ここへ 来ている

 最終連で「ない」と「ある」が交錯する。「ある」は「あった」にかわり、「ない」になる。そしてこの「ない」は「ここへ 来ている」という別の動詞、「来る」になってなまなましく動く。
 「ない」は「ある」。「ない」と「ある」をつなぐ動詞が「来る」なのだ。そのとき「ここ」とは「気持/憶い」である。私のことばで言い直せば「こころ」に「ここにない」ものが「来る」。そして、それが「ある」なる。「こころ」のなかに何かが「ある」とき、それは「こころ」へ「やって来た」なのだ。いつでも、何かがやって「来る」。それをことばにするとき、そこに詩が生まれる。

 

 

 


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竹中優子『冬が終わるとき』

2022-11-08 22:07:05 | 詩集

竹中優子『冬が終わるとき』(思潮社、2022年10月31日発行)

 詩のなかの、どのことばを好きになるか。これは人によって違うのだが、私は、どうも私の好みは他の人とは随分違うだろうなあ、と最近思うようになった。竹中優子『冬が終わるとき』の「なぞる」という詩。

昼の十二時から夜の九時まで忠臣蔵が流れ続けている一月二日
父の友人たちが集まって同じ姿勢のまま酒を飲んでいる、時々チャンネルを
駅伝に変えて
会話は同じところをなぞる

 私は、この「なぞる」という動詞の使い方がとても好きだ。そうか、「なぞる」か、と何度も読み返してしまう。ふつうは何と言うか。たぶん「繰り返す」である。
 むかし、確かに正月に忠臣蔵を放送していた。私は時代劇が大嫌いだから、それがたまらなくいやだったことを思い出す。だいたい忠臣蔵なんて、みんな知っている。(私は知らないくせに、そう思っていた。)そんなものを何度も何度も見て、何かおもしろいんだろう。で、テレビを見ているおとなたちもストーリーは知っているから、ときどき箱根駅伝を見て、順位を確認して、また忠臣蔵にもどるという、テキトウな見方をしている。で、そのときの会話だが、代わり映えがしない。「やっぱり、まだ〇〇がトップか」というのか、「忠臣蔵は長いなあ」というのか、知らない。あるいは、テレビなどそっちのけにして、そこにはいない「父の友人」の話を繰り返すのかもしれない。この「繰り返す」を「なぞる」という。どこが、違うのか。話している本人に「なぞる」という気持ちはあるのか、ないのか。わからないが、「なぞる」には、あえて、いままで話したことから「ずれない」(密着している)という感覚がある。「繰り返している」うちに、話が変わっていくのではなく、「なぞっている」ので話は変わらない。忠臣蔵のストーリーのように。
 なぜか。
 「なぞる」には「意識」だけではなく「肉体」が動いている。たいていの場合「手で、なぞる」。もちろん会話だから、「手」が入ってくることはないのだが、どこかに「手で、なぞる」という感じがして、この「手」の感じが生々しい。「繰り返す」にはない「肉体感覚」。これが、とっても好き。
 竹中は、父たちの会話を、単にことばの動きとして聞いているのではない。そこに「肉体がある」という感じで聞いている。きっと、このとき竹中には、話している内容ではなく、話している「声」で、それがだれの発言かわかっただろう。これは、あたりまえのことなのだけれど、このあたりまえを現実ではなく、詩(文学)のなかで把握するのは難しい。「同じところをなぞる」のは「同じ声」なのだ。ほかの人の「声」はほかの人の「声」でほかの「同じところをなぞる」。それが、顔を見なくてもわかる。

会話は同じところをなぞる
兄と私は硬貨を並べて遊ぶ

 お年玉の硬貨か。まあ、どうでもいいが、このとき竹中と兄は父たちの顔を見ていない。話だって、きちんとは聞いていない。しかし、「声」は識別できる。そして、それが「同じ声」が「同じところ」を「なぞる」のを、まるで、自分の肉体がなぞられているように感じる。で、ここから、変な「共感」のようなものが生まれる。「肉体の接触」(なぞる)は、意識を超えて、意識とは関係ない力で動くときがある。

電気屋を辞めてタクシー運転手になった友達の噂話になり、
(というのも電気屋をやっていた父の友人はみんな電気屋だったから)
退屈したのか
山ちゃんは私を外に連れ出すと
父の車に自分のトラックをぶつけはじめた
ライトの辺りがひしゃげた車を見て笑っていると
何しよるんと父と母と兄が後から外にやってきた

 ここにある「退屈したから」の「主語」は「やまちゃん」なのだが、竹中も「退屈している」。その「退屈」と「退屈」が、融合している。くっついている。区別がつかない。これは変な言い方だが、セックスのとき、自分の快楽と相手の快楽の区別がなくなるのに似ている。肉体の接触は、何か、そういう力を持っている。それが「なぞる」からつづいている。
 セックスが、何と言うか、肉体が一致してしまうと、とんでもないことをしてしまうように、ここでは「山ちゃん」が「父の車に自分のトラックをぶつけはじめた」。しかも「ライトの辺りがひしゃげた車を見て笑っている」。だが「ライトの辺りがひしゃげた車を見て笑っている」のはだれ? 山ちゃん? それとも竹中? わからないというか、二人で笑っているのかもしれない。この、どうすることもできない「逸脱」。それが「なぞる」という不思議なことばからはじまっている。「なぞる」がなければ、このふたりの「笑い」に共感できない。「なぞる」があるかとこそ、そういうことってある、と思ってしまう。
 この詩の最後。

父が死ぬことになったので
ずいぶん久しぶりに父の顔を見に行く、私は中年になっている
山ちゃんは どうしているの と聞いた
死んだんやろうか 父は笑った
白い布に包まれて
優子はお金を持ってるけ、すきなものねだりよと兄が子どもたちに語りか
けている

 ここで、私はまた「なぞる」を思い出すのである。「優子はお金を持ってるけ、すきなものねだりよ」は兄が、あにの子どもたちに言ったことばであるが、それはきっと兄の「オリジナル」ではない。兄は、だれかのことばを「なぞっている」のである。父のことばかもしれない。母のことばかもしれない。あるいは「山ちゃん」のことばかもしれない。「山ちゃん」はまさか「優子にねだれ」とは言っていないだろうが「〇〇はお金持っているから、ねだるとよい(〇〇は金を持っているから、おごらせろ)」というようなことを、父の友人たちが集まったとき言っていたのかもしれない。正月の「飲み会」はどうも竹中の父の家で開かれてゐらしいが、それは他の友人たちに比べて竹中の父が金持ちだったからかもしれない。
 なんとなく無意識に「肉体」にしみついて、それをなぞってしまうことばというものがある。それは、他人との間で「共有」される何かである。
 詩集のタイトルは『なぞる』の方がよかったかもしれない、と私は思う。その方が、何と言うか、不気味である。少なくとも、私は「なぞる」ということばの方に引っ張り込まれる。『冬が終わるとき』という、ちょっと「肉体」から遠いことばを読んだときは、なんだか詩集を読むのが面倒な気がした。でも、今は、もう一度読み返したい気持ちになっている。

 

 


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三木清「人生論ノート」から「成功について」

2022-11-06 21:14:47 | 詩集

「成功について」のいちばんの難関は「成功」と「成功主義」の違い。
「成功=幸福ではない」という論点はわかりやすいが、「成功=幸福」と考えるひとは多い。
そこで三木清は「成功主義(その到達)=幸福ではない」という具合に論を転換していくが、これが微妙すぎて(つまり、「成功と成功主義は違う」というニュアンスの違いが、18歳の日本語学習者には微妙すぎて)、かなりてこずったが、なんとか理解してもらえたような気がする。
日本の高校生に説明し、理解してもらう(自分のことばで言い直せるようにする)のも、難しいかもしれない。

同時に作文指導もしているのだが、これは、ほぼ完璧。「な」の脱字はあったが、こういうミスは高校生だけではなく、おとなでもやること。作家でもやる。
紹介できないのが残念。

 

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伯井誠司『ソネット集 附 訳詩集』

2022-10-30 22:53:58 | 詩集

 

 伯井誠司『ソネット集 附 訳詩集』はタイトルどおりソネットが集められている。4・4・3・3で構成された14行詩。「連」というか、「行」によってリズムをつくる。そのリズムが日本語のリズムに合致するかどうか、これが問題だと思う。
 「雨のころ」という作品の一連目。

しめらに雨のふるころは部屋の明かりを消せるまゝ
窓につきたる雨粒を細きまち針にて留めて、
色とりどりのまち針と雨のしづくのきらめきが
互ひに映り合ふさまを眺めき、壁にゐかゝりて。

 文語体。旧かな。それを支配するのは「音」ではなく、「文字」ということか。いや、「音」もある。七五調である。しかし、それはほんとうにリズムなのか。リズムには違いないが、なにか「人工的」な感じしかしない。「声」がリズムになって響くというよりも、文字が支配する何か。「音」よりも、人工的、という感じの方が先につたわってきてしまう。
  私は、そこに、非常に戸惑いを覚える。私の肉体のどこを探しても、その「音」を受け止めるための何かがない。さらに言えば、それを「声」にするのが、とても難しい。喉や舌をどう制御すればいいのかわからない。
  意味的には「細きまち針にて/留めて」だが「音」は「細きまち針/にて留めて」と句割れになってしまう。句割れは万葉集の時代からあるにはあるが、「人工的」な感じはない。貫いている「音」が強いからだろう。
 伯井の書く音はとても繊細だ。それは聞く音ではなく、「目で読む音」なのかもしれない。
 「細きまち針」が「色とりどりのまち針」に、「窓につきたる雨粒」が「雨のしづく」かわりながら「きらめき」「映り合ふ」と変化しながら、視覚を刺戟してくる。「眺める」という動詞がうるさいくらいに、目を意識させられる。
 これは、二連目で「うすく霞め」る色、「あはくガラスにゝじむ影」を経て、こう展開していく。

そのとき雨はあじさゐも、鉄の柵も、長いすも、
あらゆる部屋や病室も、牢屋も、橋もすべて青--
夢のやうなる夕方のかそけき青に染めにけり。

この世に赤や黄の残るところは、されば、ひとつきり--
壁にもたれて座りたるわれのひたひを照らしつゝ
色とりどりのまち針の影に染むその窓にざりける。

 まるく円を閉じるように「色とりどりのまち針」に戻ってきて、念押しのように「影」と「窓」で終わる。その窓は、窓ではあっても、外が見えるわけではない。「視覚」は内に、細部にとどまることによって、空想の「視覚」、空想の「網膜」になってしまう。
 目の悪い私には、なんとも苦しい。
 「音」が読みたい、「音」が聞きたい、という気持ちになる。目で音を聞くのはつらいなあ。
 「映画の帰り」

男はいつも恋人に優しけれども夜更けには
人を殺してまはりたり。女はかれを疑はず
愛したれども、警察ぞ男が罪を見出だせば
しつこくかれを追ひつめて屋根の上にて撃ち殺す。

さる筋書きの映画をば退屈気味に見しわれは
客の少なき劇場を出でたり。外は肌寒く、
すでに黄昏どきなりき。寂しき路地を抜けたれば、
通りにかゝりたる歩道橋をぞ昇りつる。

 ああ、まるで「無声映画」だ。それなのにスピード感がない。無声映画は、「声(肉体の動き)」を超えるスピード感が魅力なのに。「音」や「音楽」は、どこへ消えたのか、と私は疑問に思う。
 訳詩は、こんな具合だ。杜甫「春を望みて」。

かくこそ国はやぶれたれ、山と河とは残りたり。
城下の町は春めきて草木も深く茂れども、
世のありさまを思ふほど花に涙ぞこぼれおち、
辛き別れを恨みたる心は鳥に驚くよ。

 「意味」が「絵画化」されるのを感じる。「音」が時間を破って遠くへ行く感じがしない。やっぱり「国破れて山河あり」の方がいいなあ。技巧的になると、「音」が間延びする。
 ソネット集で覚えた違和感は、それが音楽的ではなく、絵画的だったことが原因だったかもしれない。
 私は、ふと思い立って、万葉集を読んでいるのだが、万葉には太い声の奥に、言い切れない世界の豊かさがあるが、伯井のことばは「絵画的」に豊かだが、装飾的で、表面的な感じがする。
 いま、生活でつかっている「生きている声」を、私は聞きたい。

 

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唐作桂子『出会う日』

2022-10-25 20:44:20 | 詩集

 

 

唐作桂子『出会う日』(左右社、2022年10月11日発行)

 唐作桂子『出会う日』の「根も葉も」で、私は立ち止まる。

根も葉もなく
たっている

暴力をふるった ゆめの
なまめいたたかぶり
ひふをかきむしりつづける
かわいた音で目がさめた

もともと
根や葉などなかったのだろう


 「根も葉もない」は「根も葉もないうわさ」のようにつかう。「うわさ」は「うわさが立つ」というふうにつかう。だから「根も葉もなく/たっている」を読むと、「根も葉もないうわさが立っている」を連想するのだが、唐作が書いているのは「うわさ」だろうか。「うわさ」を超えるもののように私には感じられる。つまり「うわさ」を補ってしまうと、もう、それは詩ではなくなる。単なる「報告」になる。
 「うわさ」よりも、「うわさ」を生み出してしまう「欲望/本能」のようなものが「たっている」。そこにあるように感じられる。
 「うわさ」を生み出すものは、たぶん「ねたみ」だろうなあ。「うわさ」を立てることで、うわさの主役を陥れたい。この他人を陥れたいという欲望は、いろんな形であらわれる。たとえば「暴力」もそうなのだろう。相手より強いところを見せる。相手に被害を与える。そうすることで自分を相対的に「高める」。それは「なめまいたたかぶり」かもしれないなあ。一方で、それが「正しい」とは主張できなくて、何かが自分で自分の「ひふをかきむしる」ようなことも起きる。
 どんなものにも「二面性」がある。「二面性」があるから、それは「人」という漢字のように、差さえあって「立っている」のか。
 唐作は、そんなことは書いていないかもしれない。しかし、私は、そういうことを書いていると勝手に「誤読」する。「もともと/根や葉などなかったのだろう」が、そういうことを思わせる。「ある」のはどうすることもできない「欲望」だけである。ことばにすることのできない「欲望」。それは生き抜くための「本能」かもしれない。
 そう思って、そこに「ある」ものを見つめると……。

たっている
根も葉もてんでに

黄色くなりどす青くなり
ふれるふれる
中肉中背の肩に
虫が喰っている

 「てんで」に、がいいなあ。ほんとうはどこかでつながりがあるのかもしれないが、その「つながり」をはっきりとつかみきれない。それが「欲望」「本能」だろう。制御できない。それは、制御を乗り越えて、勝手に生きていく。それは「はつらつ」にではない。最終連で書いてあるように。
 妙に、重くて、粘っこくて、二度読み返した。
 でも、それが何なのか、よくわからない。わからなくてもいいのかもしれない。「青猫はうなる」の三連目。

うなじに湿気がまとわりつく
ふおんなかんじ
前線とか中央とかは
観念なのであり、

 あ、これかな、と思った。「中肉中背の肩」のかわりに「うなじ」が出てきているが、唐作は、「肉体」を「比喩」の根底に据えている感じがある。それがいい。で、そこから「ふおんなかんじ」と言ったあと「前線とか中央とかは/観念なのであり、」と飛躍するのだが、この「観念」というのは、「根も葉もない」の根や葉なのかもしれないとおもった。「根も葉もない」は「根拠がない」という意味だとおもうが、「観念」なんかも、やっぱり「根拠」ではない、と私は思う。それは作り上げた「うわさ」のようなものだ。「実体」がない。「中肉中背の肩」でも湿気がまとわりつく「肩」でもない。

ね このにおい
このにおい
このこのにおい
このね このにおい

 これは「青猫はうなる」の三連目だが、「観念」は「におい」にも似ている。「におい」は確かに存在するが、なぜか、においの中にいるとにおいに気がつかなくなる。そういう性質を持っている(と私は感じている)。「観念」もそれに似ている。出会った瞬間、その強烈さに打ちのめされるときがある。(そのまま、打ちのめされて、シンナーによったみたいに、観念におぼれて抜け出せない人もいるようだが。)でも、たいていは、慣れっこになってしまう。「脱構築って何だっけ」「実存? 古くない?」という感じ。それは「ね このにおい」と「この」をつかって、必死になって「焦点」をあてないと思い出せない類のものである。
 唐作は、そういうこともつかんでいるのだな、と感じた。

 

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三木清「人生論ノート」(孤独について)

2022-10-23 20:43:22 | 詩集

後半に出てくる「表現」の「意味合い」の把握が難しい。
言語表現は、ことばとことばの組み合わせ、組み合わせとは「関係」をつくること、関係を「形成する」ことと考えれば、そこに三木清の「形成」ということばや「構想力」が潜んでいることがわかるのだが、今回の文章には、それに類似するものがない。
三木清の連載が、いったん中断したことと関係するかもしれない。過去に書いたことが、三木清のなかで整理されてしまっていて、「形成」「構想力」というようなことばを無意識的に省略してしまったのだろう。(こういうことを、私は、意識の「肉体化」と呼んでいる。無意識になってしまう。自転車をこぐとき、無意識に足を動かすようなもの。)

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藤山増昭『岸辺のパンセ』

2022-10-22 16:00:23 | 詩集

 藤山増昭『岸辺のパンセ』(編集工房ノア、2022年10月11日発行)

 藤山増昭『岸辺のパンセ』の表題作。

生を乱す死と
死に繕われる生の岸辺に
一茎の葦の 羨しき発光

 「一茎の葦」がパスカル「パンセ」を思い起こさせる。そして、藤山は「生と死」について考えている。そのことが直感できる書き出しである。この直感は、私の背を立ち上がらせる。背筋をのばさないと、読むことができない。私は「死」については何も知らない。だから、考えないことにしている。考えても仕方がないと思っている。これは、あくまで私の考えであり、藤山はそうは考えない。その考え方の違いに直面して、私の背はすっと伸びたのである。このひとは考え方が違うから、読んでみてもしようがない、という気持ちにならない。そうさせない「響き」がことばのなかにあった、ということだ。

羨しき発光

 「発光」。藤山は「生と死の出会い」のようなものに、光を見ている。それはそこに初めからある「光」ではなく、「発した光」、瞬間的に生まれてきた光。そして、その「発光」には「羨しき」ということばが重ねられている。「羨しき」は「ともしき」とルビがある。私は、こういう読み方を知らないし、このことばをつかったこともない。私の知らないことを、藤山は私の知らないことばで語り始めている。しかし、それが全部わからないのではなく「発光」という私の知っている(と思っている)ことばといっしょに動いている。
 私は本当に何かを知っているのか。知らずにいるのに、平気で、知ったかぶりを書いているのか。
 それが、これから問われるのだ。その問いの前で、私の背は伸びた。

流れ下る 冷えた石の川床
削がれる意識を入れた洞窟の闇
今も残像する悍しき夢幻の淵

  「発光」とは逆に、ここでは「闇」に代表される「光」の対極のものが書かれている。何も見えないわけではないが、見ていて「明るさ」を感じる世界ではない。この「あいまいな暗さ」を、藤村は、こう言い直す。

存在に付き纏う不可知と未在未生のかげ
堆積し続ける命の塔は  ゆらぎ傾き
系統樹の小枝の先端がふるえている

  私が「あいまいな暗さ」と読んだものは「かげ」である。(「かげ」には傍点が振ってある。)「かげ」は「実体(実在)」ではないもの、「実在するもの」に光があたったときに、その影響で生まれてくるものがあるが、ここでの「かげ」はそういう明瞭なものではない。ぼんやりとした「闇」の濃淡のようなものだ。この「あいまいな暗さ」のために「命」がゆらぎ傾き、ふるえている。これは「発光」というよりも、むしろ消えていく光、消滅する光の最後の姿に見える。

だが ふと 大空からのあおき反響
それは重々無尽の宇宙からの波動
劫初からの 澄みわたるいのちのこえ

 「こえ」にも傍点が振ってあり「かげ」と対応していることがわかる。「かげ(闇の濃淡、ゆらぎ)」の対極にあるのは「光」ではなく「こえ」である。「こえ」は「いのちのこえ」と書かれているから、「いのち」と不可分のものと藤山が考えていることがわかる。
 「光」と「声」に共通するのは、それが「波(波動)」であるということだろうか。
 「こえ」はまた「反響」とも関係している。呼応している。「響き」、それも単純な響きではなく「反響」。跳ね返ったもの。何が跳ね返ったものなのか。たぶん、藤山の「意識」、あるいは「声にならない声」を発したとき、それに答えるように「こえ」が跳ね返ってきた。
 その「反響」に「あおき」ということばが重なっている。「青き」だろう。これが藤山の言う「光」(発光)だろう。それは「白」ではなく、「あお」、そして「澄みわたる/あお」ということになる。しかも、それは「視覚」に訴えてくるだけではなく、「聴覚」に「こえ」として、つまり「ことば」としてやってくる。

「宇宙は私を包み 一つの点のように
のみこむ。考えることによって
私が宇宙をつかむ。」

 注釈によれば、これはパスカルの「パンセ」からの引用である。生と死の衝突の瞬間に、藤山は「発光」を見た。それは「ことば/こえ」として藤山のとらえた。しかし、それは生と死が藤山を「のみこむ」であると同時に、藤山が生と死を「つかむ」ということだ。
 瞬間的に、藤山はパスカルのことばにのみこまれ、包まれている。しかし、それは藤山のパスカルを理解する方法なのだ。「のみこまれ」た瞬間に、それを「つかむ」。パスカルが藤山をのみこむとき、藤山はパスカルをつかむ。
 切り離せない。
 この、私が「切り離せない」と呼ぶものを、藤山は、最終連で、こう言い直している。

感応のなかにも
外なる空と 内なる空とを
つかみ つなげるのだろうか?

 「つなげる」。それは「接触」ではなく「融合」だろう。
 藤山のことばは、少しずつ「意味」(定義)をかえながら、新しいことばになり、その変化のなかで、変化することでしか描けない「世界」をとらえている。その運動に、藤山が真摯に向き合っていることがつたわってくる。
 この真摯さのために、私の背が、すっと伸びたのだと思う。
 ゆっくりと読みたい詩集だ。ゆっくりと読まなければならない詩集だ。これは、自戒として書いておく。私は早く読みすぎる。

 だから。
 一息ついて、私は少し追加する。

「宇宙は私を包み 一つの点のように
のみこむ。考えることによって
私が宇宙をつかむ。」

 「宇宙と私」「パスカルと藤山」が「一つ」に融合するとき、そこに「考える」ということばが動いている。「考える」のは「ことば(こえ)」をつかって考えるのである。藤山は生と死の出会いについて、考えた。ことばを動かした。それが、この詩集ということになる。この詩集を読むためには、私は私なりに、私なりのことばを動かさなければならない。考えなければならない。この詩集は、考える詩集である。


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高橋睦郎『狂はば如何に』(2)

2022-10-21 22:49:24 | 詩集

 

 

高橋睦郎『狂はば如何に』(2)(角川書店、2022年10月11日発行)

差し出だすわが手皺だみ肝斑(しみ)繁み死の匂ひすや汝が手たぢろぐ

わが皺手(しわで)握るすなはち死の側(がわ)に引き込まれむと汝(なれ)怖るるか

 「死の声がする」と私が感じるのは、そこに「死」が書かれているからだけとは限らない。私は、その「死」という文字よりも「手皺」「肝斑」という漢字の表記に「死」を感じる。この「死を感じる」という感覚を別のことばで言えば、「音」を感じ、それから自分のなかで「意味」を探し当てる前に、高橋から「意味」を押しつけられるという感覚と言い直せる。「意味」がそこにあるのだ。まず、「意味」があるのだ。この「音」を省略した「意味」、「音」を越えて「意味」に達してしまうスピードの絶対性に「死」を感じる。「生きている」余裕を与えてくれない。「生きている余裕」は、「間違える余裕」と言い直せるかもしれない。私(たち?)は、死ぬまで、けっきょく「間違い」をくりかえす。ああすればよかった、こうすればよかったと後悔する。その「間違い」の連続のなかにきっと「生きている」時間がある。死ぬというのは、そういう「間違える」時間がなくなってしまうことだ。私はいつも「間違えたい」という欲望がある。「間違える」というのは、なんというか、一種の「寄り道」であり、私にとっては楽しいことなのだ。そういう「楽しみ」を高橋のことばは私に与えてくれない。
 もちろんこれは、私が高橋の詩を(ことばを)正しく読んでいる、という意味ではない。私はいつでも「間違えている」。間違えてはいるのだが、それは私の教養がないからであって、その間違いは「学校のテスト」の「答えの間違い」であって、私の言う「寄り道」ではない。「寄り道」というのは、私のたどりつくところが「正解」かどうかを気にせずに、ただ、ぶらぶらすることである。高橋のことばは、私をぶらぶらさせてくれないのである。
 「意味」が、こっちこっち、と真っ直ぐに私を引っ張っていく。これが魅力というひともいるかもしれないが、私は、そうではなく、「あれっ、いまの音はなんだったのかなあ」と遊んでいたいのである。音を楽しむよりも、「意味」をつかみ取れ、というのは苦手である。
 二首目も「死の側」ということばが、とても強い。「意味」でありすぎる。意味の「特定の仕方」が明確すぎる、と感じる。「死の側」の反対には「生の側」があるということになるが、その「側」ということばが「境界線」になって、生と死を分けてしまう。これは、なんとも恐ろしい。ひとは必ず死ぬのではあるけれど、その「境界線」を高橋は意識していて、その意識を共有しろと迫ってくる感じなのである。
 高橋のことばには、隅々まで「意識」というものが行き届いている。そのことも「死」を感じさせる。「意味の多さ」が「死」を感じさせる、と言い直すこともできるかもしれない。

 

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高橋睦郎『狂はば如何に』

2022-10-20 13:33:34 | 詩集

高橋睦郎『狂はば如何に』(角川書店、2022年10月11日発行)

 高橋睦郎『狂はば如何に』は歌集。タイトルは、「自選五首」のなかの、

八十路(やそぢ)はた九十路(ここのそじ)越え百(もも)とせの峠路(たむけぢ)に立ち狂はば如何に

 からとっている。
 私は、この歌を読みながら(他の歌の場合もそうだが)、非常に困ってしまう。「文字(漢字)」と「音」の連絡がつかない。高橋は、私とはまったく違う「漢字と音」のつながりを生きている。これは、簡単に言い直せば、「教養の違い」と私の無知が否定されるだけのことなのだが。しかし、それだけではない、とも思う。私は「教養がない」とか「無知」とか呼ばれることが苦にならない。だから、高橋が書いている漢字、その読み方を知らなくても、そしてそれを指摘されても、別にどうとも感じないのである。「反知性主義」とは、何人かから、そして何度も言われたが、別に苦にならない。多くのひとが読んでいるらしい「教養本」を読まなければ、とも思わない。
 では、なぜ高橋の歌の前で私は困惑するするのか。
 言い直しというよりも、繰り返しなってしまうと思うが、漢字(文字)と音の関係が、どうも私には落ち着かない。私はことばを「音」というものから覚えたが、つまり文字(漢字)を覚え、理解し始めたのは、「音」としてのことばを動かせるようになってからだ。音があって、そのあと、文字がくる。これは、誰でもそうだと思う。高橋だって、書いたり読んだりする前はただ話していたのだと思う。
 だから問題は、文字(漢字)を覚えた後のことになる。私はいまでも、音を繰り返し聞かないと、そのことばが覚えられない。文字を何度読んでも、何が書いてあるかわからない。でも、高橋は、私の想像では、あるときからこの関係が逆転しているのではないだろうか。まず「文字(漢字)」を通してことばをつかみとる。そのあとで、ことばを「音」として肉体にしみこませる。
 こんなことを、こんなふうに抽象的に書いてもしようがないので、書き直すと。
 「やそじ(ぢ)」は聞いたことがある。八十だ。だが「ここのそじ(ぢ)」は聞いたことがない。だからわからない。しかし「九十路」を見ると「あ、九十のことか」と気がつく。でも、その瞬間、私は「ここのそじ(ぢ)」を忘れている。音を忘れて、「文字(漢字)」から「意味」をつかみ取っている。というのは、正しい書き方ではない。
 この歌に触れたとき「九十路」という「漢字(文字)」から、私は高橋は「九十歳」のことを言っていると理解する。しかし、そのとき「音」が聞こえていないのだ。「ここのそじ(ぢ)」はあとから「読む」。つまり、「漢字(文字)」と「音」が同時に存在知るわけではなく、「音」はあとからやってきて、それがすぐには覚えられない。これが、私には苦しい。
 で。
 そういう風に感じながら高橋の歌を読み続けると、高橋は、「音」ではなく「漢字(文字)」で短歌をつくっているのではないのか、と感じるのである。
 これは、短歌だけに限らない。俳句や現代詩でも同じだ。そして、詩よりも、俳句、短歌を読むときに、その印象が強くなる。「音」を動かして世界をつくっているというよりも、「文字」を動かして世界をつくっている、という印象がする。「そうか、高橋は、この文字(漢字)をつかいたかったのか」と思うのである。この「音」、この「音の変化」を表現したくてことばを動かしている、とは、私には感じられないのである。
 それがいいことか悪いことかは、わからない。ただ、私は、そこに私と高橋との間にある、どうしても共有できない何かを感じてしまう。
 そして、ここから飛躍してしまうのだが、その高橋の「文字(漢字)」との交流を、私は「死」との交流と感じてしまうのだ。生きている人間の発する「音」と交流しているというよりも、死んでしまったひとの残した「文字(漢字)」と交流していると感じ、何か、不気味に感じる。
 何年か前、私は高橋と一度だけ会ったことがある。(高橋は、そのことを覚えていない、とある機会に私信で教えてくれた。)そのとき私は高橋の詩の朗読を聞いたのだが、それは私にはやはり「死の声」に聞こえた。言い直すと、絶対に変わることのない「意味」を選びとって残した「声」に聞こえた。高橋のことばは、それを引用はできても、剽窃し、私のことばのなかに組み込むことはできない絶対的な何かを持っている。高橋のことばを理解するためには、私は死ななければならない。そういうことを感じさせる、絶対的不動性。それが不気味である。
 しかし、この不気味さを感じているひとは、少ない。それはたぶん、私が「魂」ということばをつかわないのと関係している。「魂」は、多くのひとがつかう。(私もひとのまねをして何回かつかってみたことがあるが、なじめず、いまは他人のことばを引用するときくらいしか、つかわない。私は「魂」が存在するとは考えることができない。見たことがないし、触ったこともない。)「魂」は「肉体は死んでも魂は残る」というように「死」と関係している。私にとっては「魂」とは「死」である。それは、絶対に体験することのできない何かである。
 高橋は、こんなふうにつかっている。(高橋は「旧字体」で書いているのだが、私のワープロは旧字体を持たないので流通している漢字で引用する。正しい表記は、歌集で確認してください。)

偶(たまたま)に成りし肉体(からだ)に入り棲みし霊魂(たましひ)てふも微塵集成

偶体に棲まふ偶魂彼もなほ生きてしあれば狂ふことあり

 「偶体」「偶魂」はどう読むのか、私にはわからない。だが「たまたま存在した(偶然生まれてきた)体」「たまたまやってきた(肉体に入り込んだ)魂」という意味だろうと思う。この「魂」と「肉体」の関係は「偶に成りし肉体に入り棲みし霊魂」なのだから、「肉体が存在し、そこに魂が入ってきた」、つまり「肉体が先、魂があと」という形で人間が存在すると高橋がとらえていると理解できる。しかし、その一方で、魂が肉体に入り込むためには、魂は魂で肉体より先に存在していなければならないかもしれない。魂は肉体が生まれてくるのを待って、そのなかに入り込むのだとすれば、魂が肉体よりも先に存在しなければならない。そして、魂が「死んだ人間から分離したもの」と仮定するなら、魂は生まれてくる肉体より先に存在することになる。魂が肉体に入ってくるのではなく、「死」が肉体に入ってくる。さらに魂が生き続けるためには、肉体は死につづけなければならない、とも言えるかもしれない。
 そう考えたとき、私は、最初に考えた問題に戻っていこうとしていることがわかる。
 高橋の「ことばの肉体」のなかに、「ことばの死(死んだひとの残したことば、古典)=魂」が入り込んできて、高橋の「ことばの肉体」を動かす。そこで動いているのは「高橋のことばの肉体」であると同時に、その中心には「魂=死んだ人から離脱した不滅の文字」が動いている。この「不滅のもの」の動きに、私は、おののく。それは、私が触れてはいけないもの、という気がする。

 さて。
 では「狂」とは何なのか。

鞭打たるる駑馬に号泣街上に狂を発せりフリドリヒ・ニイチェ

 「狂」は生きているニイチェの肉体から飛び出していこうとする魂の運動のことだろう。ニイチェの肉体の中の魂(死)は、鞭打たれる馬の肉体のなかに入り込もうとしている。その姿が、他人から見れば「狂気」に見える、ということだろう。魂は、その入り込んだ肉体が死ぬのを待って、肉体を離脱するのが普通のあり方だ。それが死んだ肉体ではなく、生きた肉体を離れようとする。そのとき「狂」が生まれる。
 しかし。
 もし、この私のことばの運動が正しければ、「ことばの表現」とは「肉体」から離れて存在する。高橋のことばと、高橋の肉体は別のものである。そして、そのことばというのもが、もし、魂そのものだとするならば、詩が(ことばが)書かれるとき、その書き手の肉体はいつも「狂」と直面している。もし、肉体が「狂」と直面していないなら、表現されたことばは「魂」には成りきっていないという問題が起きる。たぶん「狂」に耐えられる肉体は少ない。だから、ぎりぎりのせめぎあいのなかで、「魂」に似たものが表現として存在するのだろう。高橋のことばの運動が非常に強固であるのは、その「魂」が「死者のもの=古典」であること通じているからかもしれない。

 

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大西久代『ラベンダー狩り』

2022-10-18 21:16:01 | 詩集

大西久代『ラベンダー狩り』(七月堂、2022年10月10日発行)

 大西久代『ラベンダー狩り』の巻頭の詩「小路を」を私は二度読んだ。読み返してしまった。

高い塀とセンダンの木の実を映す放水路
との間に ひっそりとその小路はある
五月朝の光は露に濡れた花々や草を照らし
蝶々は真新しい羽根をうっとりひらく

 「うっとりひらく」につまずいたのである。蝶が羽根を開くのを大西は「うっとり」として見ていたのであり、蝶は「うっとり」羽根を開いたりしないだろう。自己陶酔して羽を開いたりしないだろう、とつまずいたのである。
 しかし、読み返してみて、大西は蝶を描写しているのではない、蝶になっているのだと気づいた。大西は蝶になってしまっているから「うっとり」と書いてしまう。
 この自他の区別のなさは、こうつづいていく。

虫取り網と籠を手に小さな兄弟の
弾む声が小路を飛び交うこともある
病に伏せる母親への贈り物
生れでる生命の輝き
もう 移り変わりの早い季節が小さな背を
飛び越えようとしている

 大西は「兄弟」にもなれば、「母親」にもなって、その小路を歩いていることがわかる。大西は目撃者ではなく、存在の「体験者」なのである。存在を体験する、そのとき、「世界」というものが出現する。
 「レモン谷から」には、こんな行がある。

レモンは惜しげもなく
実りの重さをこの手に与え
ひみつの硬い扉を開こうとする

 レモンを主語にしたこの三行は「翻訳文体」の影響かもしれないが、私は大西がレモンになっているのだと思って読んだ。レモンになった大西と、作者の大西が、真昼の光のなかで融合している。
 そんなことを思って読んでいると、「燃え上がる」は、こうはじまる。

六月の空をだれも教えたりはしないが
私がのうぜんかずらになって
咲きはじめるすべを
いつからか知ったのだ

 「私がのうぜんかずらになって」と「なる」という動詞が、ちゃんとつかわれている。この詩のしめくくりの四行。

燃やしたものをとり込んで
再生を予感する
のうぜんかずらとなった私の転変
針を含んだ口先さえ愛おしい

 「転変」をくりかえすことで、大西は自分を発見し、自分を愛することをおぼえていく。そして世界は充実する。苦しみや悲しみのなかでさえ。

 

 

 

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渡ひろこ『柔らかい檻』

2022-10-10 18:30:02 | 詩集

 

渡ひろこ『柔らかい檻』(竹林館、2022年08月15日発行)

 詩集を読みながら、この詩の感想を書こうと思い、付箋を挟んでおく。私はたいてい付箋だけではなく、メモを書き残すのだが、渡ひろこ『柔らかい檻』にはメモがない。付箋だけがある。「迎え火」「シンクロニシティ」「忘却」。「迎え火」は56ページ、つまり途中に付箋が挟んである。何を書きたかったのだろうか。思い出せない。

ふとお供えを見やると
ついさっきなみなみと淹れたばかりのお茶が
湯呑み茶碗半分にまで減っている
茶碗のふち一杯だったのに…

「嗚呼、きっと会いに来てくれたんだね」
大好きだった玄米茶
湯気をそっと啜っていったのだろう
知らぬ間に痕跡を残していった母
名残惜しいのか 送り火はなかなか点かなかった

 いま思うのは、「名残惜しいのか 送り火はなかなか点かなかった」という行のなかにある、「主語の交錯」である。名残惜しいのは、だれ? 母? それとも作者? 「送り火」をつけるのは作者である。そうであるなら、「名残惜しい」の主語はやはり作者であるのか。まだまだ帰ってほしくない。ここにいてほしい。しかし、ふつうは黄泉の国から帰って来た母が、この世が名残惜しくてなかなか帰れない、のだと思う。その母の気持ちと、作者の気持ちが交錯する。「文体が乱れる」というと言い過ぎなのかもしれないが、このちょっとわからない部分、正確に読もうとすると、何が正確か断定することがむずかしい部分、こういうところが、私は好きだ。
 ちょっと、作者になった気持ちになる。
 書くというとは、何から何までわかって書くわけではない。書きながら、何かを発見し、あ、これを書きたいと思ったとき、いままで書いていたことをふと忘れ、飛躍するような瞬間がある。それが、読んでいて、あ、ここだな、と感じる。そういうことば。
 だから、というと変だけれど。

今年も母を乗せた灯籠が
小名木川をゆっくり流れていく
堪えきれない想いがはらはらと落ちて
水面に小さな波紋を描いては消えていった

 堪えきれずに落とした涙が川面に波紋をつくり、消えていく。美しいね。でも、それは美しすぎるというか、美しさがわかりすぎてしまって、何か「ゆらぎ」がないのが、妙に残念な気がするのだ。
 「シンクロニシティ」は

私も思わず柩の花を掬ったが、手を差し入れても奥行きが深く底に届かない。
掻き混ぜても花びらが舞い散るだけで、亡骸は何処にもなかった。

 夢の描写なのだが、柩の底まで手を入れる。さらに掻き混ぜる。この動作(肉体の動き)が、とても不気味である。夢のなかでしかできないことだろう。少なくとも、私は、現実にはそういうことはしないなあ。だからこそ、この「手を差し入れても奥行きが深く底に届かない。/掻き混ぜて」という手の動きが鮮明に迫ってくる。
 夢のつづきで言うなら、私は、そこで目が覚めるだろう。
 でも渡は、そこでは目を覚まさない。そのことが、忘れられなくて、たぶん付箋を挟んだのだと思う。
 「忘却」は「秘め事」を隠しておく詩である。

いつの日か発掘され
真っ二つに割れたなら
右は曖昧な手のひらに
左は寡黙な唇に

 この「手のひら」と「唇」の対比がいいなあ、実際にあったんだろうなあ、と思う。つまり、手のひらが曖昧に動き、そのとき唇は声を出さずに、手のひらの動きのつづきを待っている。それが「秘め事」。そのあとにつづいて起きたことよりも、と私は思う。エロチックな、はじまりの一瞬。それから先は、まあ、たいてい同じだからね。

 

 

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谷元益男『越冬する馬』

2022-10-08 16:22:43 | 詩集

 

谷元益男『越冬する馬』(思潮社、2022年09月01日発行)

 谷元益男『越冬する馬』のなかの「種子」。

芽を出すはずの
種子は
鍬を肩にした農夫に
踵で踏まれ
踏まれている胚芽は
土に隠れ 根を深く鎮めて
蛇のように うずくまる

種子は土で眠ることだけを
願っている
土の塊が闇と同じ重さとなり
皮に亀裂がはしるとき
わずかに のびる殻の先が
空の把手に手をかける

 どこからかこぼれた種子が、踏まれながらも、やがて芽を出す。「土の塊が闇と同じ重さになり」は思考をじっくりと動かす。まるで、「種子」になった気持ちになる。「わずかに のびる殻の先が/空の把手に手をかける」は芽生えの美しさを描いていて、鮮烈である。
 そうはわかっても、私は、この世界にすんなりとは入っていけない。一連目の「鍬を肩にした農夫」ということばにつまずいたままだ。いま、こういう農夫を見ることはむずかしい。「肩にした」には、実際に鍬を担いだことがある人だけがよせることのできる思いがある。そう理解すれば、なおのこと、そう思う。
 農夫自体がこぼれた種子、踏みつけられる種子である。そうであるなら、こぼれた種子、芽を出した種子は、この農夫でもある。
 だから、詩は、こうつづいていく。

水にうたれ
一斉に吹き出る芽
黒い水面から 顔を上げると
遠くの硬い手が
振り子のように 騒いでいる
播かれなくても
のびるしかないのだ

 「遠くの硬い手」が、この段階では何の「比喩」なのかわかりかねるが、種子が延ばす手(二連目)があるなら、種子があたらしい種子をつけるとき、そこに延ばされる「手」もある、ということである。しかし、それは「遠い」し、「硬い」。
 この連を、つまりふいに書かれる「遠くの硬い手」を起点にして、詩の世界は反転する。

ひとつの季節が終わると
次の時期に向かい
ひかりを帯びたものだけが生き続ける
木々は切り倒されて死ぬが
種子は あるとき地面に
陰が長くなる陽炎な日に
飛び下りる

死んだ農夫の
手には 種子が固く握られ
掘り起こした土のにおいが 辺りに
静かに広がった
やがて 種子は激しく打ち付けられる雨に
流されていった

殻を破れないものは
はじめて自分が種であったことに
気付くのだ

 種子ではなく、これは種子と共に生きた農夫のことを描いていることがわかる。そして、種子は生き続けることができるかもしれないが、農夫はそうではないことがわかる。農夫の子は、かならずしも農夫になるわけではない。農夫は「種」(谷元は最後に「種子」ではなく「種」と書いている)として生きたのである。そうわかったとき、「種子/種」と「農夫」が入れ替え可能な「比喩」となって詩のなかを動いていることがわかる。
 と、書いて。
 私は、どうしても、つまずいてましまう。この「農夫」を私は捨ててきた。それは「種子/種」を捨ててきたということである。私は鍬を担いだこともあるし、鍬で畑や田んぼを耕したこともある。それは、私の周辺では、ごくあたりまえの生活であった。私はとても病弱な子供時代を過ごしたが、病弱だからといって、そういう仕事をしないでいいわけではなかった。(鍬で田畑を耕す仕事は、「毎日」あるわけではないのだから。)そして、こういう暮らしを捨てたのは、私だけではなかった。日本中が、それを捨てた。その「証拠」を私は、私の故郷に見ることができる。集落の戸数は半分に減り、暮らしている人は何分の一に減ったのか、もうわからない。五分の一以下に減っているはずである。そして、そこに残された人は、この詩のなかに書かれている「農夫」のように、倒れ、死んでいくしかない。あと二十年すれば、私の住んでいた集落に人はいなくなるに違いない。私の家の前には、原発事故にそなえてつくられた道路だけがつづいている。だれも通らないのに、その事故の日に備えて、道は整備され続ける。
 この時代に、「種子/農夫」の悲しみを、悲しい記憶としてだけ残すということを「意味」を私はつかむことができない。共感できない。谷元は、「怒り」を感じないのか。私は、すでに私自身の集落(故郷)を捨ててしまった人間だが、どうしても「怒り」を覚えてしまう。それは「捨てる」ものに対する「怒り」であると同時に、それは「捨てられる」のではなく、古い自己を「捨ててしまわない」人間に対する「怒り」でもある。私のなかには「矛盾」があり、そのために、何もなかったかのようにして、「詩に感動した」とは書けないのである。
 谷元は、いったい、だれに向けて、この詩を書いているのだろうか。

 

 

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電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

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鍋島幹夫『帰りたい庭』

2022-10-06 21:09:35 | 詩集

鍋島幹夫『帰りたい庭』(書肆侃侃房、2022年07月20日発行)

 鍋島幹夫『帰りたい庭』は遺稿詩集。
 私は鍋島幹夫に二度会ったことがある。最初は「nobady あるいは浮かぶ人」という作品のなかに出てくる柴田基孝が、まだ柴田基典だったころ、柴田が引き合わせてくれた。大濠公園にあるレストランで昼食を食べながら、であった。「ここのパンはうまいんだ」と柴田がいい、三人とも(個別にだが)パンを選んだ。しかし、なぜか、鍋島にはご飯(ライス)が出てきた。このとき鍋島は、黙ってご飯を食べた。「パンがうまいのに」と柴田は、もう一度言った。「私もパンを注文しました」とウェイターに一言言えば交換してくれるのに、それをしない。とても静かな人だった。それしか私は覚えていない。それ以外、何を話したか、私は何も覚えていない。私は、なぜか奇妙なことだけを覚えている人間なのかもしれない。二度目は、どこで会ったのか、だれが一緒にいたのか、まったくわからない。
 なぜ、こんなことを書いたかというと。
 「帰りたい庭」に、こんな行がある。

子供たちの顔の上をすべっていく
草色の雲
この解像途中の あるいは 接続をやめた残像 みたいなものは
回線の向こう岸に見る 村々や校舎への 敵意のなごりだ

 これは鍋島の意識かというと、そうとは言い切れない。すぐ「という人もいるが/それはちがうと思います」という行がつづくからだが、逆に、否定の形で印象づけようとしているとも言える。「意味」は、いつでも自由に変更できるものだからである。
 私が、この部分を引いたのは、そこに「解像(途中)」「接続(をやめた残像)」ということばがあるからだ。
 あらゆる現実は、ひとそれぞれの「意味」に従って「解像」される。そして、その「解像」というのは、何と「接続」するかによって違ってくる。鍋島は、そういうことを考えていたし、そういう「ことばの操作」を詩と考えていたのだと感じるからだ。
 これは柴田のことばの運動にも似ているが、ただ「解像」も「接続」も、ことばの選択は違うね。
 脱線したが「接続」は「切断」と切っても切れない関係にある。何かと接続するときは、他方でそれまでの接続を切断しないとできないときがあるからだ。その「切断」は「食卓」のなかで、こうつかわれている。
             
葉っぱ一枚で 世界はさえぎることができる
しかし 葉の裏に描かれた夏の回路は
ことごとく 切断されるであろう

 ここには、同時に「回線」(「nobady」)に通じる「回路」ということばがある。「回路」は何かと何かを「接続」ものである。「接続」することで「解像」が進む。したがって、「解像」への「回路」に「接続」できなかったものは、「残像」として「切断(接続をやめた)」ものの先に取り残される。(なくなりはしない。きっと「解像」のための「現像液」のようなものだろう。)
 「解像」は「ジャガイモ畑を越えて」にあらわれる。

見渡すかぎり乾いた土--解像度は良好。

 しかし、これは、唐突でわかりにくいね。だから、鍋島は、二連目でこう言い直している。

蛍光色に光る目の中を、ネズミに追われて方向を変え、畑を越え、葉
裏沿いにのびていく一本の道。急に立ちはだかる陽炎の三叉路で、淡
色の枠に囲まれた謎が解かれる。

 「謎を解く」。これが「解像する」ということにつながる。
 すべてのことばは、切断と接続を繰り返し、あたらしいことばの回路をつくることで、そこに新しい世界像を浮かび上がらせる。謎に満ちた世界を、「解像する」。
 では。
 その「解像された世界」(解像)は、わかりやすいか。そうとは言えない。何かがわかるが、同時に何かがわからないものとして残る。残像にも、深い「意味」がある。
 「雪玉ともち」は、このことを「童話」めいた「寓話」として語っているが、ちょっと「意味」が強すぎるかもしれない。
 「犀を見た日」を引いておく。この詩集のなかでは、私はこの詩がいちばん好きだ。

白い山が動いた
砂の柱が歩いた
動けなかった
夏の日の正午
だれもいない檻の前で

母の乳房がかたい
祖母が揉みしだく
動けなかった
夏の日の昼下がり
女だけの家の中

熱い乳を捨てに行く
乳は谷を白く染めた
じっと見ていた
熱い熱い夏の日
水の中を動く犀

 「解像」されたのは「犀」か。それとも「母の乳房」か。「残像」はどれか。谷を染めて流れる白い乳の柱か。「夏の日の正午」は「夏の日の昼下がり」へ、さらに「熱い熱い夏の日」と「回路」の描写を変えていく。
 パンではなく、ご飯を食べた鍋島(これは残像か)を思い出すように、何年かたって、私が思い出すことばは、いったいどれだろうと想像してみる。

 

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