西脇順三郎の一行(19)
この一行は「女のへそが見たいと云つた」という楽しいことばにつづく。どちらがを好きな一行として取り上げるか、私は実は悩んだ。「女の裸」といわずに「へそ」というところに不思議なエロチシズムがある。具体性が美しい。
しかし、それがより具体的になるのは「へそ」という普遍性(いつの時代にでもあるもの)が、「から衣を着てゐた時代」によって特定されるからである。--この言い方は変で、「へそ」という具体的なものが「から衣」によってさらに限定されることで、逆に普遍になるというべきなのかもしれない。そのときどきで、どっちでもいいかもしれない。
あ、脱線したが、その「へそ」を彩る「から衣」の一行の音がとても美しい。「ごろも」と西脇はわざわざ「ルビ」を打っている。この「ルビ」は「音」へと視覚を引っぱっていく。「ルビ」があってもなくても「意味」は同じだが、「ルビ」があると「衣」という文字を読んで動く意識が、聴覚をくすぐる。
私は黙読しかしないのだが、黙読だと「から衣」という文字を見ると、そこに「衣装(着物)」が浮かび上がってきて、「音」が一瞬なくなる。視覚の方が情報量が多いからかもしれない。
そこに「ごろも」という「ルビ」が打たれると、それは「衣」の模様(飾り)を通り越して、「音」そのもの、「音楽」になる。「ルビ」によって、ことばの「音楽」が動く出す。「か行」と「濁音」がこの一行を動かしていることがわかる。
耳が西脇のことばを動かしていることがわかる。
それを補うように「だれか立ちぎきするものがある」という行がある。「耳」でとらえた世界--耳で空想している。「天気」の「何人か戸口にて誰かとさゝやく」に通じる「音楽」の空想がこの断章を動かしている。
「から衣」の一行は、そのことを証拠になる「音楽」である。
『旅人かへらず/一六一』(28ページ)
『から衣(ごろも)を着てゐた時代の
この一行は「女のへそが見たいと云つた」という楽しいことばにつづく。どちらがを好きな一行として取り上げるか、私は実は悩んだ。「女の裸」といわずに「へそ」というところに不思議なエロチシズムがある。具体性が美しい。
しかし、それがより具体的になるのは「へそ」という普遍性(いつの時代にでもあるもの)が、「から衣を着てゐた時代」によって特定されるからである。--この言い方は変で、「へそ」という具体的なものが「から衣」によってさらに限定されることで、逆に普遍になるというべきなのかもしれない。そのときどきで、どっちでもいいかもしれない。
あ、脱線したが、その「へそ」を彩る「から衣」の一行の音がとても美しい。「ごろも」と西脇はわざわざ「ルビ」を打っている。この「ルビ」は「音」へと視覚を引っぱっていく。「ルビ」があってもなくても「意味」は同じだが、「ルビ」があると「衣」という文字を読んで動く意識が、聴覚をくすぐる。
私は黙読しかしないのだが、黙読だと「から衣」という文字を見ると、そこに「衣装(着物)」が浮かび上がってきて、「音」が一瞬なくなる。視覚の方が情報量が多いからかもしれない。
そこに「ごろも」という「ルビ」が打たれると、それは「衣」の模様(飾り)を通り越して、「音」そのもの、「音楽」になる。「ルビ」によって、ことばの「音楽」が動く出す。「か行」と「濁音」がこの一行を動かしていることがわかる。
耳が西脇のことばを動かしていることがわかる。
それを補うように「だれか立ちぎきするものがある」という行がある。「耳」でとらえた世界--耳で空想している。「天気」の「何人か戸口にて誰かとさゝやく」に通じる「音楽」の空想がこの断章を動かしている。
「から衣」の一行は、そのことを証拠になる「音楽」である。