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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎の一行(19)

2013-12-06 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(19)

 『旅人かへらず/一六一』(28ページ)

『から衣(ごろも)を着てゐた時代の

 この一行は「女のへそが見たいと云つた」という楽しいことばにつづく。どちらがを好きな一行として取り上げるか、私は実は悩んだ。「女の裸」といわずに「へそ」というところに不思議なエロチシズムがある。具体性が美しい。
 しかし、それがより具体的になるのは「へそ」という普遍性(いつの時代にでもあるもの)が、「から衣を着てゐた時代」によって特定されるからである。--この言い方は変で、「へそ」という具体的なものが「から衣」によってさらに限定されることで、逆に普遍になるというべきなのかもしれない。そのときどきで、どっちでもいいかもしれない。
 あ、脱線したが、その「へそ」を彩る「から衣」の一行の音がとても美しい。「ごろも」と西脇はわざわざ「ルビ」を打っている。この「ルビ」は「音」へと視覚を引っぱっていく。「ルビ」があってもなくても「意味」は同じだが、「ルビ」があると「衣」という文字を読んで動く意識が、聴覚をくすぐる。
 私は黙読しかしないのだが、黙読だと「から衣」という文字を見ると、そこに「衣装(着物)」が浮かび上がってきて、「音」が一瞬なくなる。視覚の方が情報量が多いからかもしれない。
 そこに「ごろも」という「ルビ」が打たれると、それは「衣」の模様(飾り)を通り越して、「音」そのもの、「音楽」になる。「ルビ」によって、ことばの「音楽」が動く出す。「か行」と「濁音」がこの一行を動かしていることがわかる。
 耳が西脇のことばを動かしていることがわかる。
 それを補うように「だれか立ちぎきするものがある」という行がある。「耳」でとらえた世界--耳で空想している。「天気」の「何人か戸口にて誰かとさゝやく」に通じる「音楽」の空想がこの断章を動かしている。
 「から衣」の一行は、そのことを証拠になる「音楽」である。
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西脇順三郎の一行(18)

2013-12-05 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(18)

 『旅人かへらず/一二〇』(27ページ)

色彩の生物学色彩の進化論

 「色彩」が二度繰り返される。全体が「さ行」の音で動いている。それが一行に統一感を与えている。たとえば「色彩の行動学」などということばと比較すると、そのことがよくわかる。
 「生物学」と「進化論」ということばに親和力があるのも統一感を強めている。
 「意味」というのは「親和力」の中で、権力的にでっちあげられるものだなあとは思うけれど、西脇は「意味」を深追いしないので、さっぱりした感じがする。
 この「断章」の最後の一行「色彩の内面に永劫が流れる」の「な行(ないめん/ながれる」と「が行」のゆらぎの方が「音楽」としては美しいと思うけれど、科学的(?)なことばも「音楽」として響くという意外性があるので、「生物学/進化論」の行を選んだ。


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西脇順三郎の一行(17)

2013-12-04 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(17)

 『旅人かへらず/四七』(26ページ)

山の麓の家で嫁どりがあつた

 昔の私ならこの一行を選ばなかったかもしれない。「いま」だから「嫁どり」がより新鮮に聞こえる。いまは、嫁どりとはだれも言わないだろう。「嫁」ということば自体が男女平等、ふたりの意思の尊重という概念にあわない。
 そういうことばの変化、あるいは「意味」とは別にして、「嫁どり」というのは「音」がゆったりしていておもしろい。濁音・清音という概念が邪魔して、濁音は「汚い」という印象をもたれることが多いが、私は、濁音は豊かな感じがすると思っている。口の中、喉の奥の方に音が反響する感じ、唾がうるおう感じが好きである。
 だれの結婚とは書かずに、ただそういう「こと」があった、と、まるで「人事」を「自然」のように詩の中に取り込んでいるところも好きだ。
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西脇順三郎の一行(16)

2013-12-03 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(16)

 『旅人かへらず/三九』(25ページ)

中から人の声がする

 窓の下を通りかかる。部屋の中ではだれかが話している。その声が聞こえる。状況としてはそれだけのことだが--なぜ、この行が好きなのか。
 「中から」の「中」が気に入っている。刺激的である。「中」が見えるわけではない。でも、人がいるのがわかる。この「見えない」のに「わかる」ということが、たぶん刺激的なのだ。現代は「視覚情報」が多い。「百聞は一見にしかず」ということわざがあるくらい、私たちは「視覚(目)」で何かを確かめているが、西脇はここでは「見えない」を「聞く」ことで補って「存在」を確かめている。視覚(目)よりも聴覚(耳)が優先している。そのことが、なぜか、私の肉体の奥を揺さぶる。
 そして、その「耳」も「意味」ではなく、「声がする」と「音」の方に反応している。「意味」を知る前に、「音」を認識し、「音」からそれが「人」のもの、「声」であることに気がついている。「声」には何か不思議なものがある。
 「見えない」(存在と隔離している/断絶している)、でも「聞こえる」(接続している)が入り交じっている。「聞こえる声」には「見えない人」という「断絶」が含まれている。「見えなくても聞こえる」という不思議さ--断絶があっても「わかる」という不思議さ。それがきっと「淋しさ」なのだと思う。
 だから、この行は「人間の話す声の淋しさ」という具合につながっていく。私の肉体の奥につながっていく。
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西脇順三郎の一行(15)

2013-12-02 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(15)

 『旅人かへらず/一〇』(24ページ)

葉の蕾が出てゐる

 これは「変な日本語」である。花の蕾とは言うけれど、葉の蕾とは言わない。言うなら葉の「芽」だろう。--そして、言わないのだけれど、言っている「こと」が「わかる」。「まちがい」なのに、「ただしい」何かが「わかる」。
 ことばは、とても奇妙なものなのだ。
 「ただしい」ことを言えば必ず通じる(わかる)かというとそうではなくて、「まちがい」の方が正確に通じる(わかる)ということもある。「蕾」の方が葉がぱっと広がる華やかな力を感じさせる。西脇は、そういうものを見ていたのだと「わかる。)。
 ことばは、「わかりたい」ことを「わかる」ものなのだ。「わかりたい」ことを選んで「わかる」ものなのだ。
 で、この「断章」には、「葉の蕾」のように、それは「いいまちがい」じゃないかというわけではないけれど、何か「まちがい」のようなもの、西脇だけの「思い込み」のようなものが書かれているね。
 「枯木にからむつる草に/億万年の思ひが結ぶ」の「億万年」などは西脇がそう思っているだけで、「事実」とは限らない。でも、そういう「思い込み(ただしくないもの/まちがい)」が詩なんだね。
 それは「常識」とは「断絶」していて、断絶しているから「淋しい」感覚。だから「詩」。
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西脇順三郎の一行(14)

2013-12-01 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(14)

 『旅人かへらず/九』(23ページ)

十二月になつてしまつた

 「なつてしまつた」の「しまつた」を私は何度も「盗作」した。西脇を読むまで、私は「十二月になった」とは言ったり書いたりしたことがあるが「なってしまった」と言ったり書いたことがない。
 だれが何をしようが、十二月というのは決まったときにやってくる。そういうものに対して「しまった」という感じをもったことがなかった。
 この西脇の「しまつた」は単純に「完了」を「強調」していることばなのかもしれないけれど、どこかに「あきらめ/後悔/失敗」のようなものが感じられる。十二月になったことが「とりかえしがつかない」ような、何か、「いま/ここ」を切り離すような響きがある。
 強い断絶--そういう「響き」がある。
 そして、この「断絶」は西脇が好んでつかう「淋しい(淋しき)」に通じる。
 「しまつた」の「つ」の音の短さ、母音の欠落が「断絶」をより強く浮かび上がらせる。
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西脇順三郎の一行(13)

2013-11-30 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(13)


 詩集『旅人かへらず』は「現代詩文庫」では抜粋がの形で収録されている。それでも「断章」ごとに1行を選んで書いていくと膨大なものになる。1行だけの「断章」もある。ここでは、「現代詩文庫」の1ページから1行という形で書くことにする。

 「一」(22頁)

ああかけすが鳴いてやかましい

 「音」がとても美しい。
 きのう書くのを忘れたが、「汝カンシャクもちの旅人よ」という1行も「音」がとても美しい。耳に気持ちよく響く。な「ん」じ、か「ん」しゃく、ということばのなかの「ん」のリズムが気持ちがいい。音のない「ん」のあとに「しゃ」という突き破るような音がくるのもいいなあ。「よ」で終わる「気取り(?)」を含んだ口まわしも、声に出してみたいという気持ちをそそる。
 きょうの1行「ああかけすが鳴いてやかましい」には「か」の繰り返しと「あ(母音)」の繰り返しがある。開放的な音がつづく。それが、とても気持ちがいい。
 何よりも「やかましい」という口語(俗語?)がいいなあ。「意味」としては「うるさい」と大差(?)はないのだが、「うるさい」だと、つまらないね。「意味」だけになるね。
 また、ここに「口語(俗語?)」が出てくることの意外性もいい。
 この1行の前には「永劫」などというわけのわからない「意味」の強いことばがでてくる。「えいごう」という音はかっこいいが、「意味」がかっこいいかどうか、私にはわからない。いや「意味」自体も、私はよくわからないのだが--そういう何か「頭」をこりかたまらせることばを「やかましい」という口語が破る。

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西脇順三郎の一行(12)

2013-11-29 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(12)

 「旅人」

汝カンシャクもちの旅人よ

 「汝癇癪もちの旅人よ」でも音は同じだが、「カンシャク」と書いてあるのを読むと何かが違う。「癇癪」という文字を読むときよりも音を強く感じる。いや、音だけ感じる、といった方がいい。
 そして、このとき私の肉体の中で起きていることといえば、はじめてことばを聞いたときの興奮が動く。何か知らないことばを耳にする。「意味」ははっきりとはわからない。けれど、状況からなんとなく「こと」がわかる。そこに起きている「こと」。
 何度か同じ音(ことば)を聞くと、その「こと」がだんだん重なり合って、「こと」が明確になる。
 「カンシャク」というのはいらいらした感じを爆発させてすっきりすることだな。「カンシャク」というのは「怒る」に似ているな。--という感じ。
 そういう「意味以前」の状態へ私をひきもどしてくれる。
 そしてこれからが大事なのだが、「ことば」聞きながら「意味」にたどりつくまでのあいだ、私の場合「音」が気に入らないと「意味」がやってこないのである。その「ことば」をつかう気になれない。聞いてわかるけれど、自分で声に出すことができない。「頭」で「意味」はわかるが、肉体がそのことばを「つかう」気持ちになれない。
 西脇のことばを読んで私の肉体に起きることは、それとは逆である。「意味」はわからない。けれど、そのことばをつかいたい。「頭」が「意味」を「わかる」前に、「声(喉や舌、耳)」がその「音」を「つかい」たがる。
 西脇のことばは、こどもがことばを覚えるときの「口真似」を誘う。「盗作」を誘う。「音」が盗作を誘う。

西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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西脇順三郎の一行(11)

2013-11-28 06:00:00 | 西脇の一行
 「失楽園/内面的に深き日記」

穿いてゐるズボンのやうに筋がついてゐないので

 直前の行は「ミレーの晩鐘の中にゐる青年が」である。その青年が穿いているズボンにはすじがついていない。農夫なのだから、まあ、あたりまえだろう。筋のついたズボンを穿いて農作業をするひとはいない。--ということは、ふつうは、農夫が穿いているズボンに筋がついているかどうかを人は気にしないで見ている。それは見落としている「風景」である。見ていても、見えない姿である。
 いままで知らなかった(気づかなかった)風景を、ことばで見せられたとき、私はびっくりするが、それは「美しい」風景でなくても衝撃的である。「美しくない」風景の方が衝撃的かもしれない。
 この一行には、後者の「衝撃」がある。
 あらゆるものは、ことばに「なる」と美しくなる。


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西脇順三郎の一行(10)

2013-11-27 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(10)

 「失楽園/世界開闢説」

ゴールデンバットをすいつゝ

 西脇の詩にはことばがグロテスクなくらいあふれている。そして多くの場合、そのことばは「もの」そのものの手触りとして、そこに「ある」。その「ある」が強すぎて、そのためにグロテスクな感じがする。
 詩の2行目「一個のタリポットの樹が音響を発することなく成長してゐる」には「ある」ということばはつかわれていないが、「タリポットの樹」が「ある」、そこに「音響」が「ない」という形で「ある」。そして「成長」が「ある」。この「ある」の特徴は、それ自体に人間が関与しないことである。人間の存在を無視して、それは「ある」。
 これに対して「ゴールデンバットをすいつゝ」は違う。そこには「吸う」という動詞がしっかり関係している。そのために「もの」の「ある」ということのグロテスクさが緩和されている。そして、その結果と言っていいのかどうかよくわからないが(その結果、と私は言いたいのだが……)、「ゴールデンバット」が「もの(たばこ)」であることから自由になって、「音楽」になっている。
 言い換えると。
 この一行は「意味」としては「たばこをすいつつ」ということであって、その「意味」を伝えるだけなら「たばこ」「ハイライト」「セブンスター」「マルボーロ」でもいいはずなのだが、詩は意味ではないので、ここでは「ゴールデンバット」でなくてはならないのだ。
 「ゴールデンバット」という派手な音だけが、他のグロテスクな「もの」の「ある」に対抗しうるのだ。「ある」という動詞に頼らずに、別な形でしっかりと存在する。それは--うまくいえないが「ある」ではなく「なる」なのだ。
 「ゴールデンバット」という「もの(たばこ)」が、「ゴールデンバット」という「音楽」に「なる」。そういうことが、ここでは起きている。
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西脇順三郎の一行(9)

2013-11-26 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(9)

 「紙芝居 Shylockiade 」

汝等行け、演劇は終つた。

 この一行は、私には、「我、酔うて眠らんと欲す、きみ、しばく去れ」(李白)を思い起こさせる。非情にさっぱりしている。興奮のあとは、たったひとりの「無」が必要である。
 この行のまわりはあまりにもにぎやかである。演劇的である。3行先には「汝等帰れ、演劇は再び始まつた。」とあるのだが--詩は、「終つた」ではつづかないのかもしれないけれど、「終わつた」で終われば、どんなにいいだろうと思う。この一行は「自己中心的」な美しい響きをもっている。
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西脇順三郎の一行(8)

2013-11-25 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(8)

 「馥郁たる火夫」

 何者か藤棚の下を通るものがある。そこは通路ではない。

 この1行も、「カリマコスの頭とVoyage Pittoresque」の「しかしつかれて」と同じように、複雑なイメージ(新しいイメージ)をもっているとはいえない。詩的な印象からは遠い。どちらかというと「俗」である。「現実」である。
 「そこは通路ではない。」だから、通るな--ということ。これは詩のなかにあらわれた突然の「現実」である。
 詩とは「手術台の上のこうもり傘とミシンの出合い」である。異質なものが偶然出会うとき、そこに詩が噴出する。そして、まわりが「詩的言語」に満ちあふれているなら、そこには「現実」こそが「ありえないもの」になる。
 ある状況を攪乱することばこそ、詩なのである。「俗」があふれかえる豪華なイメージを洗い流し、詩の骨格をあばくのである。
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西脇順三郎の一行(7)

2013-11-24 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(7)

 「カリマコスの頭とVoyage Pittoresque」

しかしつかれて

 2行目にあらわる。あざやかなイメージとはまったく逆。そこには何もない。ただことばを前の行から次の行へ引き渡すだけの役割をしている。
 まわりには、イメージの新鮮なことばがたくさんある。きらきらまぶしすぎるかもしれない。 その反動で、この1行が目立つのか。そうかもしれない。きっとそうなのだろう。
 でも、少し、それにつけくわえたい。
 し「か」しつ「か」れて。「しかし」の二音目、「つかれて」の二音目。「か」の音の繰り返しが、単語の二音目で重なる。さらに「し」も「か」も、実際に口に出してみるとわかるとおもうけれど、母音がとても弱い。私は、「しかし」の「し」も「つかれて」の「つ」もほとんど母音を発音せずにこのことばを読む。閉鎖的な音だ。それが次の「か」で一気に解放される。
 その音楽に、私はひかれる。
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西脇順三郎の一行(6)

2013-11-23 00:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(6)

 「皿」

模様のある皿のなかで顔を洗つて

 模様のある洗面器(?)に水を張って顔を洗う--ということなのかもしれないけれど。水のなかで目をあけて、皿(洗面器)の模様を見ている感じがする。
 眠りから覚めて、水のなかで目を覚まそうとして、もう一度見る「現実の夢」。
 あるいは、水をすくいながら、水底の「模様」を掬い取ろうとする「現実の夢」。
 いずれにしろ、「洗面器」ではなく、「皿」であること--現実を叩き割るような、ことばの「まちがい」が輝かしい。「模様のある洗面器」ではつまらない。「ちゃわん」という長い音ではなく「さら」という短い音も、この「まちがい」には効果的だ。「まちがい」は長くなると嘘になる。
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西脇順三郎の一行(5)

2013-11-22 00:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(5)

 「眼」

白い波が頭へとびかゝつてくる七月に

 波の描写、波が高いということはわかる--と書いたら、それは実感とは違う。私は波の高さを実感していない。「とびかゝつてくる」という動詞に、波のいきいきした動きを見ている。そのときは波を高いとは思わない。波を危険とは思わない。
 たとえば防波堤で、あるいは岩場で、波がたたきつけてくるしぶきを頭から浴びる。そのとき、「わああっ」と声を出して、私は喜んでいる。おもしろくてしようがない。
 そういう明るさがある。輝きがある。
 「白い波が頭へ」ということばのなかでは、また「白い波頭」ということばも動いている。
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