西脇順三郎の一行(34)
西脇の詩は、ことばが「行わたり」をしているために1行だけ取り出すと「意味」がとれないときがある。この行もその例である。
途中で出会ったおばあさんにイノシシについて尋ね、何事かのことばが返ってくる。そのあとの1行であり、それは「な方言で話をして我々をにらんで行つた。」とつづく。
きょう取り上げた1行は、「音」のおもしろさからいうと、そんなに楽しくはないのだが……。また、私の過去としていることは、「という意味を徒然草の里言葉みたい/な方言で話をして我々をにらんで行つた。」とつづけないと書けないことなのだが……。
西脇は、人のことばを聞くとき、「意味」と同時に「音」を聞いている。それは誰でもそうなのだろうけれど、「意味」に関心をもつと同時に、「音」そのものに関心を持っている。どういう「肉体」から出でくる「声」なのか。そのことに注目している。
「徒然草の里言葉」というのは、西脇が直接肉体で聞いたことばではないだろうから、その「音(声)」は、外からは「耳」に聞こえてくると同時に、内からは「脳」から聞こえてくる「音(声)」である。
西脇の「声(音)」は、いつも「耳(外)」から聞こえるものと、「脳(内)」から聞こえるものがぶつかり、互いを鍛える感じで動く。そういうことを語る一行だと思う。
この詩の最後の2行の「と桜井さんはサンスクリットで言った。/この女はフランス語だと思った。」というのも、同じものである。
で、この最後の2行でわかるように、西脇は、その「耳」と「脳」の声を聞きながら、「意味」ではなく、よりも「音」の方に傾いている。何を言ったかではなく、「サンスクリット語」が「フランス語」で言ったかを問題にしている。ほんとうは日本語で言っているのだから、「サンスクリット語」に聞こえたか、「フランス語」に聞こえたか--を問題にしている。西脇はいつでも「聞く」人なのだ。
きょうの一行も、何を言ったかではなく「徒然草の里言葉」の、「音(声)」の響きをこそ明確にしたいために、1行として独立しているのだ。
「しゅんらん」
という意味を徒然草の里言葉みたい
西脇の詩は、ことばが「行わたり」をしているために1行だけ取り出すと「意味」がとれないときがある。この行もその例である。
途中で出会ったおばあさんにイノシシについて尋ね、何事かのことばが返ってくる。そのあとの1行であり、それは「な方言で話をして我々をにらんで行つた。」とつづく。
きょう取り上げた1行は、「音」のおもしろさからいうと、そんなに楽しくはないのだが……。また、私の過去としていることは、「という意味を徒然草の里言葉みたい/な方言で話をして我々をにらんで行つた。」とつづけないと書けないことなのだが……。
西脇は、人のことばを聞くとき、「意味」と同時に「音」を聞いている。それは誰でもそうなのだろうけれど、「意味」に関心をもつと同時に、「音」そのものに関心を持っている。どういう「肉体」から出でくる「声」なのか。そのことに注目している。
「徒然草の里言葉」というのは、西脇が直接肉体で聞いたことばではないだろうから、その「音(声)」は、外からは「耳」に聞こえてくると同時に、内からは「脳」から聞こえてくる「音(声)」である。
西脇の「声(音)」は、いつも「耳(外)」から聞こえるものと、「脳(内)」から聞こえるものがぶつかり、互いを鍛える感じで動く。そういうことを語る一行だと思う。
この詩の最後の2行の「と桜井さんはサンスクリットで言った。/この女はフランス語だと思った。」というのも、同じものである。
で、この最後の2行でわかるように、西脇は、その「耳」と「脳」の声を聞きながら、「意味」ではなく、よりも「音」の方に傾いている。何を言ったかではなく、「サンスクリット語」が「フランス語」で言ったかを問題にしている。ほんとうは日本語で言っているのだから、「サンスクリット語」に聞こえたか、「フランス語」に聞こえたか--を問題にしている。西脇はいつでも「聞く」人なのだ。
きょうの一行も、何を言ったかではなく「徒然草の里言葉」の、「音(声)」の響きをこそ明確にしたいために、1行として独立しているのだ。