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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎の一行(34)

2013-12-21 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(34)

 「しゅんらん」

という意味を徒然草の里言葉みたい

 西脇の詩は、ことばが「行わたり」をしているために1行だけ取り出すと「意味」がとれないときがある。この行もその例である。
 途中で出会ったおばあさんにイノシシについて尋ね、何事かのことばが返ってくる。そのあとの1行であり、それは「な方言で話をして我々をにらんで行つた。」とつづく。
 きょう取り上げた1行は、「音」のおもしろさからいうと、そんなに楽しくはないのだが……。また、私の過去としていることは、「という意味を徒然草の里言葉みたい/な方言で話をして我々をにらんで行つた。」とつづけないと書けないことなのだが……。
 西脇は、人のことばを聞くとき、「意味」と同時に「音」を聞いている。それは誰でもそうなのだろうけれど、「意味」に関心をもつと同時に、「音」そのものに関心を持っている。どういう「肉体」から出でくる「声」なのか。そのことに注目している。
 「徒然草の里言葉」というのは、西脇が直接肉体で聞いたことばではないだろうから、その「音(声)」は、外からは「耳」に聞こえてくると同時に、内からは「脳」から聞こえてくる「音(声)」である。
 西脇の「声(音)」は、いつも「耳(外)」から聞こえるものと、「脳(内)」から聞こえるものがぶつかり、互いを鍛える感じで動く。そういうことを語る一行だと思う。
 この詩の最後の2行の「と桜井さんはサンスクリットで言った。/この女はフランス語だと思った。」というのも、同じものである。
 で、この最後の2行でわかるように、西脇は、その「耳」と「脳」の声を聞きながら、「意味」ではなく、よりも「音」の方に傾いている。何を言ったかではなく、「サンスクリット語」が「フランス語」で言ったかを問題にしている。ほんとうは日本語で言っているのだから、「サンスクリット語」に聞こえたか、「フランス語」に聞こえたか--を問題にしている。西脇はいつでも「聞く」人なのだ。
 きょうの一行も、何を言ったかではなく「徒然草の里言葉」の、「音(声)」の響きをこそ明確にしたいために、1行として独立しているのだ。
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西脇順三郎の一行(33)

2013-12-20 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(33)

「自伝」

それから三田へ来た

 「自伝」というタイトルを手がかりにすれば、この「三田」は慶応大学であろう。「自伝」では、思い出したことを田舎の具体的な風物や(といっても単語だけだが)、英語の「リーダーでは銅版画ばかり覚えている」(英語のことは覚えていない)というようなことなどをほうりだしたように書いている。読者に「感情」を説明しようとしていない。
 「それから三田へ来た」は単に時間の経過を示すだけである。それによって、西脇がどうかわったか、というようなことは書かず、ただ「前の時間」と「後の時間」を区切りだけのために書いている。そこに不思議なスピードがある。
 そして考えてみると、西脇のことば(単語)は、この「それから三田に来た」ということばのように、前のことばと後のことばを区別する(断絶させる)ためにこそ動いているように見える。
 ことばが、何かに縛られない。ことばがことばを断ち切って動いていく。



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西脇順三郎の一行(32)

2013-12-19 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(32)

「六月の朝」

キリコ キリコ クレー クレー

 キリコもクレーも画家。でも、このことばからは「絵画」は浮かびあがってこない。「絵画」を突き破って「音楽」が聞こえてくる。音を繰り返すと「音楽」になる。(そして、色を繰り返すと「絵画」になるのかもしれない。)
 この、画家を登場させながら「絵画」ではなく「音楽」とことばが動いていくところがおもしろい。
 「キリコ」は、その音を入れ換えて「きこり(木樵)」にもなってしまう。
 詩は庭の描写から始まり、「キリコ キリコ クレー クレー」という一行のあとに樵を登場させ、その樵との対話へと動いていく。その「会話」は具体的には書かれていないが、かわいた、さっぱりした音が聞こえてくる感じだ。自分の知っていることを自分の知っていることばで、それをそのままほうりだすような感じの西脇と職人との、現実を叩き割るような会話が聞こえる。
 具体的に語れば語るほど抽象(比喩)になってしまうような、ある意味では、キリコ、クレーの絵のような……。
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西脇順三郎の一行(31)

2013-12-18 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(31)

 「道路」

このため息のうるしの木

 何のことかわからない。ただ「ため息」と「うるしの木」が結びついていることに不思議な気がする。うるしの木がそこにあるのだ、ということだけがわかる。西脇がうるしの木を見ているということだけがわかる。
 そして、そのうるしの木は、西脇にとってはとても重要なものである。「この」が、うるしの木を、ほかの木々から選別している。そこには何らかの思い入れ(?)がある。だから「ため息」も出るのだろう。
 「意味」(強調)があるとすれば、うるしの木でもなく、ため息でもなく、その直前の「この」ということばそのものかもしれない。
 だから(?)、その「この」の「の」と音をあわせて、ため息「の」、うるし「の」と「の」が重なるようにしてつづくのだ。
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西脇順三郎の一行(30)

2013-12-17 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(30)

 「粘土」

トネ河とツクバを左にみて

 ふつうなら「利根川と筑波(山)を左にみて」と書くだろう。その方が何を見たかイメージがはっきりするからである。しかし、西脇は「わざと」カタカナまじりで書く。まるで外国の風景のように。
 ではなく。
 私は、そのとき実は風景を思い描かない。「河」は河になって水を流そうとするが、水の流れになって動こうとするが、それは瞬時に「ツクバ」という音によって消えてしまう。風景が消える。
 そして、「音楽」がかわりに聞こえる。「トネ」「ツクバ」。カタカナで書くと奇妙な音だ。それがほんとうに日本語にあるかどうかわからない。つまり、わけのわからない「音」だけがそこにあって、その音を聞きながら「左」を見る。視覚は「方向」だけを見て、ものを見ない。風景を見ない。
 もちろん視覚には何かが飛び込んできて、それは網膜に像を結ぶけれど、それは「無意味」。「意味」があるとすれば、「左」だけ。
 「左」といっしょにあるのは「音」だけである。
 このあと詩は「話をしながら/歩いたのだ」というように「ことば(会話/対話)」の世界へ入っていくが、これは自然な成り行きである。
 西脇は「視覚」で歩くのではなく、「聴覚」で歩くのだ。歩くと(動くと)聴覚が覚醒するのである。
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西脇順三郎の一行(29)

2013-12-16 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(29)

 「夏(失われたりんぽくの実)」

恐ろしい生命のやわらかみがある

 この一行だけでは「意味」は正確には伝わらない。その「正確ではない」ところがおもしろい。西脇は文脈の「正確」を拒絶している。「意味」を拒絶している。
 そして、これは矛盾した言い方になるが、「正確な意味」を拒絶することで、「純粋な意味」を強調している。純粋の強調--それが詩なのである。
 恐ろしい生命の/やわらかみ
 恐ろしい/生命のやわらかみ
 どこで区切って整理すれば「意味」が正確になるのかわからない。わからないまま「恐ろしい生命のやわらかみ」というものが「ひとつ」になる。そこには「恐ろしい」「生命」「やわらかみ」という三つの「要素(?)」があるが、それはしっかり結びついて「恐ろしい生命のやわらかみ」という「ひとつ」になっている。
 「三つ」が「ひとつ」なのだから、そこには「純粋」というものではない何か変なものがあるのだが--それを「ひとつ」にしてしまうのが「強調」ということである。
 ここには意味ではなく、意味の「強調」が「ある」。「強調されたもの/詩」がある。「詩」は「強調」なのである。
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西脇順三郎の一行(28)

2013-12-15 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(28)

 だんだん一行だけを取り上げるのがむずかしくなってきた。西脇の詩には行わたりというか、一行で完結しないものが多く、その不自然な(?)ことばの動きに詩があるからだ。その日本語の文法を脱臼させるような動き、それ自体が非常に魅力的だからである。

 「山●の実」(さんざし--文字が表記できないので、●にした)

心を分解すればする程心は寂光

 この一行は、次の行へ「の無に向いてしまうのだ。」と動いていく。一行では完結していないのである。
 この一行は、それでも「心を分解する」と「心は寂光」が対峙することで、これはこのままでも完結しているとも感じさせる。西脇のことばには文法を超えた緊迫感がある。文法に頼らなくても、ことばがことばとして独立して存在する力がある。
 そういうことを感じさせてくれる。
 これは

の無に向いてしまうのだ。

 でも同じことがいえる。この一行だけでは「意味」を正確につかみ取ることはできない。冒頭の「の」が文法としてとても不自然だからである。
 しかし、その不自然を越えて、「無」が一行のなかではっきり存在感を持っている。「無」が見えてしまう。読んでいる私が「無」の方を向いて、「無」を見ている。見てしまう。
 「寂光の無」ではなく、何もない「無」、何にも属さない絶対的な「無」。

 詩とは、何かに属するのではなく、何にも属さない「もの/こと」なのである。
 そういうものを、西脇はこの詩のなかで「これほど人間から遠いものはない。」と書いている。人間から断絶した「もの/こと」と向き合うために、西脇は文法という接着剤を破壊するのである。

 きょうは自分に課した「おきて」を破って、3行を引用してしまった。

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西脇順三郎の一行(27)

2013-12-14 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(27)

 「冬の日」

この村でラムプをつけて勉強するのだ。

 「ラムプ」が「ランプ」であったら好きになったかどうかわからない。「ラムプ」には音にならない不思議な音がある。耳に聞こえる音の奥、脳のなかに響く音がある。記憶の音。そういう音が昔はあったのだという肉体の記憶が脳に残っている--というのは、もちろん嘘、というか方便なのだが……。
 西脇の音(音楽)は「肉体」そのもので聞くというよりも、何か、この「ラムプ」につうじる不思議な響きがある。脳に響いてくる。脳なのだけれど、脳だけではなく、脳が覚えている「肉体の記憶」。かつては、そういう肉体があった、「ラムプ」は唇が動き、音が美しく口のなかにこもる、その振動が口蓋をくすぐる……。
 いまでも「ン」よりも「ム」の方が「プ」につながりやすいのだけれど。どうして「ン」と書くようになったのか……といってみても始まらないが。
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西脇順三郎の一行(26)

2013-12-13 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(26)

 「無常」

バルコニーの手すりによりかかる

 書き出しの一行。「よりかかる」という動詞が「無常」と向き合う。「無常」というのは、正面切って向き合うというよりも、ぼんやりと、どうしていいかわからずに、何かによりかかって向き合ってしまうものかもしれない。
 「主語」は「私」なのか、それともほかのだれかなのか。
 2行目は「この悲しい歴史」。この2行目が「主語」かもしれない。そうに違いないと私は思う。その「悲しい歴史」が何を指しているかわからないが、わからないからこそ、そう思う。
 「よりかかる」という動詞のなかで、ひとと歴史が重なり、同じ姿勢をとる。それが「無常」ということだとも思う。
西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会
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西脇順三郎の一行(25)

2013-12-12 06:06:00 | 西脇の一行

 「秋 Ⅱ」

タイフーンの吹いている朝

 台風ではなくタイフーン。「たいふう」と声に出すときよりも「ふ」の音が長い。のばされことで「ふ」の音が強調される。だから「吹いている」の「ふ」の音がはっきり聞こえる。「ふいている」だけだと、私は母音「う」をそれほど明確には発音しない。「ふいている」が「音楽」として響くのは「タイフーン」だからこそだと思う。
 「秋 Ⅱ」は、ほかのすべての行も「音楽」として美しいと思う。「西脇の一行」というタイトルで書きはじめて、あ、くやしい、と思う。もっと書きたいのに書けない。

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西脇順三郎の一行(24)

2013-12-11 06:06:06 | 西脇の一行

 「アン・ヴァロニカ」

恋心に唇をとがらしていた。

 唇をとがらすのは不満のときが多いようである。でも、この詩では不満からとがらしているのではないかもしれない。理由はわからない。わからないから、詩なのだろう。わからなさを、「とがらす」ということばが運んできていることがおもしろい。
 音もとてもおもしろい。「か(が)行」の音が多いのだが、「とがらしている」ではなく「とがらしていた」と「た」で終わるのもいいなあ。それまでの音の構成が「お」を多く含んでいてやや閉鎖的なのに、最後の「た」の母音は「あ」。ぱっと開放されて、明るくなる。「とがらして」の「が」の濁音も「あ」の響きに豊かさを与える。
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西脇順三郎の一行(23)

2013-12-10 06:06:06 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(23)

 「近代の寓話」

考える故に存在はなくなる

 「我思う、故に我あり」ということばが思い浮かぶ。「思う」は「考える」に似ている。「思考」ということばは「思う」と「考える」を結びつける。「我考える、故に我あり」と言い換えることができるかもしれない。
 そして、そこからこの一行へ引き返すと……。
 「考える故に私という存在はなくなる」。
 何だか矛盾する。
 「意味」が通るようにするには、たとえば、「考える、そのとき考えられた対象は存在しなくなる」。なぜなら、存在(対象)は「考え」のなかに組み込まれ、そこには考えが存在するだけだからである。
 あるいは逆に、「考える、そのとき私という存在は対象のなかに組み込まれ、対象のなかで動いている。ゆえに私は存在しなくなる」。
 どっちでもいい。
 それよりも、私は、私が書いた「存在しなくなる」ということばよりも西脇の書いている「存在はなくなる」という短い音がとても気に入っている。そして、それが「存在しなくなる」ではなく「存在はなくなる」という短い音、「な」がより近接して感じられる音のために美しく響いていると感じる。その美しい響きのために、「意味」を追いかける気持ちもどこかへ消えてしまう。
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西脇順三郎の一行(22)

2013-12-09 06:00:00 | 西脇の一行

西脇順三郎の一行(22)

 『旅人かへらず/一六四』(31ページ)

旅人のあんろこ餅ころがす

 きのう取り上げた断章のつづきになってしまったが……。
 この一行は、一般的には「旅人のあんろこ餅ころがす」と書くところである。旅人「の」ではなく、旅人「が」。主格をあらわす助詞をつかうと思う。けれど西脇は「の」をつかう。「の」は西脇の愛用する助詞である。
 「の」という助詞によって、何が起きるのか。
 私の「感覚の意見」では、「の」だと「旅人」という主語が主語ではなくなる。旅人が主語、あんころ餅が補語(目的語)、ころがすが述語という、主-述の関係が「ほぐされる」。一瞬「ばらばら」になる。「並列」になる。
 「主-述」ではなく、「並列」、言い換えると「対等」。
 あ、これが詩なんだな。
「もの(こと)」が何かによってととのえられ、「流通」しやすくなるのではなく、その「流通」から逸脱して、「私はこっち」とわがままに自立(自律)する。そのときの「手触り(手応え)」のようなもの、「抵抗感」が詩なんだな、と思う。
 また、この「の」、あるいは「の」に含まれる母音「お」は他の音とも響きあう。「が」でも「あ」の音が響きあう部分があるけれど、「の(お)」よりも数が少ない。西脇は音楽的な点からも「の」を選んでいるように感じられる。

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西脇順三郎の一行(21)

2013-12-08 06:00:00 | 西脇の一行

西脇順三郎の一行(21)

 『旅人かへらず/一六四』(30ページ)

車はめぐり

 この一行は独立させて読むのがむずかしい。ということは「意味」をもっているということである。
 この断章では西脇は「輪廻」を書いている。「人の種も再び人の種となる」というときの「再び」が「輪廻」を結晶させている。そういう「意味」を語る途中で西脇は「水車」を持ち出して「この永劫の水車/かなしげにまわる/水は流れ/車はめぐり/また流れさる」と展開する。
 このとき「水」は「無常」である。いっときも「同じ」ではない。水車の「車」はどうだろうか。そのあり方は「水」の「無常」とはずいぶん違う。そこに存在しつづける。「無常」のなかにあって、「無常」ならざるものなのだ。
 何を見たのか、一瞬、私はわからなくなる。
 この「車」は「無常」ではないが、「無常」の影響を受けてまわっている。その「まわる」運動は、実はまわされているのだが、西脇のことばの調子からは「されている」という受け身の印象は浮かび上がらない。
 「されている」につながる「まわる」を避けて「めぐる」という動詞で言いなおしている。言い直しながら、その動詞は「また流れさる」と、まるでそこに存在しながらも、水車がどこかへ消えていくという印象も呼び起こす。
 何か矛盾している。
 その矛盾に、詩がある。
 水が流れさるなら、その水によってまわる水車の車も流れさるはずである。それでもそこに「車」があるなら、それは、そのつど水といっしょにそこにあらわれてくる「もの/こと」なのだ。
 こういう消え去りながら、そのつどあらわれて、そこに存在しつづける「もの/こと(水車/めぐる)」の「自立性(自律性?)」が西脇の詩なのだ。
 ことばは描写として「つづいている」のではなく、そのつど、そこに「あらわれている」のである。

西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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西脇順三郎の一行(20)

2013-12-07 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(20)

 『旅人かへらず/一六四』(29ページ)

ただ二階に一つあく窓

 これは「へたくそ」な日本語である。ある家の描写なのだが、家には幾つも窓がある。それは閉ざされている。二階にある窓が一つだけ開いている。--西脇の一行で、それが「わかる」は「わかる」のであるが、とても奇妙である。「へたくそ」な日本語である。
 なぜ「へたくそ」に感じるかといえば「あく」という動詞のつかい方が変なのである。窓はひとりでに「あく」ことはない。だれかが「開ける」。窓は「開いている」のである。それを西脇は「あく」と自動詞で表現している。
 窓に意思があるかのように描いている。
 「もの」が自分で動いている。--というのは「もの」が人間から独立しているということである。
 「もの」が人間から自律し、ひとりで動くとき、そこに詩がある。その詩というのは、人間の「思い(感情/精神)」から切り離された何か、「非情」の何かである。
 「非情」は「淋しい」という西脇の大好きな詩の根幹である。
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