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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウィリアム・フリードキン監督「フレンチコネクション」(★★★★★)

2011-02-12 13:18:16 | 午前十時の映画祭
監督 ウィリアム・フリードキン 出演 ジーン・ハックマン、フェルナンド・レイ、ロイ・シャイダー

 ウィリアム・フリードキンが乗りに乗っていた時代の大傑作だねえ。きのう見た「ザ・タウン」のカーチェイスや銃撃戦はなつかしい感じがいっぱいだったが、「フレンチコネクション」は「なつかしい」ではなく、この当時の到達点だ。ストーリーはあるのだけれど、そのストーリーを超えて映像が、ただただ映像が充実していく。ストーリーを超えて存在する。その力に驚く。
 走る地下鉄を、高架下から見上げながらポパイが車で追いかけるシーン。そんなことは現実にはできないのかもしれないけれど、できないとはいわせないぎりぎりの水準のところをやっている。これはCGに頼らない映像のすごさだねえ。いまだったらCGでやってしまうから、すごいはすごいが、映像に厚みがない。この厚みというのは、アクションの定義とは矛盾するようだけれど、ゆっくり感にある。早すぎない。目がおいついていけないスピードではなく、目がしっかりおいついていけるスピードの限界で動く。これがいいんだろうなあ。
 しかし、昔のスタントマンは大変だっただろうなあ。カメラも必死だっただろうなあ。いのちをかけた真剣さが映像に緊張感をもたらすのだと実感できる。
 地下鉄の中での銃撃戦やパニックも、驚くほど地味なのだが、その地味さ加減が現実感になる。客はパニックを起こして逃げるが、いまの映画のようにものすごいスピードでは逃げない。ぶつかりながら、もたもたと逃げる。そこにリアリティーが生まれる。
 車をつかわないシーンでもそれは同じ。ポパイが走る、走る、走る。それはまあ、映画だから全力で走っているシーンをつないでいるのだけれど、その走りが「苦しい」ところがいいなあ。ジーン・ハックマン自体がスマートではないのだけれど、どこかにもたもた感が残る。そうすると、そのもたもた感から、肉体の親密感のようなものが広がってくる。いつも、そこに肉体がある、という感じが映画なのだ。いまの映画も肉体を伝えるけれど、それは鍛え上げられすぎていて、ついていけない。まねできない。まねできる、これをやってみたい、そう感じさせないとおもしろくないねえ。親密感がわかないねえ。
 もうひとつ。車を解体してヘロインを探し出すシーンも大好きだなあ。どこまでもどこまでも解体していく--というのはコッポラの「カンバセーション」(なぜか、主演はジーン・ハックマンだね。共通しているね)にもあるけれど、おもしろいねえ。車がスクリーンの中で拡大されて、解体される。そうすると、車の「肉体」のようなものが見えてくる。手触りが濃密になる。こんなに解体して、どうやってもとに戻すんだ--とびっくりしてしまうが、もちろん手品みたいにもとに戻るのもいいねえ。
 つくづく思うのは、この時代の役者は、みんな「肉体」で動いていた。肉体を動かして演技していた。いまも肉体を動かしている、というかもしれないけれど、いまは、肉体の動きをカメラで加速している。それが余分だねえ。
 あくまでカメラは役者の肉体を追いかける。カメラが役者の肉体を後押ししたり、引っ張ったりすると、スピードは出るが、肉体の「濃さ」「重さ」がなくなる。そのカメラも、昔の映画は重たかったねえ。動きがもったりしている。これが尾行のシーンなんかには効果的だなあ。いまの映画は尾行するとき(群集のなかを動くとき)も安定しているが、昔はもたもた。このもたもたのなかに、時間のおもしろさがある。時間をかける、時間がかかる。時間は「間」だね。そこに間があるから、観客は想像力を投げ込むことができる。いまの映画は「間」がないのだ。

 映画はまたジーン・ハックマンのすけべそうな魅力も伝えている。若い女をみるときの目付きが、何か甘ったれたところがある。それがおもしろい。甘ったれたところがあるというのは、まあ、脇が甘いということかもしれない。それが女に手錠かけられて動けないというセックスシーンにつながったりする。そしてまた、役どころの、「勘が鋭い」というところにもつながる。甘い部分があるというのは、一種の弱みだけれど、その弱い部分を補うようにして勘というものが発達する--というのは、私の思い込みだけれど。
 フェルナンド・レイにも色気があるなあ。地下鉄でジーン・ハックマンの尾行を巻くシーン。声に出すわけではないが、ドア越しに「アデュー」と目でつげる。手でつげる。この手の動きが、ラスト寸前のジーン・ハックマンの手の動きと呼応するところもいいなあ。
 犯罪者と刑事というのは、一種の「愛人関係」だねえ。それがあるから、おもしろいんだろうなあ。
                   (「午前10時の映画祭」青シリーズ2本目)


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ドン・シーゲル監督「ダーティハリー」(★★★)

2011-02-06 13:06:52 | 午前十時の映画祭
監督ドン・シーゲル 出演クリント・イーストウッド、ハリー・ガーディノ、アンディ・ロビンソン

 出だしがおもしろいなあ。クリント・イーストウッドがスクリーンに登場するタイミングに合わせて「クリント・イーストウッド」の名前が出てくる。この人がクリント・イーストウッドです――という感じ。そんなことなんかしなくてもいいのに、といえば確かにそうなんだけれど、どこか不思議な親切さが感じられる。
 これはたとえばサンフランシスコの描き方にもあらわれている。殺人事件があり、どこから銃撃したのかクリント・イーストウッドが調べに行く。そのビルの屋上から周りを見渡す。そうするとサンフランシスコの全景が見えてくる。ニューヨークとは違った空気がぱっと広がる。これはいいなあ。地上に降りて(?)、街が描かれるが、その通りの広さ、車の行き来――そのときの空気の動きがニューヨークとは違うというのが、さらにわかる。サンフランシスコがあって、ダーティー・ハリーがいる。これがニューヨークなら、来週見る予定のポパイ(「フレンチ・コネクション」)だね。
 街の空気にかぎらず、この時代の映画は手触り感がいいなあ。アクションはいまの映画と比較すると非常にのんびり(?)しているが、そののんびりのなかに肉体が生きている。ダーティー・ハリーが乗っ取られたスクールバスに飛び乗るクライマックスなんか、ほら、俺にもできそう、と思うでしょ? いまの映画じゃ、俺にもできるというアクションなんてひとつもない。で、逆にできないはずの「マトリックス」のスローモーションの弾丸よけ(体を後ろに、イナバウアー以上にそらす、あれ)なんかの方が、「マトリックス!」なんて叫びながら遊んじゃうよね。
 具体的には描かれないのだけれど、そのスクールバスに飛び乗るシーン、あれができるのは誰かがバスの前で車をゆっくり走らせるからだね。上層部にはダーティー・ハリーをこころよく思わない人がいるんだろうけれど、現場では慕われていて、協力する警官がいるということをうかがわせる。このあたりの呼吸も気持ちがいい。
 最後の最後、なぜ犯人はバスに乗っている児童を人質にせず、炭鉱へ逃げ込むのか――なんてツッコミは、まあ、やめておきましょうね。
                    (午前10時の映画祭、青シリーズ1 本目)


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ピーター・イェーツ監督「ブリット」(★★★★)

2011-01-17 23:16:57 | 午前十時の映画祭
監督 ピーター・イェーツ 出演 スティーヴ・マックイーン、ロバート・ヴォーン、ジャクリーン・ビセット

 かつて見たとき、印象に残ったのはサンフランシスコのカーチェイスと夜の空港、滑走路での追跡である。今回、「午前十時の映画祭」で見直して、やはりカーチェイスのシーンがすばらしいと感じたが、全体も非常に充実していることに気がついた。
 冒頭、監督らのクレジットの文字のなかから場面があらわれるのも新鮮だが、それ以上にひとつひとつのシーンが「もの」の材質に迫っている。単に「もの」をスクリーンに映し出すのではなく、「もの」の存在感をスクリーンに定着させている。オフィスの襲撃(強盗?)のシーンの、室内の感じ、壁の感じ、ガラスの感じ、光と闇の感じ--そして、そこから、登場人物の「素質」のようなものも感じられる。あ、これは役者の「存在感」をそのままスクリーンに定着させて動いていく映画なのだ、とわかる。
 主役はスティーヴ・マックイーン。その演技が、ストイックでとてもおもしろい。「事件」を頭で完全に理解し、その理解にそって肉体を動かしている。アクションの基本は「頭脳」なのだという印象を強く浮かび上がらせる。--こんな映画とは、知らなかった。そのことに、とても驚かせた。昔見た映画とは別物、という感じすらした。
 役者の「素質」というか「素材」のおもしろさ--それが端的に出ているのがロバート・デュバルのつかい方である。タクシーの運転手を演じている。後部座席のシートの後ろに犬のぬいぐるみを置いている。スティーヴ・マックイーンが被害者の動き再確認するために、そのタクシーに乗る。ロバート・デュバルはいろいろ「証言」するのだが、その最後の決めて、
 「被害者は2度電話した。2度目は遠距離だ」
 「どうして遠距離とわかる」
 「コインの数だ」
 この冷静な分析。さすが、「ゴッド・ファーザー」の弁護士だなあ。ロバート・デュバルに演じられないなあ、と感心してしまった。(昔は、ロバート・デュバルなんて、知らなかった。)
 ジャクリーン・ビセットもおもしろい。使える車がなくなったとき、スティーブ・マックイーンの「足」になって車を運転する。途中で、異変に気づき、殺人の「現場」へ駆けつける。マックイーンに何か起きたのでは、と心配してのことなのだが。そのときの、カンのあらわし方、その後の悲しみのあらわし方--特に、悲しみの深さが彼女をより美しくみせるというつかい方が、とてもすばらしい。ジャクリーン・ビセットには悲しみの中で知的に輝き、そのとき彼女の人間としてのやさしさがあふれる。
 カーチェイスは、いまの映画に比べると「地味」なのだが、その地味さのなかに、美しさがある。サンフランシスコの坂をとてもよくつかっている。坂はずーっと斜面なのではなく、道とクロスするとき平らな部分が出てくる。その平らな部分を通り、もう一度さかに入る瞬間、車が必然的にジャンプする形になる。そこに無理がない。ここでもサンフランシスコという町(坂)の材質・素質(?)というものが浮き彫りになる。車の運動の特質も浮き彫りになる。存在感がくっきりしてきて、スクリーンを見ていることを忘れる。「町」そのもののなかで、カーチェイスを見ている感じになる。
 途中、タイヤのホイールが外れるのは「演出」か「偶然」かわからないが、そのホイールの転がる音が、映像を「必然」に変えてしまう。カーチェイスそのものの材質というのは変だけれど、手触りのようなものが一気にスクリーンから噴出してくる。いまの映画のCGでは出でこない味である。

 ストーリーではなく、「味」をみせる映画なのだ。この映画が「ダーティー・ハリー」のようにシリーズ化されなかったのは、ストーリーではなく、役者や都市の「味」を見せる映画であるという特質も関係しているかもしれない。
                      (「午前十時の映画祭」50本目)



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フランクリン・J・シャフナー監督「パヒヨン」(★★)

2011-01-09 22:18:28 | 午前十時の映画祭
監督 フランクリン・J・シャフナー 出演 スティーヴ・マックイーン、ダスティン・ホフマン

 この映画を最初に見たのは学生のときである。当時、ダスティン・ホフマンはアカデミー賞の主演男優賞候補の常連だった。ダスティン・ホフマンにやれない役はない--そう思われていた感じある。少なくとも、私は、そんな具合に感じていた。ダスティン・ホフマン自身、どう思っていたかはわからないけれど、もしかしたら彼自身そう思っていたのかもしれない。それで、この映画にも出てみる気になったのでは……。
 こんなことから書きはじめるのは。
 どうも、スティーヴ・マックイーンとダスティン・ホフマンがかみ合わない。ストーリーはわかるのだが、二人が親近感を感じる二人には見えないのである。信頼関係というのは、変な言い方になるが、どこかに「色気」を含んでいる。それがない。スティーヴ・マックイーンとダスティン・ホフマンが互いにひかれあう何かを感じているとは思えない。互いに相手の魅力をまったく感じていない--そういう感じがするのだ。仕事だからいっしょにやっているだけ、という感じがとても強く漂っている。
 これは、たとえばスティーヴ・マックイーンが逃走の途中であう男たちとの関係と比較するとわかりやすいかもしれない。脱走兵を殺すハンターを殺した入れ墨の男、パピヨンの入れ墨を彫ってくれと頼む酋長(?)、密輸で生きているハンセン病の男--彼らとスティーヴ・マックィーンが対話するとき、そこに何か、親密な空気がある。自分を叩き壊しても、相手に接近する何かがある。「色気」がある。
 ところがスティーヴ・マックイーンとダスティン・ホフマンの間には、そういう感じがまったくない。別れの抱擁のシーンでさえ、別れを惜しんでいる感じがしない。ダスティン・ホフマンが顔で別れの感情をあらわす。けれど、それをスティーヴ・マックイーンの背中が受け止めない。まるで、いま、カメラはダスティン・ホフマンの顔の演技をアップでとらえている。おれは背中をかしてやっているだけ、という感じだ。(背中は代役?)ダスティン・ホフマンの演技を受け止めていないのだ。
 しらけるのである。
 演技というのは不思議なものだなあ、と思う。一人がどんなにうまく演じても、それだけではカメラに定着しないのだ。演技を受け止める相手がいて、はじめて演技になるのだ。演技とは、ある意味でセックスなのだ。恋愛なのだ。自分がどうなってもいいというつもりで相手に自分を切り開いていかなければ、かみ合わないのだ。
 これは、ほんとうにほんとうに不思議な映画である。



 この映画以降、ダスティン・ホフマンは「クレイマー、クレイマー」で復活するまで、長い長い低迷に入った--と私は思っている。ダスティン・ホフマンの最初の失敗作になるのだと思う。
                         (午前10時の映画祭、49本目)



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ジャン・ジャック・アノー監督「薔薇の名前」(★★★★)

2011-01-01 18:22:20 | 午前十時の映画祭
監督 ジャン・ジャック・アノー 出演 ショーン・コネリー、クリスチャン・スレーター、F・マーリー・エイブラハム

 ウンベルト・エーコの小説は私は読んでいない。長いので敬遠してしまった。読んでいないのにこんな感想は無責任かもしれないが、とてもよく「要約」された映画になっている。ショーン・コネリーの「過去」を描くシーンが少し物足りない。ことばでは「過去」が説明されるが、ショーン・コネリーの肉体にその「過去」の痕跡がない。つまり、「過去」が演技されていない。「過去」を演技するにはショーン・コネリーの肉体は頑丈過ぎるのかもしれない。あるいは、私が「007」のイメージでショーン・コネリーを見ているために、演技された「過去」を見落としているのかもしれないが……。
 殺されていく人物が戯画化されすぎている(肉体的にも)かもしれないが、この映画の暗い画面では、これくらいの戯画化がないと人物の区別がつきにくいかもしれない。僧侶(修道士)など、特に見分けがつきにくい格好(服装)をしているのだから。
 見どころは画面の暗さかもしれない。暗く汚れた画面にすきがない。まるでエーコの文体のようである。(と、読んでいないのに、私は書いてしまう。)その緊密な画面(画質)が反響し合って、塔の内部の迷路のような階段になる。ショーン・コネリーとクリスチャン・スレーターが行き違いになり、はぐれ、再び会うまでのシーンがとてもいい。声が反響し合って、どこにいるかわからなくなる。目にみえるもの、耳に聞こえるものが、逆に人間を混乱に陥れる。その不安な構造が、構造として映像化されている。
 外部から遮断され、しっかりと固められた内部、その複雑な構造--その構造そのものを内部から解体し、新しい構造につくりかえる。そういう「哲学」をそのまま再現した、象徴的なシーンだと思う。
 他の細部もとてもおもしろく描かれている。クリスチャン・スレーターは「迷子」から抜け出すために、セーターをほどいて出発点にしばりつけておく。それをたどってショーン・コネリーはクリスチャン・スレーター最初の部屋に戻ることになるのだが、その前、秘密の入り口をなんとかしようとしているとき、ショーン・コネリーは「カチカチカチ」という不思議な音を聞く。「カチカチカチ、という音が聞こえないか?」「私の歯がぶつかる音です」。セーターがほどけた分だけ、クリスチャン・スレーターは「薄着」になっていて、寒いのだ。こういう細部、細部を「事実」に変えてしまう丁寧さが、嘘(虚構--ストーリー)を本物にする。
 事件解決の手がかりとなる証拠、指先の黒いインクとそれを舐めたときの舌の黒いインクの色もしっかりと映像化されていて、映画はこういう細部で決まるのだと、改めて思った。



 ジャン・ジャック・アノーの作品に「人類創世」がある。この映画にはとてもおもしろいシーンがある。そこに登場する男女は、最初「ドッグ・スタイル」で性交している。ところが、あるとき女が体位を変え、「正常位」の体位へ男を導く。(セックスで何が正常か決めるのはむずかしいことだが……。)男は驚くが、正常位によって、性交の瞬間、互いの顔を見ることができる。そこから感情の交流が生まれ、性交は愛の表現に変わる。このシーンは、ジャン・ジャック・アノーの手柄である。そして、その体位を最初に「発明」したのが女である、というのもジャン・ジャック・アノーの手柄である。
 「薔薇の名前」とはあまり関係がないのだが、この映画の中でも、女がクリスチャン・スレーターのセックスのてほどきをしていた。それをみて、ふいに思い出したのでつけくわえておく。
                        (「午前十時の映画祭」48本目)
 

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ジョナサン・デミ監督「羊たちの沈黙」(★★★★)

2010-12-30 11:06:13 | 午前十時の映画祭
監督ジョナサン・デミ
出演ジョディ・フォスター、アンソニー・ホプキンス

 この映画の成功は、ジョディ・フォスターの力が一番大きい。まるでギリシャ悲劇の主役のように、内面に傷をかかえながら、他者(アンソニー・ホプキンス)に翻弄されながら、状況を切り開いていくのだが、低く知性的な声とシャープな肉体が、小さいながらも画面をぐいと引き締める。この映画以降、女性が「華」から「主役」へと大きく前進したと思う。
 アンソニー・ホプキンスはもしかするとジョディ・フォスターの身長に合わせる形でキャスティングされたのかもしれないが、イギリス俳優特有の立ち姿の美しさで、小さな体を大きく見せている。
 定評のある作品なので、あえて不満点だけを書いておく。
 ひとつめ。
 冒頭のクレジットが不細工。文字の大きさ、位置が目障りでしょうがない。私は、この冒頭のクレジットをすっかり忘れていた。ジョディ・フォスターが森を走っている。ジャージーの襟元と背中に汗がにじんでいる。(どうせなら、脇の下にも汗のにじみをつくるくらいのリアリティーがほしかった。)そこへ背後から大きな背中が近づいてくる。ジョディ・フォスターの小ささを生かした緊迫化のある始まりなのだが、文字が本当に邪魔である。私は記憶の中でその邪魔な文字を知らずに消してしまっていた。
 ふたつめ。
 ジョディ・フォスターがアンソニー・ホプキンスのことばを手掛かりに、連続殺人犯に迫っていく。その一番肝心な場面。ジョディ・フォスターが女友だちと会話する。「欲望の対象は一番身近にある(いつも見ているもの)」「最初の被害者にだけ重石がついていたのは発見を遅らせるため」などなど。あ、これが小説(ことば)ならそれでいいのだけれど、映画のクライマックスにこれはないだろうなあ。いや、ことばでもいいのだけれど、そのときは、ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスが同時に画面にいないとなあ。ふたりの役者の肉体がことばを超えていれば、そこにどんなにことばがあってもいけれど、一方のアンソニー・ホプキンスが不在で、話し相手が女友だちでは、ことばが主役になってしまう。
映画の主役はことばじゃないよなあ。
だからね。ほら、
最後のシーンがおもしろいよね。アンソニー・ホプキンスの主治医が南米(?)へ逃げてきて、「安全は大丈夫だろうな」と周りを見合し、そそくさとどこかへ行く。それを金髪で変装したアンソニー・ホプキンスがゆったりと追う。結論は描かず、いつもと同じ街、人通りが延々と写される。クレジットが画面の細部を隠す。あ、もしかしたら、あの文字の陰で・・・なんて思いながら食い入るように見てしまう。
こういうシーンが映画なんだよなあ。


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クロード・ルルーシュ監督「男と女」(★★★★)

2010-12-18 19:16:48 | 午前十時の映画祭
監督 クロード・ルルーシュ 出演 アヌーク・エーメ、ジャン・ルイ・トランティニャン

 この映画で一番好きなシーンは、アヌーク・エーメ、ジャン・ルイ・トランティニャンと子供たちが海岸で遊ぶところだ。走る子供の足に、ジャン・ルイ・トランティニャン足をひっかける。女の子の足にはうまくひっかからず、次にこころみた男の子の足にひっかかる。男の子は当然倒れる。それを抱き起こし、砂を払う――それだけのシーンだが、これがこの映画を象徴している。
 一回限り。
 男の子はきっと足をひっかけられることを知らないで走っている。このシーンがアドリブか、仕組まれた演出か、どちらであるか分からないが、もう一回撮ることはできない。男の子が警戒する。
 一回限り、二度と繰り返さない。それは、映画の撮り方を通り越して、男と女のふたりの関係にもなる。
 食事をしながら男が女の椅子の背後に手を伸ばす。指は女の背中に触れるか触れないか、微妙なところで躊躇している。こういうこともその日限りである。
 男が女を車で送っていく。ギアを動かした右手を女の膝にもっていく。女は、男の顔を見る。手を見ないで、顔を見て、あれこれ思っている。これも一度限り。次に同じことが起きたとしても、その時女は男の顔を、最初の時のように何分(実際は1分くらい?)も見つめたりはしない。
 このときスクリーンには女の顔しか写さないが、男はきっと女の方を見つめていない。手も見つめていない。ただ前を見て運転している。ただし、女に見つめられていることは感じている。
 こういうことも一回限りである。男と女の関係においては。
 そうなのだ、これは「即興」映画なのだ。脚本があるけれど、その場限りの動きが大切にされている。ストーリーよりも、役者の肉体そのものがそこにある。肉体でストーリーをたどりながら、肉体がストーリーから解放されている。
 ただ一回、セックスシーンの、アヌーク・エーメだけは「演技」である。やっとセックスまでたどりつきながら、その最中に死んだ男を思い出してしまう。その、思い出す瞬間、女が眼を開く。思い出してしまって、眼を開く。瞼に浮かんだ思い出を、いま、見えるものでかき消すかのように。
 そしてこのシーンだけが、一度ではなく、何度も繰り返される。アヌーク・エーメは何度も何度も眼を開く。
 おもしろいなあ。



 この映画は1966年に作られたということも、評価するときの要素になるかもしれない。自在なカメラワーク、焦点の移動など、その後の映画で採用されたいろいろな手法がつまっている。あ、こんなふうにすればだれでも映画が撮れる――と思わせる手法である。
 で、当時は、華麗なカメラワーク、映像の魔術師という風に評価されたと思うが、なんだか、いま見ると美しくない。オリベイラ監督のような、がっしりと動かない映像の方が剛直で美しいと、私には思える。まあ、これは、また時代がかわればかわってしまうことかもしれない。

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ルネ・クレマン監督「太陽がいっぱい」(★★★★)

2010-12-13 12:59:37 | 午前十時の映画祭
監督 ルネ・クレマン 出演 アラン・ドロン、マリー・ラフォレ、モーリス・ロネ

 アラン・ドロンは不思議な役者である。美形は美形である。だが、品がない。色でいうと「原色」である。どんな色でも黒を加えると色が落ち着き、品が出てくる。(好みの問題かもしれないが、私はそう感じる。。)アラン・ドロンには、その色をおさえる「黒」が欠けている。色が剥き出しである。その剥き出しの感じが、品がない、という印象を呼び覚ます。
 この映画では、その品のなさが「個性」として生かされているが、一か所、とても色気があるシーンがある。「持ち味」を上回って、努力というか、肉体を懸命に動かすシーンがあり、それが「原色」を抑え、色気になる。
 モーリス・ロネのサインを偽造する--偽造するために練習するシーンである。投影機を買い込み、小さなサイン壁いっぱいの大きさに拡大する。その拡大されたサインを全身をつかってなぞる。手先でサインの癖を盗むのではなく、全身で盗む。小さな紙にサインするときでも、肉体は微妙に全身をつかっている。その全身の感覚を、そっくりそのまま盗むのである。そのときの、他人になる感覚。アラン・ドロンの肉体それ自体を裏切りながら鍛えていく--そのシーンがとても迫力がある。
 私には気に入った映画の気に入ったシーンは真似してみたくなるという癖があるが、「太陽がいっぱい」では、この偽造の練習シーンである。
 このほかにも、この映画ではアラン・ドロンは「肉体」を酷使している。船からボートにほうりだされ、漂流して日焼けするシーン。その日焼けの皮膚が破れて、いわゆる皮がむけるシーン。その日焼けの肩の色、皮むけぼろぼろな感じ--これをメーキャップではなく、実際の肌でやっている。なんだか、すごい。
 その「肉体」を酷使した海のシーンでは、別の「肉体」の酷使の仕方もしている。モーリス・ロネを殺した跡、死体を布でつつむ。ロープで縛る。揺れる船の上での、その悪戦苦闘ぶりが、かなりの時間をかけて描かれる。--こういうシーンは映画ならではである。台詞は何もない。やっていることはわかりきっている。わかりきっていることだけれど、そういうことは普通ひとはみないし、やったこともない。だからほんとうのところ肉体がそのときどんなふうにして動くは知らない。その観客の、知っているようで知らないことを、アラン・ドロンが全身で再現する。サインの偽造の練習も、あ、そうか、とわかるけれど、そういうことは実際には誰も体験していない。その体験していないことを肉体でみせるが役者なのだ。
 あ、そうなのだ。おもしろいのは、すべて肉体なのだ。アラン・ドロンがモーリス・ロネの靴を履いてみたり、服を着てみたり、そしてそのまま鏡に姿を映して自分に口づけしてみたりも、ストーリーでもことばでもなく、ただ肉体なのだ。アラン・ドロンという特有の顔をもつ男の、特権的な肉体の動き。それが、この映画のおもしろさの核心である。
 肉体を酷使して酷使して、その最後--ああ、これで幸せになれると笑みを浮かべるクライマックスの、アラン・ドロンの顔。肉体が、そのとき、顔そのものになる。特権の花が華麗に、華麗過ぎるほど華麗に、満開になる。
 アラン・ドロンという役者は私は好きではないけれど、こういう特権的な顔を見るだけのために、この映画を見るのもいいかもしれない。犯罪映画を、まるで美男子の悲劇のように華麗に描いてしまうルネ・クレマンには、まあ、脱帽すべきなのだろう。


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マルセル・カルネ監督「天井桟敷の人々」(★★★★★+★★★★★)

2010-12-05 10:30:20 | 午前十時の映画祭

監督 マルセル・カルネ 脚本 ジャック・プレヴェール 出演 アルレッティ、ジャン= ルイ・バロー、ピエール・ブラッスール、ピエール・ルノワール、マリア・カザレス、マルセル・エラン

 この映画の充実は冒頭の「犯罪大通り」とラストのシーンに象徴されている。スクリーンからあふれる群衆。手前で重量挙げ(?)の大道芸、遠くでカンカン踊りの呼び込み――が1カットに納まる。あ、いったい何人動員して撮影したんだろう。リハーサルはどうしたんだろう。手間がかかるよなあ。でも、その手間を惜しまず、丁寧に丁寧に作ったのがこの映画だ。
 そして手間暇をかけるといえば、やっぱり、恋愛。人生でいちばん手間がかかることを、ほんとうに丁寧に描いている。恋愛と同棲(セックス)と結婚は別、そして恋愛(愛)こそが人間の名誉がかかった大切なもの――というフランス人の「哲学」が、まあ、丁寧で丁寧で丁寧で、これは若者にはわかりませんねえ。
私は30年ほど前に見た時は、変な三角関係(二重の三角関係)くらいの見方しかできなかったが、いやあ、違いますねえ。
特に、男のうじゃうじゃとした「嫉妬」がすごい。女の方は「嫉妬」しない。セックスの結婚も超越して、ただ純粋に「愛」を生きている。信じている。きっぱりと、生きている。愛のプロだねえ。「愛に正しいも、間違いもない。ただ愛の人生があるだけだ」は「ウエストサイド物語」のなかのセリフだが、その女の「愛の人生」のなかで、男がうじゃうじゃしている、ああだ、こうだ、と悩み、決闘も、暗殺(?)もしてしまう。去った女を、必死に追いかける。
その出会いから別れまで、ほんとうに丁寧だなあ。
如実にあらわれるのが、セリフだ。ことばがどんどん磨かれてゆく。「愛している人同士にはパリは狭い」というのは、最初は「ほんとうに愛しているなら、必ずあえるはず。約束しないと会えないのは愛がないから」という拒絶の意味だったのが、「会いたい、会える」という祈りにかわる。最後は、その「狭い」パリ、狭い狭い犯罪大通りの人ごみの「狭さ」が愛し合っている2 人を引き裂いてしまう。「ガランス」と叫ぶ声をかき消してしまう。(「望郷」のラストみたいだなあ。)
そのほかのセリフも、愛が真剣になるばなるほど、とぎすまされ、無駄のないことばになっていく。どこをとっても「名セリフ」ばかりである。しかし、それが「ことば」として浮いてしまわないのは、役者の力だなあ。
その役者の力にあわせるように・・・。
「愛」の人生の一方、役者人生、芸人人生がオーバーラップするのも、おもしろいなあ。「芸人」を描いた映画ともいえる。「嫉妬」に苦しみ、その果てに「オセロ」を演じることができると確信するところなんか、すごいなあ。「女(恋愛)は芸のこやし」を地でやっている。「生活」が「芸」を育てていく。「生活」を「芸」のなかに次々にとりこんでゆく。「オセロ」のように人間理解だけではなく、嫌いな人間を芝居のなかでからかったり、アドリブで芝居をかえたり・・・たくましいねえ。
けっして見あきることのない映画、傑作中の傑作のこの映画が、しかし、第二次大戦中、ドイツの占領下でつくらたというのは奇跡だ。さすが恋愛の国フランス、映画の国フランスだね。



書きそびれたが、アルレッティは不思議な女優だ。私は、アルレッティを美人だと思ったことはないが、どんな視線も飲み込んでしまう(ひきつけるを通り越している)肉体をもっている。最初、見世物小屋の「ヌード」で登場するが、そのエセヌード、女体の秘密でさえ、なんというか怒ることを忘れさせる何かがある。だまされているのに怒りださない「紳士たち」の気持ちがなんとなく納得できる。人間ではなく「おんな」がそこにいる。それは「男」とは違っている。「おんな」としか言えない「いきもの」がまっすぐに存在している。その、「まっすぐ」の力がすごい。

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ピエトロ・ジェルミ監督「鉄道員」(★★★★★)

2010-11-28 15:12:52 | 午前十時の映画祭
監督 ピエトロ・ジェルミ 出演 ピエトロ・ジェルミ、アルフレード・ジャンネッティ、ルチアーノ・ヴィンセンツォーニ、エンニオ・デ・コンチーニ、カルロ・ミュッソ

 この映画はいつ見ても泣ける。泣かせる映画の「定番」という感じがする。子どもの視線が生きているのだ。子どもは何も知らない。何も知らないけれど、何でも理解している。そして、その理解というのは、たとえば最初の方に描かれる家族の喧嘩(娘の妊娠を知り、父親が怒る)のような場面にしっかり描かれている。子どもは、そこで実際に何があらそわれているかわからない。けれど、家族が喧嘩をすると哀しくなる--その哀しさを心底理解している。そういう理解の仕方である。
 ひとには言ってしまうと(わかってしまうと)困ることがある。秘密がある。大人はそれぞれ秘密を持っている。それは子どもだからといって犯してはいけない領域である。哀しみをとおして子どもはそれを直感的に理解している。この映画の少年は特にそういうことに敏感である。
 だから父親が家出(?)したあと、その父親がある酒場で女と話しているのをみかけても「お父さんはいなかった」と言ったりする。そして、そういう理解力こそが哀しみを哀しみにしているということがわからず、ひとりで哀しみに閉じこもる。
 そういう子どもが見せる一瞬の転換点。それも、この映画はとてもていねいに描いている。
 姉が泣いている。好きでもない男と結婚し、別れ、昔つきあっていた男につきまとわれ……という姉が、少年の前で泣く。「なぜ、泣くの」「おとなになれば、わかる」。そのことは秘密にしなければならないのだけれど、少年は母親に言ってしまう。「お姉さんはおとなになればわかるといったけれど、ぼくはいま知りたい」。
 そうなのだ。子どもは何でも理解する。しかし、その理解は「哀しい」という感情の理解であって、人間がどんなふうにして思い悩み、そんな行動をしてしまうのか、その行動を突き動かしているのは何なのか、ということは理解していない。わかっていない。それを知りたいといつも思っている。たしかに、それを知らない限りはおとなになれないのだと知っている。
 これに対して、母親がていねいに語る。家族は何でも話しあわないとだめ。思っていることを内に秘めると、それが少しずつ歪んで、ある日突然爆発する、という具合に。この母の語りかけが切実で胸を打つ。私はいつもここで泣いてしまうなあ。すべてを知っていて、それをつつみこみ、和解させようと願う母の(妻の、女の)祈りがでている。それは、夫や息子(長男)や娘にこそ語りかけたいことばである。でも、その語りかけたい、本当は聞いていもらいたい相手がいない。だから、本当は聞かせたくないたったひとりの子ども(末っ子)に向かって、涙で語ってしまうのだ。
 このお母さんは、女の哀しさと強さを体全体で具現化している。すばらしいなあ、と思う。

 女の哀しさ--といえば、娘(少年の姉)が父親に怒りをぶつけるシーンもいいなあ。「18歳まで木綿のストッキングだった。コートは父親のコートの仕立て直し。どんなに恥ずかしかったか」。「はずかしかった」というのは直訳なのか意訳なのかわからないが、感情(思い)をわかってもらえない切なさが一気に爆発する。そのとき、それまではっきりしなかった一家の暮らしぶり(どんなに貧しいか)が浮かび上がる。その描き方の「品のよさ」に、なぜか、胸を打たれる。



 鉄道の、特急のスピード感も、とてもいい。線路を特急の運転席から写しているのだが、枕木や風景の動きからスピード感がとても感じられる。剛直な感じがとてもいい。あ、この運転士(父親)そのものなのだ、と今回みて、初めてわかった。だから、冒頭に運転席から見た風景が描かれるのだ。
 この映画の主人公(父)は剛直に生きている。酒を飲むと止まらない。歌が大好きで、クリスマスでも酒場で飲むとついつい帰るのを忘れてしまう。そういう、一種のだらしない(?)男なのだが、そのだらしなさのなかに剛直さがある。家族を支えなければならない、そのためにはつらい仕事をしなければならない。長時間の運転。神経も磨り減ってしまう。就職しない長男と娘のことも気になって仕方がない。末っ子はまだ幼い。大家族なので、働いても働いても貧しくなるばかりだ。--息抜きは必要なのだ。その息抜きのときも、父は剛直に、つまり真剣に(?)息抜きをしてしまうので、ついついはめがはずれるのだ。
 この剛直な性格(?)がこの映画を貫く。描かれる生活は、剥き出しである。家のなかも、職場も、町で遊ぶ子どもたちでさえ、剥き出しである。「スト破り」という落書きの、剥き出しのやりきれなさ、子ども(少年の友達)に、そういうことばを書かせてしまう社会全体の感情の剥き出しさ加減--そこにある剛直としかいいようのない監督の厳しい視線。そして、そうやって剛直に生活をみつめることこそやさしさなのだ、やさしさが育つ場なのだと、観客は最後に知ることになるのだが……。
 「泣ける」から書きはじめてしまったので、剛直な美しさについては補足になってしまったが、この映画は、冒頭の特急のスピード感、それをしっかり定着させるカメラという点から再構成するようにしてみつめると、また違ったことが書けると思う。娘と父が喧嘩するシーン、「恥ずかしかった」と思い出を語るシーンについてももっと深く書けると思う。--で、「*」以後、少し補足した。



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ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン監督「雨に唄えば」(★★★★)

2010-11-26 10:12:34 | 午前十時の映画祭

監督 ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン 出演 ジーン・ケリー、ドナルド・オコナー、デビー・レイノルズ、ジーン・ヘイゲン、ミラード・ミッチェル

 冒頭の3人の黄色いレインコート姿の歌とダンスが楽しい。この黄色いレインコート、ほしくない? ほしいねえ。黄色いレインコートで雨のなかを歌いながら歩きたい。
 有名なジーン・ケリーの、雨のなかのダンスもいいなあ。雨にぬれながら無邪気に歌って踊りたいねえ。水たまりだ水をばしゃばしゃ。あ、できそうでできないことをやってしまうのが映画なんだねえ。
 そういう意味では、ジーン・ケリーが恋を打ち明けるとき、映画のセットを利用するのもおもしろいなあ。実際の黄昏ではなく、セットでつくりだす黄昏。風。風になびく、長い長いリボン(スカーフ?)。
 そして、アフレコのおかしさ。
 今ではトーキーが常識になってしまっているから軽い笑いだけれど、昔(1952年当時)はほんとうに大笑いだっただろうなあ。
 役者としては、ドナルド・オコナーの鍛え上げた動きが魅力的だ。芸達者、ということばがぴったり。客は笑わせるけれど、自分は笑わない--そういう一種の身にしみこんだ真剣さがスクリーンを引き締める。自分の位置をしっかり主張している。



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「ウエストサイド物語」(★★★★★)

2010-11-17 22:09:39 | 午前十時の映画祭
ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス監督「ウエストサイド物語」(★★★★★)

監督 ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス 音楽 レナード・バーンスタイン 作詞 スティーブン・サンドハイム 出演 ナタリー・ウッド、リチャード・ベイマー、ラス・タンブリン、リタ・モレノ、ジョージ・チャキリス

 私がはじめてスクリーンで見たのは沖縄返還の年、沖縄の映画館だった。アメリカサイズのスクリーンにびっくりした。田舎の映画館の5 倍くらいに感じた。映画感からはみ出すスクリーン、そしてそのスクリーンをはみ出す役者の踊り。後の方の席で見たのだが、最前列で見ているような気分だった。
 この映画の中で私が一番好きなのは「Gee, Officer Krupke (クラプキ巡査どの)」である。少年達がなぜ不良になったのかを歌う。レナード・バーンスタインの曲がすばらしいのはいうまでもないことだが、スティーブン・サンドハイムの詞がすばらしい。50年も前の作品だが、いまも同じ問題が存在している。まったく古びることがない。「Cool(クール)」も好きだ。
 役者はジョージ・チャキリスがポスターとダンスの影響だろうか、とても人気だったが(いまも人気かもしれない)、私はリタ・モレノが気に入っている。クライマックスで思わず嘘をつくシーンもいいけれど、その前のナタリー・ウッドとのやりとりのシーンが好きだ。「あんたの愛は間違っている」といったんはナタリー・ウッドを責めるのだが、ナタリー・ウッドに泣きつかれ「愛に正しいも間違っているもない。愛の人生があるだけ」という名台詞を口にする。
 女の、女による、女のための愛の名言――を通り越して、女そのものを語っている。ボーボワールは「女は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言って、それは20世紀の思想そのものになったけれど、これに匹敵するなあ。
 この強いことばを、強さを感じさせず、それこそ思想として語る。「寅さん」の「それを言っちゃおしまいよ」と同じ自然な正直さで語る。唸ってしまう。
 と、ここまで書いて思うのだが、「America (アメリカ)」も女が歌う歌詞がいいねえ。このころから時代を女性が確実にリードし始めたのだとわかる。最後に生き残るのがナタリー・ウッドというのは、そういう意味では象徴的かもしれない。

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エリア・カザン監督「エデンの東」(★★★★)

2010-11-08 12:59:41 | 午前十時の映画祭

監督 エリア・カザン 出演 ジェームズ・ディーン、ジュリー・ハリス、レイモンド・マッセイ

 この映画では役者だけではなくカメラも演技をする。ジェームズ・ディーンと双子の兄、父との夕食。テーブルをはさんで「聖書」を読む。そのときカメラは水平ではない。傾いている。これはジェームズ・ディーンと父との関係が不安定であることを象徴している。その象徴表現に「もの」、あるいは「音楽」をつかうのではなく、カメラが自ら不安定な位置をとる。カメラ自身の演技である。カメラが不安と不和を語る。ジェームズ・ディーンの姿勢、そして父の姿勢が不自然に傾いているが、それは彼ら自身の体の傾き以上にカメラが傾いているからである。この不自然さを伝えるために、カメラはテーブルの水平面を斜めに映し出す。広いスクリーンに傾いたテーブルが、落ち着かない父子のこころを語るように、ぐらぐら揺れる。
 ラストシーンでは、このカメラが安定する。卒中で倒れた父。そのそばで語りかけるジェームズ・ディーン。力を振り絞って父が何か語る。ジェームズ・ディーンは体を乗り出させ、耳を父の口元に近づける。そのときジェームズ・ディーンの体は傾いている。けれど、とても落ち着いている。安定感がある。彼自身のこころが決まっていて(安定していて)、それに合わせるようにカメラが水平にどっしり構えているからである。
 カメラ自身の演技が対照的な形でスクリーンに定着している。
 しかし、なぜ、こんな演技をカメラにさせたのだろうか。役者、ジェームズ・ディーンの演技に不安があったのだろうか。愛をもとめて揺れるこころ――ジェームズ・ディーンの陰りのある顔、その目は十分に不安を具体化しているように見えるが。もしかすると、美貌が不安を表現するには不似合いと、監督が判断したのかもしれない。そのままでは、観客はだれもストーリーや役者の演技を見ない。ただジェームズ・ディーンの顔を見るだけだと。
 けれど、カメラがどんなに演技をしようと、やはり観客はジェームズ・ディーンの顔しか見ないだろう。その、悲しみと喜びが一瞬のうちに入れ替わる顔の輝きしか見ないだろう。繊細な顔を流れる涙を見つめるだけだろう。
 他の役者達はそんな役どころである。しかし、ある時代、一瞬の生きたジェームズ・ディーンとともにスクリーンに存在したということは、他の役者にとって悪いことではないだろう。
 カメラの演技について書きすぎて書き忘れそうになったが、自然の描写がどっしりしていて、そのカメラの位置に感動した。(昔見た時は気がつかなかった。)ジェームズ・ディーンが氷を落とすシーンや、列車から溶けた氷の水がなだれ落ちるシーンなど、あ、いいなあと思った。

 


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ロブ・ライナー監督「スタンド・バイ・ミー」(★★★★)

2010-10-31 15:28:21 | 午前十時の映画祭

監督 ロブ・ライナー 出演 リヴァー・フェニックス、ウィル・ウィートン、キーファー・サザーランド

 冒頭、リチャード・ドレイファスの登場するシーンの風景が非常に美しい。山と原っぱ(丘?)の緑が美しい。いや、緑と書いたが、緑ではなく空気が美しいのだ。アメリカの田舎町。都会から遠く離れている。都会の匂いがない。都会はラジオから流れてくる音楽のなかにだけ存在する。それは田舎にとっては唯一のノイズだが、ノイズが逆に空気の透明さを輝かせる。音楽のノイズが透明な空気にあらわれて、きらきら光るエッジになる。そこにないもの、あってはいけないものさえ、美しく輝かせてしまう透明さ。それが、この映画のはじまりであって、またすべてである。
 4人の少年が、ふと聞いた死体を見つけにゆく。死体は、そもそもそこにあってはいけないものの代表だろう。あってはいけないものだけれど、だからこそ、少年たちを引きつける。そして、その死体を見に行きたい、見つけたいという欲望もまた、あってはいけないものだろう。あってはいけないのものだが、そういうものが純粋な少年をいきいきさせる。異様なことをする、常軌を逸脱する--そのことだけが人間に何かを教えてくれる。少年たちは無意識にそういうことを知っているのかもしれない。
 こういう無意識の危険、無意識の輝かしさは、あ、都会では無理だねえ。ニューヨークが舞台なら、こういう映画は成り立たない。
 田舎の、空気が透明な町だからこそ、こういうことができる。
 空気が透明ということは、その町で起きていることは、だれもが何もかも知っているということでもある。人間関係が、人間と人間のつながりが見える。誰と誰が兄弟であるとか、誰それの家は貧乏だとか、誰それの親は精神病院に入院しているとか--あらゆることが「見える」。見えていながら、ひとは時に知らないふりをするのだが、少年たちはそういう「ふり」をする術を知らない。少年たちは、その町の空気そのもののように、また透明なのだ。
 透明なままの少年たちが、しかし、小さな冒険の過程で少しずつ「不透明」を知る。実際にはいつも直面している「不透明さ」をより強く感じることになる。たとえば、ウィル・ウィートンは自分が父親に愛されていないという理不尽な思いに苦しんでいる。ノイズに苦しんでいるのだが、雑貨屋の男は少年の気持ちなど考えずに、死んでしまった兄をほめたたえ、そうすることで少年の存在を否定する。まるで、父親と同じである。ある価値観が、少年のありようをそのままでは受け入れないのだ。少年の透明さを受け入れるだけの、より深い透明さを大人はもっていない。
 リヴァー・フェニックスは給食代泥棒の濡れ衣を着せられている。盗んだ金は返そうとした。けれども、その金を教師に盗まれ、教師はその金でスカートを買ったらしい。「不透明なもの」が少年たちを傷つけている。少年たちをありのままみつめるのではなく、ある枠のなかに入れてしまって、自分たちの「暮らし」(価値観)を守るという「不透明さ」が、実は、世界に蔓延しているのだ。
 そこから、少年たちは、どうやって生きていくか--しかし、そんなことは、この映画は問題にしていない。ただ、その透明な少年たちが、透明なものを抱えたまま、互いにそばにいることを確認している。その時間を、ただ淡々と描いている。まるで、彼らが生きている町の自然そのもののように描いている。自然と呼応して生きている純粋な時間を描くだけである。
 木々の緑があり、川があり、光があふれている。そして町のそばには鉄道が通り、遠くの町(都会)とその世界を結んでいる。どの世界もどこかへつながっている象徴として鉄道はあるのだが、少年たちはまだ「鉄道」を持たない。鉄道ではなく(また、車でもなく)、ただ道なき道を歩いている。山と川との間を歩いている。
 いいようのない美しさにあふれる映画だ。いやだったこと、つらかったこと、悲しかったことさえ、透明さがあってはじめて見える輝きの一瞬と錯覚させる不思議な映画だ。あ、こういう時間はたしかに私にもあった--そう感じさせてくれる、なつかしい映画である。



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ビリー・ワイルダー監督「昼下がりの情事」(★★★★)

2010-10-25 23:56:40 | 午前十時の映画祭

監督 ビリー・ワイルダー 出演 オードリー・ヘップバーン、ゲイリー・クーパー

 役者が美しく見えるのは無理をしているときである--と言ったのはだれだったろうか。映画ではなく、舞台の上での肉体のことを言っているのだが、それは役者、舞台、肉体に限定されるとは限らないだろう。人間はだれでも無理をしているときに美しく見える。楽をしているときにもそれなりの美しさはあるだろうが、無理をしているときの方が輝く。
 この映画のなかでは、オードリー・ヘップバーンが演じる少女自体が「背伸び」しているのだが、この「背伸び」を見ていると、それが「役」なのかオードリー自身なのかわからなくなる瞬間がある。「背伸び」(無理)が少女を通り越して、オードリーを輝かせる。特に最後のホームでの涙はまるでダイヤモンドである。
 無理をしているから、体が痛む。こころが痛む。それが涙になってあふれだす。(髪をショールで多い、頭から顔だけを抜き出した「絵」が、また、強烈である。何もかもが消えて、ただ潤んだ目、見開かれた目と、その輝きだけ、という感じが強烈である。)
 このシーンは強烈に少女を感じさせる。

 と、書いたあとで、こんなことを書くのは変かもしれないが、オードリーの魅力のひとつは「少年性」にある、と思う。
 痩せて、背が高いせいかもしれないが、オードリーの肉体は「女性」を感じさせない。「少女」も感じさせない。まるで「少年」である。その肉体が、恋のために背伸びをするこころを演じるとき、それはそのまま少年になる。
 少女ももちろん背伸びをするだろうが、少年と少女を比較したとき、少女の方が早熟である。肉体が精神を追いこして成熟する。そのために、少女の背伸びは「こころ」よりも「肉体」の背伸びとして具体化されることが多いと思う。少年は、少女に比べると、肉体は遅れてやってくる。「妄想」が成熟するだけ成熟して(暴走するだけ暴走して?)、それを肉体が追いかける。
 この映画では、「肉体」はキス止まり。暴走しない。成熟しない。そのかわり、「妄想」はどんどん過激に突っ走る。それが少年っぽい。この少年性ゆえに、オードリーは女性にとても人気があるのでは、と、昔考えたことがある。
 オードリーに「女性」としてのライバル心を燃やさないのだ。逆に、異性として恋してしまうのだ。オードリーのような恋を夢見ながら、実はオードリーのなかに異性を感じている。つまり、オードリーのなかで、恋が完結する。相手はだれでもいいのである。ゲイリー・クーパーは見るからに「おじいさん」だが、オードリーの恋を見ている女性観客はきっとゲイリー・クーパーなど見ていない。オードリーだけを見ている。「ローマの休日」でも「麗しのサブリナ」でも、オードリーからかけ離れた(?)グレゴリー・ペックやハンフリー・ボガートなど、きっと見ていない。見ていても恋の相手ではなく、オードリーの引き立て役としか見ていないだろう。観客が見ているのはオードリーのなかで完結する「恋」なのだ。彼女個人のなかで完結するから、「肉体」はキス止まり。それ以上は絶対に進まない。

 この不思議な完結性の美--それはまた別のことばで言えば、「未熟」の美しさかもしれない。未熟が美しいというのは奇妙な言い方だが、純粋ということでもある。完熟したものは矛盾を、毒を含んでいる。毒こそがあらゆる美の頂点かもしれないが、そういうものを排除した透明さ。そういう無理(人間が完熟することを拒むというのは、とても無理な生き方である)が、オードリーにはとても似合うということかもしれない。



 この映画を私は「午前十時の映画祭」で見直したのだが、1点、びっくりしたことがあった。原題が「Love in the Afternoon 」。私は「ファシネーション」と記憶していた。なぜだろう。昔、福岡の中州大洋で見たはずだが、そのとき「あ、原題は『ファシネーション』なんだ」と思ったことを鮮明に覚えている。なぜ、そんなふうに思い込んだのだろう。




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