監督 マーティン・スコセッシ 出演 ロバート・デ・ニーロ、ジョディ・フォスター
映画の始まりがとても好きだ。地下鉄の蒸気がスクリーンを覆っている。その奥から黄色いタクシーがぬーっとあらわれる。その、ゆっくりしたスピードがおもしろい。目的地があるのではなく、また走るというのでもなく、時間をつぶす――という感じの無意味さ、無為の感じが、えっ、ニューヨークってこんな虚無にみちた街、と驚かされる。雨、雨にぬれた光があらゆるものにこびり着き、眠らない街を印象付ける。ただし眠らないといっても、活気にみちているというのではなく、疲れて眠れない――ロバート・デ・ニーロが演じる主人公そのままに、何もすることがなくて不眠症、しかたなく起きている、という感じが不気味である。ときどきみせる人なつっこい笑顔が、べたあっと肌にからみついてくる。あ、孤独で、人に餓えているのだ。
眠れない男、何もすることがない男がニューヨークで見るのは、何もすることがなくて、それでも起きていて、時間つぶしにうごめく人々である。売春、ドラッグの売人、気弱な人間はポルノ映画館に逃げ込んでいる。汚れた人々。雨のなか、タクシーを走らせながら、この汚れをすべて洗い流す雨が降ればいいのに、と思っている。そういう男が副大統領の選挙ボランティアの女性を「はきだめの鶴」のように感じ、ひと目ぼれし、振られ、復讐として副大統領を暗殺しようとし、失敗し・・・と、ちょっとイージーなストーリーの果てに、ジョディ・フォスターが演じる売春の少女を組織から救い出そうとする。あ、なんだかいやあなストーリー。
でも、この当時のジョディ・フォスターは歯の矯正がまだすんでいなくて、前歯がすいている。醜いところが残っているのだが、それがリアリティになっている。演技というより、ふとみせるしぐさ、こんなことをしたって・・・という感じの表情がすばらしい。映画に対する変な怒りが感じられる。それはやっている少女売春婦という存在に対する怒りかもしれないが、それが彼女を清潔にしている。こういう表情をできる役者は好きだなあ。「人間の地」が美しい。
ロバート・デ・ニーロが銃に目覚めていくシーンもひきつけられる。ホルダーを改良し、使い心地を試すところなんか、いいなあ。銃という凶器に、男の狂気が重なってゆく。副大統領候補を暗殺して、デ・ニーロを振った女の目を引きつける。引き付けたい。あるいはジョディ・フォスターを悪から救いたい――あ、この二つ、まったく逆方向の動きだねえ。暗殺は完全な悪、少女救出は善意。正反対のものが、矛盾せずにデ・ニーロの「肉体」のなかで結びついている。だから、狂気なんだなあ。細い体が、ストイックな肉体鍛錬でさらに細くなっていくところが、むき出しの精神をみるようで、ちょっとぞくぞくする。
警官に囲まれ、自分の指で頭を撃ち抜くポーズをとるところも好きだなあ。ポーズだけではなく、口で音にならない音を出すふりをするところがいい。デ・ニーロがやったことは、どんなに現実と交渉があっても「ふり」なのだ。デ・ニーロの頭のなかで完結した世界なのだ。知っていて、にたーっと笑う。その笑顔が悲しい。ジョディ・フォスターの「地」と同じく美しい・
そして、その頭のなかの完結と、現実は、結局は分離する。ジョディ・フォスターの両親はデ・ニーロに感謝の手紙はよこすが、直接は会わない。デ・ニーロを振った女はデ・ニーロのタクシーに乗るが、それだけ。後者は、デ・ニーロの方が近づいて行かないのだけれど。
――でも、この部分が説明的すぎるし、センチメンタルでいやだなあ。指鉄砲で「ぽふっ、ぽふっ」とやっているところで終われば傑作なのになあと思う。冒頭の地下鉄の蒸気、そこからあらわれるタクシーのボディーがどうすることもできない「現実」だったのに、最後のバックミラーにうつる世界、窓越しに見える滲んだ光はセンチメンタルな「孤独」という夢想になってしまった。「孤独」を描いているうちに、「孤独」によごれてしまった。
(「午前十時の映画祭」青シリーズ13本目、天神東宝6)
映画の始まりがとても好きだ。地下鉄の蒸気がスクリーンを覆っている。その奥から黄色いタクシーがぬーっとあらわれる。その、ゆっくりしたスピードがおもしろい。目的地があるのではなく、また走るというのでもなく、時間をつぶす――という感じの無意味さ、無為の感じが、えっ、ニューヨークってこんな虚無にみちた街、と驚かされる。雨、雨にぬれた光があらゆるものにこびり着き、眠らない街を印象付ける。ただし眠らないといっても、活気にみちているというのではなく、疲れて眠れない――ロバート・デ・ニーロが演じる主人公そのままに、何もすることがなくて不眠症、しかたなく起きている、という感じが不気味である。ときどきみせる人なつっこい笑顔が、べたあっと肌にからみついてくる。あ、孤独で、人に餓えているのだ。
眠れない男、何もすることがない男がニューヨークで見るのは、何もすることがなくて、それでも起きていて、時間つぶしにうごめく人々である。売春、ドラッグの売人、気弱な人間はポルノ映画館に逃げ込んでいる。汚れた人々。雨のなか、タクシーを走らせながら、この汚れをすべて洗い流す雨が降ればいいのに、と思っている。そういう男が副大統領の選挙ボランティアの女性を「はきだめの鶴」のように感じ、ひと目ぼれし、振られ、復讐として副大統領を暗殺しようとし、失敗し・・・と、ちょっとイージーなストーリーの果てに、ジョディ・フォスターが演じる売春の少女を組織から救い出そうとする。あ、なんだかいやあなストーリー。
でも、この当時のジョディ・フォスターは歯の矯正がまだすんでいなくて、前歯がすいている。醜いところが残っているのだが、それがリアリティになっている。演技というより、ふとみせるしぐさ、こんなことをしたって・・・という感じの表情がすばらしい。映画に対する変な怒りが感じられる。それはやっている少女売春婦という存在に対する怒りかもしれないが、それが彼女を清潔にしている。こういう表情をできる役者は好きだなあ。「人間の地」が美しい。
ロバート・デ・ニーロが銃に目覚めていくシーンもひきつけられる。ホルダーを改良し、使い心地を試すところなんか、いいなあ。銃という凶器に、男の狂気が重なってゆく。副大統領候補を暗殺して、デ・ニーロを振った女の目を引きつける。引き付けたい。あるいはジョディ・フォスターを悪から救いたい――あ、この二つ、まったく逆方向の動きだねえ。暗殺は完全な悪、少女救出は善意。正反対のものが、矛盾せずにデ・ニーロの「肉体」のなかで結びついている。だから、狂気なんだなあ。細い体が、ストイックな肉体鍛錬でさらに細くなっていくところが、むき出しの精神をみるようで、ちょっとぞくぞくする。
警官に囲まれ、自分の指で頭を撃ち抜くポーズをとるところも好きだなあ。ポーズだけではなく、口で音にならない音を出すふりをするところがいい。デ・ニーロがやったことは、どんなに現実と交渉があっても「ふり」なのだ。デ・ニーロの頭のなかで完結した世界なのだ。知っていて、にたーっと笑う。その笑顔が悲しい。ジョディ・フォスターの「地」と同じく美しい・
そして、その頭のなかの完結と、現実は、結局は分離する。ジョディ・フォスターの両親はデ・ニーロに感謝の手紙はよこすが、直接は会わない。デ・ニーロを振った女はデ・ニーロのタクシーに乗るが、それだけ。後者は、デ・ニーロの方が近づいて行かないのだけれど。
――でも、この部分が説明的すぎるし、センチメンタルでいやだなあ。指鉄砲で「ぽふっ、ぽふっ」とやっているところで終われば傑作なのになあと思う。冒頭の地下鉄の蒸気、そこからあらわれるタクシーのボディーがどうすることもできない「現実」だったのに、最後のバックミラーにうつる世界、窓越しに見える滲んだ光はセンチメンタルな「孤独」という夢想になってしまった。「孤独」を描いているうちに、「孤独」によごれてしまった。
(「午前十時の映画祭」青シリーズ13本目、天神東宝6)
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