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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウィリアム・ワイラー監督「大いなる西部」(★★★★)

2011-03-13 01:15:54 | 午前十時の映画祭
監督 ウィリアム・ワイラー 出演 グレゴリー・ペック、ジーン・シモンズ、キャロル・ベイカー、バール・アイヴス

 題材は西部劇だが、内容は西部劇じゃないなあ。何度か繰り返されるグレゴリー・ペックの台詞「自分の居場所はわかる(知っている)」が象徴的だが、まあ、なんというか説教臭い映画である。
 ウィリアム・ワイラーとしては異色の西部劇をつくってみたかったということなんだろうなあ。だから、主人公は東部の船乗り(船長)という「大いなる西部」とはまったく異質なものを狂言回しにしている。異質なものが西部にまぎれこむことで、西部の「本質」を浮かび上がらせているのだ。
 で、この狙いというか、意図を具現化しているのがバール・アイヴス。ヘネシー。ブロンコ谷の野蛮な一家の父親。太っていて醜く、たぶん教養もない、という設定。けれど、この親父は人の本質を見抜く。真実を生きている人間を見抜く。「正義」を見抜く。
 ひとは見かけで判断してはいけないんだねえ。
 彼が信じているのは、卑怯なことはしない。正々堂々と向き合い、真剣に勝負するのが男であるという思想である。それが、親父の「正義」である。彼は「正義」を実行している。いつでも、「正義」だけを実行する。
 この愚直なまでの「正義」のこころは、ときに悲劇を呼ぶ。
 卑劣な行為をする人間がいれば、それが自分の息子であろうと殺す。もちろん、殺したあと、親父は悲しむのだが、その悲しみはギリシャ悲劇のように感動的であり、同時に官能的である。正義の悲しみが、とても美しい。
 最後の少佐との決闘も、劇の結末をぐいと引き寄せ、結晶させる。そこにも「正義」の力がある。
 バール・アイヴスの演技をみていると、ウィリアム・ワイラーは、無法者を保安官が倒すという「正義」ではなく、カウボーイの「正義」、西部を開拓して生きる男の「正義」を描きたかったのだということがわかる。バール・アイヴスはウィリアム・ワイラーの思想を肉体で具体化している。
 この映画のもうひとつの見物は広大な風景である。
 ブロンコ谷(白い谷)の岩の美しさ。砂漠といっていいような荒地と、うねるような大地の起伏、そのどこかにある水。そして、光。その広大な世界を生きていくには、バール・アイヴスの「正義」が絶対必要なのだと感じさせてくれる。
 あるいは逆に言うべきなのか。
 「正義」によって、広大な土地が絶対的な美しさに変わっていく。バール・アイヴスの存在が、この西部劇の舞台そのものを完璧な美しい土地に変えてしまう。
              (「午前十時の映画祭」青シリーズ6本目、天神東宝)


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